八田家書院の見学の手始めに、上図の旧石和陣屋表門をくぐりました。時間的余裕は25分ぐらいでしたので、急いで見て回ることにしました。
東面する旧石和陣屋表門の裏に隣接して南向きに建っている、通用門みたいな雰囲気の小さな門です。南側の環濠を渡る小橋から入る場合はこの門をくぐります。旧石和陣屋表門を移築する前までは、この門が八田家書院の表門だったのではないかな、と思いましたが、確認することは出来ませんでした。
書院の周りを環濠が巡っています。防御線ともなる施設で、中世戦国期の武士や有力層の屋敷には一般的にみられたものですが、いまも水をたたえて現存している事例は極めて稀です。
さきの小さな門の前の小橋です。いまは石橋になっていますが、本来は木橋であったことでしょう。環濠の水量を調節する関門が小橋の下に設けられています。これに閉塞板を落とせば、南側と東側の環濠は隔てられて水位も変えることが出来るのでしょう。
八田家書院の建物です。八田家の御朱印屋敷に付属する別棟書院であったもので、屋敷の南に位置しています。現存の建物は江戸初期の遺構で、八田家所蔵の古文書や八田家の菩提寺である真言宗寺院願念寺の書付から慶長六年(1601)の建立であることが判明しています。関ヶ原合戦の翌年にあたります。
八田家書院の内部は西に奥の間、中央に中の間、東に三の間を配置して東西の三室から成り、これに玄関が設けられています。上級武士を招いた記録が残っていることから、接客や応待の場として機能したことが伺えます。戦国期武家居館のいわゆる会所部分に相当しますが、ここの建物は簡素な意匠でまとめられており、屋根も藁葺きです。
関ヶ原合戦の翌年に建てられたのですから、まだ戦国期の余燼がくすぶっている時期の建物であるわけで、建築技法的には戦国期の延長上にあるものと理解出来ます。戦国期居館の面影を垣間見るような気分にさせられたのも当然でしょう。
八田家は戦国期には甲斐武田氏の家臣として御蔵前衆(蔵奉行)を務める一方、在郷商人としての活動も知られています。江戸期には徳川家康より諸役免許状(朱印状)を受けて安堵され、有力郷士となりました。現在の屋敷地は戦国期以来の位置を保っていますが、規模は縮小されて旧地の多くは宅地化によって失われているそうです。
かつての屋敷跡は変形方形の平面を占めて東西120メートル、南北150メートルの規模であったそうです。現在の八田家書院の区画はその北東部分に相当し、その北側にはいまも上図のように土塁が残ります。
土塁は幅10メートル前後の規模を示します。内側は竹林のままで、まさに戦国期居館の雰囲気そのものでした。土塁の外側には堀が巡らされていましたが、殆どは埋められたりして一部が東側の旧石和陣屋表門の前などに残ります。
北側からみた残存土塁です。中にある八田家書院の建物は全然見えませんでした。土塁が目隠しの機能を併せ持っていたことがよく理解出来ます。
土塁は西側で斜めに伸びていました。変形方形の平面を持つ居館であった様子がよく分かりますが、屋敷地の外郭塁線をこのように不整形に配置する点にも、戦国期の防御思想の一端がうかがえて興味深いです。
かくして25分はあっという間に過ぎました。次の列車の時刻が迫ってきたので、石和温泉駅へ戻って自転車を返却し、ホームへ急ぎました。 (続く)