三田の九鬼家は織田信長時代に鉄甲船を作り毛利の水軍を壊滅させてその威力を日本中に轟かせたが、徳川幕府にとってはその力を削ぎたいと考えていたところ三代将軍家光の時代に跡継ぎをめぐりお家騒動が起き訴状を受けた幕府は内陸の丹波綾部藩と三田藩に別けてしまった。
九鬼家の跡の鳥羽藩に入ったのが内藤家で入封した内藤家は内藤忠重・忠政・忠勝と続くがこの忠勝が大事件を起している。
1680年(延宝8年)6月25日、忠勝は増上寺で行われた第4代将軍徳川家綱の七十七日法要の席で、屋敷が隣同士で日頃から仲が悪かった丹後宮津藩永井尚長と法要の進行を担当していた。 ここで永井尚長は老中からの支持書を見せず子供じみた意地悪をしたようだ。 そのことに腹を立てた忠勝は、あろうことか厠(かわや)に立った尚長の後を追い、刀を抜いて惨殺してしまう。
その結果、内藤忠勝は翌日切腹、内藤家は領地没収となっている。
話は長くなるが21年後1701年(元禄14年)4月21日の元禄赤穂事件と発端がそっくりである。
何と浅野内匠頭長則(あさのたくみのかみながのり)は内藤忠勝の姉の子、即ち忠勝の甥にあたる。
おじさん(内藤家)の顛末を知りながら同じ事件を起こすとは血筋では済まされない。
ハイおじさんの憶測(個人的意見)ですが気性が短気で友人がいなく、人にあまり好かれるタイプではなさそうである。
こうなると赤穂事件の見方も変わってくる。 吉良上野介が気の毒になる。
しかし忠臣蔵は庶民(作家)の立場から見た幕府に対する見方を表していてフィクションの部分も多く幕末の地方の下級武士に「武士道」や「忠義」に対する考え方に大きな影響を与えた。
物語としての「忠臣蔵」は古今東西人々に感動を与えたのも事実である。
***「摂津三田の歴史」を参考にしました***