えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

布川国賠判決について

2020-01-12 | 日記
 昨年の5月27日
夫の国家賠償請求訴訟の判決が東京地裁であった。
昨年の私のブログは、その前日、判決期日を示したままで、判決結果を投稿をせずに放置したままになっていた。
理由は「負けた」からではない。

私自身が、「勝った」ことの意味をその時にきちんと理解できなかった事。
「勝った」けれど、その詳細、原告である夫の気持ち、私の中のモヤモヤ感を
自分の言葉でうまく表現できなかったことによるかもしれない・・・。

雑駁な感想だが、
 およそ国賠で勝つということは相当に難しいことだと聞いていた中で、夫と弁護団の主張が一部とはいえ認められたことは嬉しかったし、
裁判所に認めさせた弁護団の先生方のご努力に感謝の気持ちでいっぱいになった。
改めて「夫の自白」は、警察の偽計や利益誘導による不当な取り調べで引き出されたものであったこと、検察は夫たちの無実につながる証拠を隠して、有罪に追い込んだことが明らかになった。
 そして、証拠開示がされていたら少なくても第二審で無罪になっていただろうとも裁判所が認めたのである。
嬉しい結果だった。
だけど、「それだけ」なの?という疑問が後にいろいろ出て来て、認められなかった部分の方が圧倒的に多かったことを知った。
 しかも、この東京地裁決定を不服として、茨城県(県警)も国(検察)も東京高裁に控訴したのだ。

夫は、2019年の初めに「もうすぐ裁判が終わる」と言っていた。
だから、私もちょっとそんな気になってしまっていた。
「勝っても、被告側が控訴してくるから、まだ先に続くよ」と言われていたのに、である。

結果、相手が控訴するなら、夫も「もっと確実な勝訴判決を」と付帯控訴という形で高裁に臨むことになった。

 そんな最中、夫の体調に異変が起きていたことを、今になって私は知ったことになるのだ・・・。




東京地裁判決後の夫のブログを以下に紹介します。

「勝った」
2019.5.27
布川事件の国賠裁判は、茨城県警察と検察庁の責任を認める勝訴だった。
検察官の証拠未提出の違法も認める、画期的勝利だった。 
当たり前だよね。
警察が税金を使って集めた証拠を我が物顔に使い、弁護士の証拠開示請求に応じないなんて、本来は有り得ない。
でも、ここまで認めることは少ないのが、これまでの国賠裁判だ。
ホントに嬉しかった。
でも、判決を読むと、認められたのは、ごく一部分だ。納得出来ない部分はあるし、茨城県警察と検察庁が再審裁判になっても嘘を語り、布川事件の証拠が洪水で流失したと種類した理由が判る判決でもあった。
まだ布川事件の冤罪を作った証拠はあるし、茨城県警にも検察庁にも責任を追及する余地がある。
悪党茨城県警も腐れあう検察庁も、まだ抗うだろうが、こちらは倍返し。認められなかった警察と検察庁が結託して隠す部分を明らかにして、もっと完全な勝利を目指すだけだ。
皆さん、ひとまず有り難うございます!


