23日訪問:一乗寺界隈、詩仙堂、圓光寺、曼殊院
(写真は青蓮院)
曼殊院の裏にある関西セミナーハウスに宿泊した甲斐あって、狙い通り早朝の静かな一乗寺界隈を独り占め。曼殊院前は葉が赤く色づいていく途中で、色彩が豊か。ここ数日冷え込みが厳しくなったお蔭で一気に紅葉が進んだようだ。
開門1時間前に詩仙堂到着。あまりにも早いのですぐ近くにある神社へお参り。30分前に並び始める。さすがにトップバッター。しかしほぼ時を同じくしてカメラマンが次々現れる。やはり本気の人は早朝勝負。開門、皆オトナなので秩序正しく進む。そしてその庭の紅葉の見事なこと!あまりにも美しく一瞬撮影を忘れて見とれてしまう。サツキの刈込のすぐ奥に紅葉した木々が連なって見えるように配置されている。それにしても、カメラマンのマナーがすばらしかった。お互いに邪魔しないように気遣いながらの撮影で気持ちが良い。
<詩仙堂>
京都市左京区一乗寺門口町27
拝観時間:9:00~17:00
作庭家:石川丈山
作庭時期:1641(寛永18)年~
詩仙堂は、徳川武将であった石川丈山が1641年この地に隠棲した際に建てられた。造営当初は、起伏に富んだ土地に建てられたため、「凹凸彙(おうとつか)」と名付けられた。詩仙堂と呼ばれるようになったのは、狩野探幽画の中国三十六詩仙の肖像画と丈山自筆の各詩仙の詩を部屋の四壁に掲げたことによる。ちなみに、現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺となっている。丈山は、武将としてのみならず、桂離宮や本願寺枳殻邸の庭の補習にも関わり、作庭家としても知られていたようだ。書院南庭は、砂地の大海にサツキの刈込が島々を想起させ、背後は庭園下段のモミジを借景としている。紅葉の時期はモミジの赤が眼前に迫るように構成されている。詩仙堂の東、「洗蒙瀑(せんもうばく)」から流れ出る水は庭園内を静かなせせらぎとなって巡り、丈山考案の僧都(そうづ)の音色が静けさを増幅させるかのように時折響きわたる。庭園下段は百の花を配したという意で「百花塢(ひゃっかのう)」と呼ばれ、丈山の時代のものではなく後年拡張された庭。四季折々の花々を楽しむことができ、書院前のシンプルな庭と好対照を見せる。
次に圓光寺、十牛の庭へ。既に人で溢れ返っている。団体客も到着済み。以前晩春に訪れた時はひとりぽっちだったのに。紅葉が持つ人の集約力、恐るべし。水琴窟の音は喧騒で掻き消され気味、というか気が付く人もまばら。
<圓光寺>
京都市左京区一乗寺小谷町13
拝観時間:9:00~16:30
作庭者:不明
作庭時期:江戸時代
1601(慶長6)年、徳川家康が足利学校の僧である三要元佶(閑室)を招き伏見に建立した圓光寺学校がその起源。後に相国寺山内に移り、更に1667(寛文7)年、現在の地に移された。本堂前の水琴窟は、玉をころがすような軽やかな音色。紅葉の季節は多くの参拝客で賑わうが、季節外れには訪れる人も少なく静けさが一層深まる。書院前の「十牛の庭」は、洛北最古の池「栖龍池」のある回遊式庭園。その名は「十牛の図(じゅうぎゅうのず)」にちなんだもので、牛を捕まえる過程から悟りへの10の段階を説いた教えを庭に置き換えて造られた。
今回最後の訪問地である曼殊院へ。人は多いが書院から庭を眺めるので比較的邪魔にならない。しかし、紅葉は5分程度。
紅葉は確かに美しいが、庭の魅力をじっくり楽しむには邪魔になる。皆、紅葉ばかりを褒め称え庭の意匠には無頓着でもったいない。特に曼殊院は「小さな桂離宮」と称されるだけあって建物の意匠も見事、じっくり見れば見るほど発見があって見応え満点。
<曼殊院>
京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
