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知恩院の黒門と青蓮院しだれ桜

2022年10月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 知恩院北門からの「黒門坂」と呼ばれる参道を降りていって、境内地の境界線にあたる神宮通りまで進むと、上図の門が見えてまいります。知恩院では黒門と呼んでいる北側の山門で、「黒門坂」の名もこれに由来します。

 

 門裏の出入口の扉です。U氏が近寄って「これはなかなか堅牢な・・・、実戦的な造りだな」と言いつつ柱や扉をなでました。門口の左右の室内に出入りする扉板ですが、内側から開ける形式で扉板そのものが間口の内側に少し引っ込んだ位置に取り付けられています。外から引っ張って開けにくい扉であり、防御用に堅く閉じられるように造られています。

 

 門の左右の潜り戸も同じ構造になっています。上図は内側から見たものですが、御覧のように閂と蝶番が内側に仕込まれていて、外側から簡単に破られないように造られています。いかにも戦国期の様式をおもわせる実戦的な設えです。しかも覗き窓が一切ありませんから、外からも内からも反対側が見えません。

 

 門口の様子です。外側に徳川葵の幔幕が懸けられていますが、中世戦国期の城郭の門もこのように門や櫓の出入口に幕を懸けたり垂らしたりして視界を狭め、外から内側が見えないようにしていた事例が多かったと聞きます。

 そのことはU氏も知っていて、「完全に戦国期の城門だね、窓も無いから門扉を閉じれば視界は完全に遮断されるわけだな・・・。するとこの門は、単独では成立しにくいな、門の横に櫓とかを高く設けて指揮所にしたうえで櫓と門のセットで守りを固める構えだったんだろうな」と腕組みしながら言いました。

 

 U氏の推測には私も同感でした。視界がまったく効かない門なので、確かに単独では防御効果が限定的になります。門の左右に塀だけでなく、物見が可能な高い櫓を繋げて初めて防御戦闘が可能となります。門自体の左右の室内空間は狭くて倉庫程度にしかならないため、守備兵が詰める施設が近くに必要となります。番所もあったかもしれませんが、外に視界を確保して外敵の動向を視察するための施設、すなわち櫓が必須となります。

 

 なので、この黒門がもとは伏見城の新宮門であって、これを豊臣秀吉および徳川家康に仕えた武将の山岡景友が慶長年間(1596~1615)に移築、知恩院に寄進したものと伝えるのは、本当かもしれません。
 御覧のように、寺院の山門には似つかわしい戦闘用の門建築であるうえ、現在の単独の状態では防御施設としての機能を果たさないため、もともとは櫓かそれに準じた建物とセットで城郭の出入口を固めた門であることが推定されます。

 もと伏見城の門なのであれば、山岡景友が戦功にて徳川家康より伏見城の新宮門と邸宅を与えられたのが慶長五年(1600)十月のことなので、徳川家康が藤堂高虎を普請奉行に任じて伏見城の再建にとりかかる慶長七年(1602)六月より前に存在した門建築であったことになります。すなわち、豊臣秀吉が築いた木幡山伏見城の残存建築のひとつであった可能性が高くなります。

 秀吉の木幡山伏見城は豊臣秀頼が慶長四年(1599)に大坂城へ移ってからは荒廃したとされ、翌慶長五年六月の伏見城の戦いにて、西軍の小早川秀秋、島津義弘の連合軍に攻められて炎上、落城しています。石田三成が西軍諸将への書状にて「城内悉火をかけやけうちにいたし候」と報告していますので、秀吉期の主要建築は全て焼かれて失われたようです。

 

 すると、この門は、奇跡的に焼け残った城門であったことになります。もとは「新宮門」と呼ばれた点から、木幡山伏見城の主要部に位置していたのではなく、西側の城下町の西外れにあって現在も御香宮神社の北に合祀されて鎮座している春日新宮社(現在の北合祀社新宮社)の近くにあったものと推定されます。位置的には、伏見城下町の外郭線の西端にあたりますから、城郭主要部の門ではなく、城下町の西側の門であった可能性が考えられます。

 なので、上図のように棟木の左右端がカットされているような感じにみえるのも、もとは左右に建物が繋がっていて、門の左右に長櫓のような施設が付属していた可能性を思わせます。城下町の出入口を固める門であったのならば、その施設は番所的な簡易な建築であったかもしれません。

 

 ともあれ、秀吉期の木幡山伏見城の建築遺構は殆ど残っていないとされている現在においては、貴重な建物であることは確かです。
 U氏が「そういえば、京都には伏見城の建物を移築したと伝える門とか建物が幾つかあると聞いてるけど、確かなのは半数以下らしいな」と話していましたが、その通りで、確かな建築遺構の大多数は徳川期のものです。

 伏見城は、徳川家光の代の元和九年(1623)に廃城となって全ての建物が解体され、天守は二条城に、また多くの建物は福山城や淀城をはじめ各地に移築されています。京都市内にも大手門や書院の一部などが移築されています。城門に限って言えば、私の見てきた限りでは御香宮神社の表門(旧大手門)、二尊院の総門(旧薬医門)や天龍寺の勅使門や上御霊神社の南門が挙げられます。一般的によく知られる豊国神社の唐門も伏見城からの移築と伝えますが、秀吉期のものであるのか、それとも徳川期のものであるのかは確定していません。

 そういった事柄を話したところ、U氏は「そういう伏見城移築の建物を回って記事にしたらどうかな、単なる伝承の建物は外して、確かな建物だけをリストアップして順に紹介したら面白いんじゃないかな」と言いました。

 なるほど、そういう試みもあるな、と感心しました。伏見城からの移築伝承をもつの建物は京都市内だけでも三十ヶ所近くにのぼりますが、由来や様式からみて確かな建築遺構だけに絞ると半数以下の十四、五ヶ所になります。非公開の建物も少なくないので、いつでも見学出来るのは十ヶ所前後となります。全部が京都市内にありますから、それらを回って連載で紹介するのもいいな、と考えました。
 ては前向きに検討しよう、と答えるとU氏は「よし、いいぞ」と笑顔で頷きました。

 

 黒門の前を通る神宮通りは、通称を桜通りと呼ばれます。知恩院から北の平安神宮に至る通りですが、途中の青蓮院門跡が隠れた桜の名所として知られます。それで、その青蓮院門跡の北にある園地に行きました。園地というより放置状態の空き地のような場所ですが、いちおう「粟田口あおくすの庭」という優雅な名称が付けられています。
 その中央に、上図の遅咲きのしだれ桜が咲いていました。

 

 満開であったこの桜は、俗に青蓮院裏の桜などと呼ばれているようですが、観光客の行き交う神宮通りに面していて目立つので、観光客の半数は園地内に進んで桜に近寄り、撮影したりしていました。

 桜が好きなU氏と私も園地に入って、ベンチに座って眺めました。そうしてお茶を飲みつつ30分ほどまったりしていましたが、そのうちにU氏が腕時計を見、「そろそろ帰るわ、総見院も知恩院も満喫出来たし、京都御苑にも行けたからもう今日は大満足だ」と立ち上がりました。

 既に時刻は15時を回っていました。昼食もとらずに動き回っていたので、二人ともかなりの空腹でした。それで相談して、京都駅まで移動してどこかで遅い昼食をゆっくりとって、解散しよう、と決まりました。そうして最寄りの地下鉄の東山駅へと向かいました。  (了)

 


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