「静かな喜びの一日」
2019.5.28
全国から勝利の祝福が届いた中で、静かな喜びを味わえる1日だった。
新聞各紙に掲載される記事内容は、どこも画期的勝利だった。
嘘を語り、無実の証拠を出さないのでは、裁判は真面に行えるはずはないのだから判決は当然だろうが、検察当局は、そうは思わないらしくて「今の制度でない時代のことを違法と言われてもと不満」との記事があった。検察は反省なし!
俺も判決を読んだが、再審裁判での証拠未提出は違法と認めないのは不満ではなくて不服。納得出来ない。
検察が控訴するならば反撃に事欠かない。
昨日、書いたのは中途半端だったが、この事件が発生したとき、親子が被害者宅にいる2人の男を目撃したことを警察に話した。
他に目撃者はいない。
警察は、どうするだろうか。
この親子の目撃事実を調書に作るよね?
ところが布川事件では、この親子の調書のうち、33才だったかの母親の調書は取らなかった、ないと言う。
信じられる?
いくら素人でも、そんなバカな!と思うだろう。犯人らしき男を見たと語る人の話を調書にしないような警察官は、即解雇だろうよ。
なぜ、調書にしなかったかは、簡単な話だ。
先ず母親が自転車で被害者宅前を通過して2人の男を見た。その後、同時に家を出た息子はお使い先から帰り、母親が野菜を買い出しに行った先に向かうな途中で被害者宅前で2人の男を見た。 
少し時間差がある。
母親は、被害者宅前を通過した後、東という地区で前日にお金を借りた人に会って返金してから、同じ東地区の野菜買い出し先に行った。
旦那は外出。帰宅を待ちながらテレビで7時半、ニュース解説という文字を見たと語る。
この時間から経過を辿れば母親が被害者宅前を通過した時間帯が判明する。一方、俺たちが犯人にされた自白は「7時6分ころに布佐駅着。歩いて被害者宅へ」となった。駅から被害者宅までは17分掛かる。
大問題だ!
俺たちは、どんなに早くても7時25分ころにしか被害者宅に行き着かないのに、旦那の帰りを待って訪問先でテレビを見た母親は、どう考えても7時20分には被害者宅前を通過していることになる。
困った警察は、最重要目撃者だった母親の調書は取らなかったことにした。証拠捏造が常套手段の警察だ。取った調書を無きものにするなど、朝飯前だ。
純情可憐な精神を有する裁判官は、警察の言うがままを信じて「母親の言葉は信じられない」で終わりだ。
今回の画期的勝利でも、同じように母親の調書はスルーだし、問題にもならない。
でも、俺は納得しない。
彼女は真犯人を見た!警察と検察の違法行為は、まだまだある!
控訴審になったならば、更に警察と検察の違法行為を追及するぜ!

「花籠」
2019.6.11
国賠裁判の勝利を祝う花籠が2個、届いた。
1個は数日後に。もう1個に、鹿児島から帰った昨日。
最初のは柴田五郎先生のご家族からで、昨日のは親戚の娘からだった。もし柴田先生が生きていてくれたならば、きっと勝利を喜んでくれたはずだが、代わりに頂いたご家族からのお祝いは嬉しかった。
先生の笑顔が見えた!
親戚の娘は、俺が娑婆に帰って来たとき、まだ小学生。毎日のように遊びに来てくれ、俺を癒してくれた。今は3人の子の母親になった。
それぞれのメッセージも、ホントに嬉しかった!






悪戦苦闘しているが

2020-01-12 | 日記
夫の食事療法、3か月目に入った。

肉、魚、卵、小麦、砂糖、乳製品、化学調味料を除いて、
玄米食と野菜、根菜、豆製品中心の献立を考えなければならない。
キノコ類もオーケーらしい。

つまり、「ガンのエサ」となるものを一切排除し、昔ながらの自然農法で作られた食材で副食を作る。
もともと料理が得意とは言えない私にとって、日々悪戦苦闘が続いている。それでも、
少しづつ慣れてくると、面白いと思えるから不思議だ。
新しい発見もいくつか見えて来た。

とにかく、夫は「体調はいい」と言ってくれているので、少し気持ちも軽い。

でも、もっと料理がうまくなりたいな・・・。

食事療法の効果を祈りながら

2020-01-12 | 日記
夫は、最初の異変、その後出血が続いていたこと、顔色の悪さを自分で気づいていながら、私には一言も言わなかった。
それに気付けなかった私は、いったい夫の何を見ていたのだろうと思った。

確かに、「疲れた。今までになく疲れた」という言葉を聞いていた。
自覚症状の有った夫には、明らかに病気を意識しての言葉だったに違いない。
それなのに
「今年は例年になく、スケジュールもハードだし、それに暑さもあるしね」なんて、全く危機感のない言葉を返していた。