拝観時間:9:00~16:30
作庭家:良尚法親王説が有力
作庭時期:1656(明暦2)年~
曼殊院は、代々皇室一門が入寺される天台宗の門跡寺院。桂離宮の創建者八条宮智仁親王の息子である良尚法親王が天台座主となり、明暦2年に入寺。親王自ら作庭されたといわれている。書院は、桂離宮の書院群と類似しているため、「小さな桂離宮」ともいわれている。江戸時代初期の代表的書院建築である。庭園は、大書院と小書院の南側に広がる、遠州好みの枯山水。小書院前にはアカマツを植えた亀島、大書院前には樹齢約400年のゴヨウマツが目を引く鶴島が置かれている。ゴヨウマツの根元には曼殊院燈籠(或いはクルス燈籠)と呼ばれるキリシタン燈籠がある。庭園の東南奥に、一際目立つ滝石が配され、そこから白砂の流れが海となり庭園全体に広がっていき、そこに島々が浮かんでいるようなデザインになっている。石橋に用いられている巨石は長さ2メートルはあろうかという紀州石で、その青みがかった色彩が島々を覆う苔の緑と調和している。さらに、小書院北東奥には、遠州好みと伝えられる茶室「八窓軒」がある。茶室前には方形の手水鉢がしつらえられた蹲踞があり、南庭とは異なる露地の趣が楽しめる。禅的な力強さと王朝風の高雅な雰囲気が見事に一体となった庭園は、江戸時代初期の代表的書院建築である建築物とともに見応えがある。重森三玲氏とその子息である重森完途氏が著した「日本庭園史体系」で、完途氏は「和歌の持っているリズムが感じられる文学的な庭園といってもよい」と述べている。
午後の混雑を避けて帰京。しかし懸案事項だった右膝の痛みがひどくなり、落語をキャンセル、東京駅から救急で東京医大へ。水が溜まって膝頭が見えない状態、1.5倍に腫れ上がっている。どうりでしゃがめないわけだ。すぐに抜いてもらって応急処置。しかし原因が判らず気持ちが悪い。
(写真は青蓮院)
曼殊院の裏にある関西セミナーハウスに宿泊した甲斐あって、狙い通り早朝の静かな一乗寺界隈を独り占め。曼殊院前は葉が赤く色づいていく途中で、色彩が豊か。ここ数日冷え込みが厳しくなったお蔭で一気に紅葉が進んだようだ。
開門1時間前に詩仙堂到着。あまりにも早いのですぐ近くにある神社へお参り。30分前に並び始める。さすがにトップバッター。しかしほぼ時を同じくしてカメラマンが次々現れる。やはり本気の人は早朝勝負。開門、皆オトナなので秩序正しく進む。そしてその庭の紅葉の見事なこと!あまりにも美しく一瞬撮影を忘れて見とれてしまう。サツキの刈込のすぐ奥に紅葉した木々が連なって見えるように配置されている。それにしても、カメラマンのマナーがすばらしかった。お互いに邪魔しないように気遣いながらの撮影で気持ちが良い。
<詩仙堂>
京都市左京区一乗寺門口町27
拝観時間:9:00~17:00
作庭家:石川丈山
作庭時期:1641(寛永18)年~
詩仙堂は、徳川武将であった石川丈山が1641年この地に隠棲した際に建てられた。造営当初は、起伏に富んだ土地に建てられたため、「凹凸彙(おうとつか)」と名付けられた。詩仙堂と呼ばれるようになったのは、狩野探幽画の中国三十六詩仙の肖像画と丈山自筆の各詩仙の詩を部屋の四壁に掲げたことによる。ちなみに、現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺となっている。丈山は、武将としてのみならず、桂離宮や本願寺枳殻邸の庭の補習にも関わり、作庭家としても知られていたようだ。書院南庭は、砂地の大海にサツキの刈込が島々を想起させ、背後は庭園下段のモミジを借景としている。紅葉の時期はモミジの赤が眼前に迫るように構成されている。詩仙堂の東、「洗蒙瀑(せんもうばく)」から流れ出る水は庭園内を静かなせせらぎとなって巡り、丈山考案の僧都(そうづ)の音色が静けさを増幅させるかのように時折響きわたる。庭園下段は百の花を配したという意で「百花塢(ひゃっかのう)」と呼ばれ、丈山の時代のものではなく後年拡張された庭。四季折々の花々を楽しむことができ、書院前のシンプルな庭と好対照を見せる。
