えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

もう6年

2018-09-02 | 日記
 父の七回忌。
もう6年が経った。
最後の一か月のことを昨日のことのように思い返すことができる。

 8月17日は父の誕生日だった。
父はその翌日の朝から意識がなくなり、9月1日まで頑張って永眠した。あの1か月・・・。

 主治医からは、もう「時間が迫って来ている」ことを告げられていた。
本人の希望をできるだけかなえてあげたい。私は、そう思っていた・・・。

 8月第1周の金曜日は恒例の水戸黄門まつり千波湖花火大会だった。
「花火を見に行きたい」と言う父。
先生からは、外出許可が下り、私は車いすと父を車に乗せて千波湖に面して建つマンションに住む息子の部屋を借りた。(息子は仕事で休めなかったので)
そこで父を休ませて、その屋上で花火を一緒に見た。健康な人にとっても、花火が上がるたびに体に響く振動が堪え、父には負担が大きかったろうと思った。でも、眼前に広がる花火は、巨大できれいだった。15分ぐらい見ただろうか。「もう、いい。帰ろう」と父は言った・・・。
 翌日、看護師さんたちに、「花火を見て来たんだ。きれいだったぞ」と報告する父の姿に、負担もあったろうに、楽しそうに話しているのが私には救いだった・・・。

 その後、「お盆に家に帰りたい。帰って、先祖様にお線香をあげなくては・・・」と。でも、実家での受け入れが整わず、決めかねていたら先生から「いつにしますか」と声がかかった。先生の表情に「もう時間がないんですよ。一日も早く・・・」そんなものを私は感じ取った。
お盆の迎えの日である13日には帰れず、14日の午前中に何とか連れて帰った。家には、父の兄、姪、甥などが例年のように来てくれていて、「あら~、みんなに会えてよかったね」と私は明るく言ったけれど、誰もが最後の時間であることを感じあっていた。父も、話しながら涙を流していて・・・。見てる私まで、一緒に泣いてしまった・・・。
 翌日の15日、患部からの出血がひどく貧血もあって、全く食べられなかった。私はすぐに病院へ電話をした。

「出血がひどいので、とても二泊は無理なようです。これから戻っていいですか」と。
病棟では、「わかりました。病院玄関に着いたら連絡ください。ストレッチャーで玄関に迎えに行きます」ということに。
結局、父は盆棚のご先祖様に線香をあげる体力もなく、病院に戻ることになったのだった。

 17日、父の88歳の誕生日。病棟の看護師さんたちは簡単な誕生会をしてくれて、写真も撮った。
この写真が父の最後の写真となった・・・。

 18日の朝から、意識が無くなり、傾眠状態に入った。
点滴の針がなかなか入らなくなっていった・・・。

 9月1日
東京から兄夫婦が、母と一緒に来ていた。・・・。

みんなが帰って・・・。
私、ひとりが残って・・・。


 その日の夜、父は88歳と15日の生涯を閉じた・・・。


頑固な父だった。正義感の強い父だった。
私と夫の結婚にも
「冤罪なんて、戦前の話ならまだしも、今の世の中でそんなことあるはずがない。最高裁まで行って決まった(確定した)ことが間違うはずがない。それを覆そうだなんて、そんな道を外れたことをする男と一緒になるなんて許さない。もう、娘とは思わない。勘当だ。出ていけ。二度と家の敷居をまたぐな」
そう、興奮して言った。

 その後、夫の一生懸命、誠実に生きようとする姿が守る会事務局の方から定期的にニュースや手紙で両親に伝えられ、私の勘当は2年で解かれ、その後は最大の理解者になってくれた。
2011年5月、44年目にしてやっと「再審無罪判決」を得たことで、まだ元気だった父を安堵させることができ、本当に良かった。間に合った、という感じだった。私たちが結婚して12年目の初夏のことだった・・・。
 
 夫から、裁判もひとまず一段落するから、これからは両親と過ごす時間を十分とっていいと言われて私は仕事を辞めた。以来、直腸がん末期に入っていた父と過ごした時間が、私にとっては本当にかけがえのない時間となった。(この年、病気一つすることなくガン闘病の父を看て来た母が、腎臓がん、大腸がんの手術をすることになり・・・。私にとっては母の病院通いも同時にするという、これまでの親不孝を、一度に取り戻させてくれた特別の時間でもあった。その母は、今も健在であること、そのことにも感謝!)

 こうしてみると、夫が以前に
「人生、最後はちゃんとつじつまが合うようになっているんだよ」と言った言葉が思い返される。


 この先もそうであって欲しい・・・。そう、願いたい・・・。