長期遠征が続いて久しぶりに会えば、私からの報告が先で、それもMさんが癌でなくなったこと、本当に身近で夫を支援してくれた仲間が二人も相次いで亡くなったりと続き、病気や死ということと最も敏感でいた夫に、拷問のように無神経な言葉を投げかけていたことは悔いても悔やみきれない思いになった。

「なぜ、もっと早く言ってくれなかったの!」と思ったけれど、とてもそんな気持ちになれなかったと思う。

本当に、夫はしんどかったろうと思う・・・。

だけど、もっと早く知っていたら、「検診」ではなく、すぐにも外来受診を勧めたろう。
スケジュール調整もさせたろう。
手術も・・・。

過ぎてしまった事を言っても始まらない、と夫は言うだろう。
だから、もう言わないことにしようと思う。

夫の食事療法がうまくいくことを祈りながら日々を重ねて行こうと思う。


夫の選択

2020-01-12 | 日記
 夫がDr.の前で「治療はしません」と言い切った。
先生は、そう言い切る夫と何も言わずに傍で聞いているだけの私を前に、明らかに苛立ちを見せていた。
それでも、もう手術できる段階ではないこと、化学療法を一日も早く勧めたいが、セカンドオピニオンの希望があればすぐにも紹介状を出すからと言って下さった。
 私は紹介状を出していただきたいと申し出た。夫に大阪で紹介いただいたという先生の所に行ってもらいたいと思ったし、親戚に血液内科の専門医だが、そこにも相談して欲しかったからだ。
食事療法でやるにしても、その間の相談は誰にすれば良いのか、経過は誰が見てくれるのか、夫が外出先で何かあった時はどうすればいいのかなど、私の不安はまだまだいっぱいだった。

「もし、痛みや出血があった時、先生にお世話になることはできますか?」と私は聞いた。
それは、「治療をしない」と言う人は、基本、患者ではなくなるからだ。
先生は
「その時は、緩和ケア病棟に相談ですね」と一言。先生の感情がくみ取れる言葉だった。

 後日、看護師さんに「先生から電話で怒られちゃったし、外来でも怒らせちゃったみたい・・・。」と言ったら、
  「あの先生、せっかちでね。時々、そうなっちゃうのよ。でも、患者さんのことを思ってのことで決して人が悪い訳ではないんだけどね。」と言われて、少し気持ちが軽くなった。
確かに、そんな感じの先生だった。
夫のような患者をどう扱っていいのか、とにかく、混乱しているようにも見受けられた。
先の夫のブログにあったように、翌月の受診日には、すっかり先生も夫の病気との向き合い方、生きる姿勢に感化?されてしまったようです。苦笑

何も気付けなかった・・・

2020-01-12 | 日記
 昨年、夏。
厳しい暑さが続き、誰もが体調を崩さないようにと暑さとたたかっていた7月の中頃、私は夫に
「今年は検診、必ず行ってね」と声をかけた。
夫は、
「うん、そうするわ。」と、例年と違ってあっさりと返答してきた。
毎年声をかけてきたが、それでも受けないまま5年が経過していた・・・。

そしていつもお世話になってきたS総合病院(私の元勤務先)検診センターの人間ドックを予約した・・・。
予約日は8月13日。

 あの時、夫がいつもと違って何故あっさりと「行く」と言ったのか、不思議に思ったことにもっと敏感であるべきだったと後悔することになった。
夫にははっきりとした自覚症状があって、「覚悟」もあったという・・・。
傍にいてそんな夫の体調の異変に何故気付けなかったのか・・・。

検診の結果、再検査となって、私が本当に「ただ事ではない」と認識したのは、10月中旬。
医師から直接私に話しがあるからと自宅に電話をいただき、
「奥さんは、ご主人からなんて聞いているんですか!?1日も早く治療方針を相談したいんですが!」と言われたときだった。