次に圓光寺、十牛の庭へ。既に人で溢れ返っている。団体客も到着済み。以前晩春に訪れた時はひとりぽっちだったのに。紅葉が持つ人の集約力、恐るべし。水琴窟の音は喧騒で掻き消され気味、というか気が付く人もまばら。
<圓光寺>
京都市左京区一乗寺小谷町13
拝観時間:9:00~16:30
作庭者:不明
作庭時期:江戸時代
1601(慶長6)年、徳川家康が足利学校の僧である三要元佶(閑室)を招き伏見に建立した圓光寺学校がその起源。後に相国寺山内に移り、更に1667(寛文7)年、現在の地に移された。本堂前の水琴窟は、玉をころがすような軽やかな音色。紅葉の季節は多くの参拝客で賑わうが、季節外れには訪れる人も少なく静けさが一層深まる。書院前の「十牛の庭」は、洛北最古の池「栖龍池」のある回遊式庭園。その名は「十牛の図(じゅうぎゅうのず)」にちなんだもので、牛を捕まえる過程から悟りへの10の段階を説いた教えを庭に置き換えて造られた。
今回最後の訪問地である曼殊院へ。人は多いが書院から庭を眺めるので比較的邪魔にならない。しかし、紅葉は5分程度。
紅葉は確かに美しいが、庭の魅力をじっくり楽しむには邪魔になる。皆、紅葉ばかりを褒め称え庭の意匠には無頓着でもったいない。特に曼殊院は「小さな桂離宮」と称されるだけあって建物の意匠も見事、じっくり見れば見るほど発見があって見応え満点。
<曼殊院>
京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
拝観時間:9:00~16:30
作庭家:良尚法親王説が有力
作庭時期:1656(明暦2)年~
曼殊院は、代々皇室一門が入寺される天台宗の門跡寺院。桂離宮の創建者八条宮智仁親王の息子である良尚法親王が天台座主となり、明暦2年に入寺。親王自ら作庭されたといわれている。書院は、桂離宮の書院群と類似しているため、「小さな桂離宮」ともいわれている。江戸時代初期の代表的書院建築である。庭園は、大書院と小書院の南側に広がる、遠州好みの枯山水。小書院前にはアカマツを植えた亀島、大書院前には樹齢約400年のゴヨウマツが目を引く鶴島が置かれている。ゴヨウマツの根元には曼殊院燈籠(或いはクルス燈籠)と呼ばれるキリシタン燈籠がある。庭園の東南奥に、一際目立つ滝石が配され、そこから白砂の流れが海となり庭園全体に広がっていき、そこに島々が浮かんでいるようなデザインになっている。石橋に用いられている巨石は長さ2メートルはあろうかという紀州石で、その青みがかった色彩が島々を覆う苔の緑と調和している。さらに、小書院北東奥には、遠州好みと伝えられる茶室「八窓軒」がある。茶室前には方形の手水鉢がしつらえられた蹲踞があり、南庭とは異なる露地の趣が楽しめる。禅的な力強さと王朝風の高雅な雰囲気が見事に一体となった庭園は、江戸時代初期の代表的書院建築である建築物とともに見応えがある。重森三玲氏とその子息である重森完途氏が著した「日本庭園史体系」で、完途氏は「和歌の持っているリズムが感じられる文学的な庭園といってもよい」と述べている。
午後の混雑を避けて帰京。しかし懸案事項だった右膝の痛みがひどくなり、落語をキャンセル、東京駅から救急で東京医大へ。水が溜まって膝頭が見えない状態、1.5倍に腫れ上がっている。どうりでしゃがめないわけだ。すぐに抜いてもらって応急処置。しかし原因が判らず気持ちが悪い。