気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

吉田社から真如堂へ4 宗忠神社から真如堂へ

2023年03月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 吉田神社の大元宮を辞して、南の広場から東へと登り、そして下りかけると、右手に上図の鳥居がありました。ここにも神社があるのか、と鳥居の額を見上げると、「宗忠神社」と読めました。

 変わった名前の神社だな、と思いつつ、宗忠が人名であれば、藤原氏中御門流の右大臣宗忠が居るけれど、と考えました。藤原時代後期の一次史料として名高い日記「中右記(ちゅうゆうき)」を書いた人です。しかし、政治的にも歴史的にも大きな功績を残したわけではないので、彼に関連する神社があるとは考えにくい、と思いました。

 あとは、宗忠という歴史人物は誰がいるか、と鳥居の前でしばらく考えましたが、黒住教の教祖である黒住宗忠しか思い浮かびませんでした。黒住宗忠に関しては彼の故郷の岡山にも宗忠神社があって、岡山へよく行っていた時期に一度前を通った記憶があります。その宗忠神社と同名の神社が京都にあるとは聞いたことがなかったので、違う宗忠なのかもしれない、と思いました。

 とりあえず、立ち寄ってどのような神社なのかを確かめてみよう、と鳥居をくぐって境内に進みました。

 

 ところが、こちらの宗忠神社も黒住宗忠を祭神とする黒住教の神社でありました。岡山の宗忠神社の分社のような位置にあるようでした。やっぱり黒住宗忠で間違いなかったのか、と思いつつ、つまりは伊勢神宮系の祭祀拠点であるな、と納得しました。

 黒住教は日本の神道における宗派神道の一つで、江戸時代までの伊勢神宮、出雲大社、富士山、御嶽山などの講組織や、江戸時代以降に起こった新宗教を含めて明治時代に神道を宣教する教派として段階的に公認されていった神道系教団の一つにあたります。また、同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられます。

 その教義は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を八百万の神の本体とみなし、天照大御神が枝葉のように分化した存在が八百万の神であるとするものです。端的に言えば伊勢神道の分派とみられる内容ですが、教典は作られず、日々の生活の上での七つの心得と、日の出を拝む修行の実践を重視しています。一般には怪しい新興宗教のひとつと誤解されているようですが、れっきとした日本神道の一派です。

 そしてこの宗忠神社は、黒住宗忠が没後の安永三年(1856)に朝廷より「宗忠大明神」の神号を与えられたことによって、文久二年(1862)に宗忠の門人の赤木忠春らが、吉田神社より社地の一部を譲り受けて創建した神社です。慶応元年(1865)には朝廷の勅願所に列し、皇室や公家から篤い崇敬を受けたといいます。本拠地岡山の宗忠神社と区別するために、神楽岡宗忠神社と呼ばれているそうです。

 

 なので、東側の参道入口の鳥居脇に上図の立派な備前焼の狛犬一対があるのにも、当然だなと納得しました。岡山の幾つかの古い神社や有力神社には備前焼の狛犬があって、私も幾つか見ているので、岡山発祥の黒住教の神社にもこういう狛犬があってもおかしくはないな、と思います。

 

 しかも逆立ちという珍しい姿勢です。京都の神社では珍しいかもしれませんが、備前焼の流布地域では幾つか見かけます。私自身、かつて兵庫県の赤穂市に住んでいた時期に隣の岡山県へよく遊びに行きましたが、備前焼の故郷として知られる伊部にも三度ほど行きました。その備前市伊部の「備前焼まつり」にも一度行きましたが、伊部にはあちこちに備前焼があって、逆立ちの狛犬、逆立ちの稲荷狐も見たことがあります。

 ですが、こちらの神楽岡宗忠神社の備前焼狛犬は、特に大きくて立派です。岡山でもなかなか見られない優品なので、必見です。京都にある備前焼の狛犬は、私の知る限りでは、ここと、清水寺の南にある鳥辺山妙見堂の二ヶ所にあります。

 

 宗忠神社、初参拝でしたが、なかなかに興味深いところでした。神楽岡の南に鎮座するので、表参道は東につきます。その表参道に立つ鳥居も、神明鳥居の代表的な形式の一つとされる独特の形を示して「宗忠鳥居」と呼ばれます。

 

 宗忠神社の表参道から東には、真如堂こと真正極楽寺の伽藍が望まれます。宗忠神社の表参道と真如堂の総門参道とが同じ道に向かい合っています。その道を東へ歩きました。

 

 途中で北側に宮内庁管理の陵墓園地を見ました。陽成天皇の神楽岡東陵です。

 

 真如堂こと真正極楽寺の総門に着きました。江戸時代の元禄八年(1695)に再建された、朱塗りの西向きの門です。十世紀の創建以来ずっと京洛の天台宗拠点の一角を占める古刹の、堂々たる門です。脇の寺号標石も風格ある立派なものです。

 

 総門をくぐると右手に三重塔が聳えます。江戸時代の文化十四年(1817)に再建された塔婆です。いつ見ても変わらない東山の古塔のひとつです。久しぶりだな、としばらく立ち止まって見上げました。 
 さきに行った吉田神社や宗忠神社には初めて行きましたが、こちらの真如堂には大学生の頃から10回ぐらいは訪れています。

 

 既に時刻は17時を回っていましたから、本堂以下の拝観時間は終了して境内地には黄昏の前の静寂に包まれていました。広大な境内地の東西に門があって、地域住民が東の白川通との行き来に利用することが多いため、境内には夜でも入れるようです。

 上図の本堂は江戸時代の享保二年(1717)の再建で国の重要文化財に指定されていますが、同じく国の重要文化財である本尊の阿弥陀如来立像は、平安時代十世紀の永観二年(984)創建以来の安置像です。そして私の専門である藤原時代仏像彫刻史においては、非常に重要な基準作例の一つに数えられます。

 その素晴らしい作域に、藤原彫刻の真髄と真実とを垣間見ようと、資料とノートを抱えて息を弾ませつつ何度もここにやって来た、若き日の自分を思い出してしまいました。  (続く)

 

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