以下、夫が今年になって公表したブログを紹介します。
    ※ケアハウス → Dr.が言ったのは「緩和ケア病棟」のこと。 

「私的なことですが」
2020.1.3
6月11日、大出血した。
起きて階下に降りるときに尻に違和感があった。便意は感じなかったが、とりあえずトイレに座った。途端に尻から水が迸り出た。まるで下痢のようだった。見ると血だった。やや黒色をした血。
とうとう来たか!。癌。
自覚は無かった。野球の練習に行っても物足りなくて足腰が動かなくなるまでノックを受けたいと感じていたほどだったが、思えば1年前の夏、連れ合いの実家で垣根剪定をしたときに異常な疲労を味わった。
例年は3日ほどで終わる垣根剪定だったのに5日も掛かった。へたり込むほどの疲労感は、暑さのせいだと思ったが、そうではなかったのだ。
最後の健康診断は4年ほど前だった。内視鏡検査で「癌化するかも知れない部分がある」と言われていたので覚悟はしていたから驚きではなかった。陶板浴での免疫力対応も出来るし、癌になったとしても恐れることはない気持ちでいた。
余計な心配を掛けても仕方ないので連れ合いには告げなかった。その後の予定を考えて健康診断を8月半ばに予約した。
診断では、すぐに精密検査を言われて9月19日、26日に内視鏡検査、造影剤検査、CT検査と続いたが、肛門に近い辺りに毒キノコのように育った癌が見えた。素人の自分が見ても、かなりの大きさだと判った。
「これは人口肛門だな!」
検査技師か医師か判らないが、内視鏡で明らかになった癌を見て呟くのが聞こえた。妙に明るい声で、まるて楽しいことを見つけたかのような感じだった。
すぐに生体検査をすると医師は言うが、俺には10月アタマに徳島から北海道へ移動する予定があった。絶対に予定は変更出来ないと告げると、飛行機に乗ると出血の危険があるとして後日の再検査になった。
連れ合いは、そう驚かなかった。
何年間も健康診断をしなかったことを責めたいようだったが、取り返せない過去を悔いても意味がないことは冤罪体験で経験済みの俺だ。余り多くを言わなかった。
何時も自分の思うままに生きている俺だったから、こういうときは連れ合いの望む治療をしようと思った。
手術でも人口肛門でも良いと思っていたが、しかし、縁があって出ている関西のライブで癌になった話をしたことから展開が変わった。
食事療法を勧められた。
ライブ仲間でサックス奏者のマサさんの父親は70歳過ぎて大腸癌になり、手術した果てに食事療法と出会い、その後、23年間、94歳まで生きたと言う。知り合いの弁護士さんは大腸癌から手術。再発の膵臓転移。手術不可能の余命宣告から食事療法に出会って回復した話も聞かされた。実際に食事療法の食材を売る店を訪ねたが、店主も大腸癌の余命3カ月宣告から完治されたそうで、実に爽やかな表情で筋肉隆々の姿に出会って決めた、食事療法をやると。
人間には運命と呼ばれるモノがある。自分の意思ではどうにも出来ないことがあり、人智を超えた天や神が人間の明日を決めてしまうものだとして運命と呼ぶみたいだが、俺は違う考えを持っている。
確かに運はあるが、それは人間の明日を決める切っ掛けに過ぎなくて、人間の明日を決めて、運が運命となるのは、その人自身の意思が行動となって積み重なる時間によるという考えだ。
俺は冤罪という不運を体験した。無実の罪で29年を塀の中で過ごした傷みは言葉には尽くせない。両親の死を看とることも出来ないままに逝ってしまった父と母を考えると、今でも涙が出る。無実の証拠を隠して犯人にした警察と検察を考えると、どのような復讐をしても恨みは晴らせない思いになるが、俺は、あえて悔しさや哀しみ、怒りや恨みを忘れて生きた。
人生は1度限りだ。今日という日も人生には1度限りだ。どこに生きても人生に1度しかない今日ならば、今日という1日を人間として満足出来るように生きよう、明るく楽しく過ごそうと決めた。
