京都御苑内の閑院宮邸跡は、御苑内に現存する唯一の宮家の邸宅遺構とされていますが、厳密には建物の一部の部材のみが旧閑院宮邸のものである、というのが実状です。
上図の主屋をはじめとする建物群は、明治十六年(1883)に宮内省京都支庁として建てられたものです。その建設当時、残っていた旧閑院宮邸の建物を再利用または建築部材の転用を行なったようなのですが、どこからどこまでが旧閑院宮邸のものである、というような説明や解説は、邸内の展示室のどこにも見当たりませんでした。詳しいことが不明になってしまっているのかもしれません。
なので、正しくは宮内省京都支庁跡、とするのが現存建築群の実態に合っていると思います。たまたまその位置が旧閑院宮邸跡にあたっているため、遺跡名称は歴史や由緒の重視傾向により、古いほう、格式の高い方になっているわけです。
現存建築群が宮内省京都支庁跡であることは、隣接して遺構面が平面復原展示されている宮内省所長官舎跡があることからも実感出来ます。上図の案内板の図から、かなりの規模の立派な施設であったことがうかがえます。
現在はこのように遺構面が平面復原展示されています。完全復原すれば、いまの現存建築群とあまり変わらないぐらいの規模になるでしょう。
いまは宮内庁ですが、戦前まではランク上の宮内省でしたから、その所長官職というのは相当な高級官僚です。いまで言うなら局長クラスに相当するでしょうか。
なので、宮内省所長官舎跡に付属する庭園も立派です。すぐ近くに旧閑院宮邸の庭園があるのに、こういう庭園を新たに造ってしまうのですから、いかに当時の宮内省が贅沢していたかが分かります。
ただ、明治期の作庭ですから、これまでの伝統的な庭園に比べると見劣りします。やたらに石を積んで景石も多く配置する傾向がありますが、全体的にゴチャゴチャしてしまって、庭園としての景観の質も落ちてしまいます。お金をかけたのでしょうが、もったいないことをしています。
庭園内に古式な礎石とみられるものがありました。古代以来の寺院や宮殿の礎石に似た造りを示しますが、実際に古いものであるのかもしれません。京都御苑のエリアは、平安京の時代には藤原氏関連の邸宅が多かった地域ですので、その関連の遺物である可能性が考えられます。
旧閑院宮邸、実際には宮内省京都支庁跡の現存建築群が一般公開されていましたので、中に進みました。玄関の造りを見て、宮家の格式ではなく、政庁クラスの標準的な形式であることに納得しました。
中の廊下も、宮家らしい雅な要素が皆無です。戦前の学校や役場の内部を思わせる簡素なしつらえです。間違いなく宮内省京都支庁跡の建物だな、と改めて実感しました。
現存の建築群は、上図の広い正方形の中庭を囲んで四方に建物が繋がりますが、この建て方自体が皇室および宮家の建築にはあまりなく、むしろ武家の御殿や大型屋敷の標準的なパターンに近いです。長屋門や番所を備えている点からも、宮内省京都支庁の建物が武家風の庁舎のスタイルを踏襲していることがうかがえます。
上図左の建物までが一般参観の範囲で、右の建物はレクチャーホールです。残りの建物は環境省の京都御苑管理事務所や国民公園協会の施設となっていますので、外観のみの復原であったようです。
ですが、一般参観エリアの展示室の奥の一室に入って木組みを見た途端、アレ、と気付きました。この部屋だけが伝統的な公家屋敷の造りを示しているのでした。虹梁と蟇股、素束と平肘木、化粧屋根の基本3要素が揃っています。同行者が、ここが旧閑院宮邸の転用じゃないかな、と話していましたが、同感でした。
室内の説明板も、旧閑院宮邸からの転用の可能性を示唆するような内容にて簡潔に述べられています。最も立派な造り、とありますが、もっとハッキリと「伝統的な公家屋敷の基本3要素、虹梁と蟇股、素束と平肘木、化粧屋根、が見られる」というように書いてほしいところです。
外の縁側に出ると、もとの簡素な武家屋敷ふうの官舎の外観のみになります。雅な公家空間から、質素な公僕空間に移ったという気がしました。
縁側からは旧閑院宮庭園が見えますが、ただ縁側であるというだけで、庭園を愛でるための広縁や廻縁の造りは全くありませんでした。ちょっと距離もありますので、現存の建築群があまり旧閑院宮庭園を意識していなかったことが察せられます。
ひょっとすると、明治期に宮内省京都支庁が置かれた当時の旧閑院宮庭園は、いまのように明確に整備されていなくて、すでに廃して埋まっていたのかもしれません。 (続く)