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紫野大徳寺18 方丈修理現場公開 その四

2023年03月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺方丈の解体修理現場見学の続きです。見学路が階段から下に回って東から南側に回りました。つまりは方丈の正面に回ったわけです。高さも床面にほぼ同じ所になりました。

 

 方丈の東側にあたる「檀那の間」と奥の「衣鉢の間」の修理前の図版パネルです。修理では外されている襖や障子戸や畳の取り付け状況が分かります。ちなみに襖絵は、ここを含めた方丈全体計84面が狩野探幽の作であるそうです。

 

 襖や障子戸や畳、そして床板、天井板も外すと、こういう状態になります。畳間と廊下の空間の分かれ目が、大引(おおびき)や根太(ねだ)の配列によって分かります。上図右側が廊下部分で、根太の方向が南北に沿っています。その上に敷く床板の方向に合わせてあるわけです。そして床下の風通しを良くするために、基礎の束石(つかいし)を方形に仕上げてその上に長めの束(つか)を建てています。

 

 そして壁面は御覧のように表面の漆喰部分を剥がしてありました。その内部の、藁スサ混じりの荒壁が残してありました。壁部分は保存状態が良かったようで、芯にあたる小舞(こまい)が見えるまでにバラす解体は行われていませんでした。つまり、この上に斑直し(むらなおし)、中塗り、上塗り、と漆喰を三度塗り重ねることで、白壁の復元が出来るわけです。

 

 外されていた舞良戸(まいらど)の一枚が展示されていました。横に並ぶ舞良子(まいらご)と呼ぶ細い木の間隔が詰まっているタイプで、繁舞良戸(しげまいらど)と呼ばれます。繁舞良戸は舞良戸の最も格式ある造りとされています。

 

 西隣の空間に移りました。大徳寺開基の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の墓所にあたる雲門庵の範囲の修理前の図版パネルです。

 

 解体状態の雲門庵の範囲です。奥のブルーシートが懸けられた空間が墓所の雲門庵です。大徳寺では、住職が亡くなると住坊の塔頭などに墓所が営まれるのが普通ですが、開基の宗峰妙超は、自らの死後に墓所を別に設ける必要は無いと遺言したため、方丈内に塔所つまり墓所が置かれて位牌や納骨具がおさめられています。その墓所が今回の解体修理でもそのままに維持されているので、ブルーシートで覆って保護されていました。

 

 嫁さんがステキですねー、と指さしていた長押(なげし)上の六葉(ろくよう)。長押や扉などの釘隠しに用いる金具で、六枚の葉を六角形に模様化したものです。大体は金属製ですが、場所によっては木製のものもみられます。

 

 続いて右から三番目の空間、「室中」と「仏間」の範囲に移りました。修理前の図版パネルです。御覧のように方丈の中心となる空間で「室中」の床は漆板貼りになっています。「仏間」には方丈の本尊が安置されています。

 

 見学路はこの範囲で奥に入れるようになっており、「室中」全域を回って「仏間」の前まで行けました。上図の「仏間」の前壁には欄間が設えてあり、最も細密かつ格式のある筬欄間(おさらんま)の造りでした。筬は木または竹の薄板で、非常に精密なものは0.5ミリぐらいの薄さに作られます。それ自体が熟練の専門技術者でないと作れません。その筬を5ミリ以下の間隔できっちり等間隔に並べる高度な技術があって初めて、この筬欄間が成立します。つまりは当時の木工および建築技術の粋がここにみられるわけです。

 

「室中」より「仏間」を見ました。ここは解体した部材の一部の展示コーナーにもなっていて、天井板などに墨書で落書きや署名などが記されたものが公開されていました。

 

 天井板の墨書です。嫁さんが「大工さんってけっこう落書きとかするんですねー」と感心していました。落書きというより、作業に関わった記念に名前などを記した、というのが実態に近いです。この種の墨書は江戸時代に限らず、古代からありますから、奈良時代や平安時代の古建築でもまま見られます。最古の事例が、法隆寺五重塔などの飛鳥白鳳時代の落書きだったかな、と記憶しています。

 

 こちらの墨書は、「天井打出衆」とあるように天井の造成や板造り作業などを担当したチームの面々の7人の名前を並べたもののようです。「江州三井寺住人」とあるので、いまの滋賀県大津市の園城寺辺りの住人が大徳寺方丈の建設に従事していたことが分かります。そしてなぜか山部赤人(やまべ の あかひと)の有名な万葉歌が添えられています。

 「天井打出衆」の7人の最後の「たみ」は女性なの?、と嫁さんが訊いてきましたが、おそらくそうではないかと思います。江戸期までの日本では、女性の名前はたいてい平仮名表記であったからです。さらに江戸期までの職人衆というのは世襲制および家族制が普通でしたから、例えば棟梁にあたる人の奥さんや娘さん、職人の奥さん等も大体は職人として働くのが一般的でした。
 近世までの日本では、殆どの女性が労働力の基幹として諸産業を支えていましたから、現代でいう女性の職場進出とかのレベルではなく、職種によっては女性が主力だったケースも多かったです。農業は当然、酪農や繊維などの専門職、建築や木工の技巧職にも女性が関与していましたから、いまよりも女性の就業率は高かった筈です。とくに建築分野では金具などの細密な部品や壁塗り、建具などの塗り仕上げなどに女性の職人がかなり居たことが知られています。  (続く)

 

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