そうした獄中での生き方を支えてくれた国民救援会の皆さんから届く善意は、誠実に生きる尊さを教えてくれたし、確実に俺の生き方を変えてくれた。
象が針の穴を通るくらいに難しいと言われた再審裁判で無罪判決を得て勝ち、再審裁判と同じように勝つのが困難と言われる国賠裁判にも勝ってみると、その困難を乗り越えさせたモノが何だったのかを考えさせられた。
冤罪は不運だったが、不運のままには終わらせなかったのは、あのときに自分の意思を変え、行動を変えたからこそだったのではないか。
運はある。悪い運も良い運もあるがしかし、運命ではない。運を、どのような運命にするかは、その人の意思次第、行動次第ではないのか。
人間は独りでは生きては行けない。良かれ悪しかれ、人様との触れ合い、出会いがあり、その関係が明日を決める行動にもなる。
俺は関西ライブで出会い、知り得た食事療法に運を感じた。肉、魚、乳製品、卵、砂糖、科学調味料一切を絶ち、総ての細胞が入れ替わる3カ月を過ごして癌を消滅させる食事療法に運命を感じたのだ。
10月の病院は「奥さんもご一緒に」と言われた。
医師は手術を言うが断った。食事療法を決めていた俺は「来年2月まで治療はしない。2月以降に、また診察を」と頼んだらば、「そのときはケアハウスとの相談になります」と不機嫌そうだった。平然としている俺に、隣の連れ合いは「意味が判っているのですか」と言った。ケアハウスは治療ではなくて死への準備をする場所。連れ合いの方が深刻な表情だったが、セカンドオピニオンとして関西の医師に診て貰うことにして、その日は帰った。
11月、また病院に行ってセカンドオピニオンの結果を伝えることになった。「富山の親戚の医師にも検査結果や写真などを診て貰った結果、皆さんから手術を勧められたが、食事療法をする」と告げた。
食事療法は治療ではないと言う医師は「凄いなぁ、凄いなぁ」と呟いた。「来年春には、先生を驚かせますから」と言葉を返したらば、「もう充分に驚いてます。こんなに生き生きと過ごしてる人は見たことないですよ」と笑った。
人間、必ず死ぬ。それは早いか遅いかの違いだ。もし食事療法が上手く行っても20年、ダメでも2年後。死は、その程度の違いに過ぎない。
その死ぬ日まで、自分に成すべきことを為せるように努める。何があっても、どんなことになっても俺は俺であり、明るく楽しく人生で1日限りの、1度限りの今日を全力で生きるだけのこと。そう思っての俺の行動が医師を驚かせたようだ。
「あの先生に、そんなことを言わせるなんて、アナタという人は、どんなときでも想定外の生き方を見せてくれる人なんですね」、医師の言葉を伝えたラインには、連れ合いから、そんな返信があった。
癌になって色々なことが見える。
色々なことを感じる。
俺は意気地なしで子供のときから死が怖くて、何時か死ぬ日が来ると考えると発狂しそうな気分になった。嘘の自白をした原因の1つに死への恐怖があったが、実際に死を意識した今回は、それを休息であり、眠りだと思うだけで恐怖は消えていた。
29年の獄中体験も含めて、実に波瀾万丈の人生だったが、誰にでも経験出来ることではないし、多くの人様の善意と誠実に支えられた歳月は、本当に幸せだと振り替えれた。何の後悔もない、世界一幸せな72歳、世界一幸せな男だと思った。
選んだ食事療法は順調に推移している。多分、桜の季節には普通の食事も出来るようになるだろう。
弁護団長からは「再審裁判で勝って冤罪と闘う人に希望を与えたのだから、今度は癌を克服して癌と闘う人に希望を与えて欲しい」とのエールが来た。もちろん克服する。まだ死なない。悪徳警察と腐れ検察との闘いがある。真面目な警察官や検察官の意思が生きる警察と検察にしなければならないし、真面な司法にする闘いもある。やるべきことがある。
正月早々だが、我が人生はこれから!の想いで病を公表することにしたが、痛みも辛さも疲れも無く、普通に生活しています。ブログを見てくださる皆さん、くれぐれもご心配なきようにお願いします。
 

ブログ再開(;'∀')

2020-01-12 | 日記
 2020年が始まり、すでに1月も半ばになろうとしています。
元来、根気がなく、なんでも途中で投げ出してしまう私が、また書いてみようと思うことが出てきました。

「書いておいた方がいいですよ」というアドバイスを受けたからでもあるのですが、改めてこのブログを立ち上げた時の初心にも立ち返っています。

取り急ぎ、再開宣言です!

布川国賠裁判の判決日

2019-05-26 | 日記
 明日、6年6ヶ月かかった布川国賠裁判の判決が東京地裁(103号法廷 16:00)で出ます。

 冤罪布川事件が何故起こったのか?
取り調べの違法性、証拠隠し、捏造、裁判での捜査官の偽証等に加え、
再審に至っては、
検察が再審開始決定後も二度にわたって不服申し立てをして、無実の者が最も願う「一日も早く裁判をやり直して欲しい」との願いに背を向け、いたずらに時間を引き延ばし、人生を奪い続けたこと等々…。
県(県警)、国(検察)の責任を裁判所がどのように判断するか。

 裁判所には、布川事件のみならず、全国で冤罪とたたかい、再審に望みを持って頑張っている人たちに、何らかの希望に繋がる判決内容であって欲しい、そう願っています。


 夫と杉山卓男さんが、別件逮捕から強盗殺人事件の取り調べを受け、無理やり「自白」をさせられ、再審で無罪判決を得るまでに費やされた時間が43年と7か月。

 今回の民事裁判で6年6か月。
ずっと「走り続けて来た」夫に、裁判所は公正な判断の基に、しっかりと答えていただきたいと思います。

元号が変わって

2019-05-01 | 日記
 平成の時代から令和へと元号が変わった。
2019年4月30日から5月1日へ。
マスコミの報道も、内容によっては興味を持つものもあるが、大部分はもっと静かに代替わりしてくれればいいのにと思うことばかり・・・。
きっと陛下自身もそう考えられているのではないか…なんて思ってしまう。

 明日も、また、その次の日も当分この加熱報道は続くだろう。
でも、私は日常を淡々と送って行くだけだ。

 明日は、労働者の記念すべきメーデー。

何社がメーデー集会を報道してくれるのか・・・。

 そういえば、平成の30年を振り返る番組で、福島第1原発の事故は触れられてなかったと、ネットにあった。
本当だろうか?
事実としたら、それは大変な問題だと思う。

 明日、確かめてみよう・・・。

春です🎵

2019-04-12 | 日記




まだまだ風は冷たくて冬のコートは手放せませんが、でも、間違いなくわくわく、ウキウキ感が増す季節になりました。
 

好物?

2019-04-04 | 日記



猪の好物って、タケノコ?
実家に帰ると、必ず行くところがある。父が残していった椎茸の原木が置いてあるところだ。
もう殆ど朽ちかけてしまっているが、それでも母が
「行ってみてこい」という。
勿論母のいう通りにするけれど、途中の竹藪近くがまた掘り返され、荒れていた。
あ~、まただ❗と思う。
猪が地中の筍を食べるため、そこら中、荒らし回っているのだ。
過疎化に歯止めが聞かず、住民も減り、休耕田が増えて、猪が我が物顔で人間の生活圏を荒らし回っていることが容易に考えられた。
悔しいな。
淋しいな…⤵️