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三木市市野瀬(旧吉川町)で真新しい碑を見つけました。 平成17年4月建立
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碑の内容は「米問屋を通さず直接、酒造家と取引を開始した。」
吉川町の村米制度 (碑の文章とは違います)
吉川町は天恵の地、六甲裏第三紀層の粘質土壌は平野を遠ざかった低山性の山間丘陵地形の地帯であり、耕地はこれらの山谷又は山麓に棚田として現出し、常に良質米を産出し、農家もまた種子の選択改良を図ると共に先人たちの指導誘掖の功と相まって日本一の名声を博するにいたる。
吉川には古来より酒造家もあり、渡瀬地区の石田五郎邸などは往時を今に残す立派な酒倉式数寄屋(すきや)造りの代表的建物で貴重な存在である。そのような条件は、明治維新後の民政の安定によって清酒の需要が高まり、農民の酒米生産への意欲を鼓舞激励して、酒造家好みの品種品質の改良に全力を傾注した。
兵庫県郡役所事績録に、「明治26年12月、奥吉川村市野瀬において山田篤治郎氏等が発起人となり、 百難を排し苦心の結果、元鳥居米に凝し改良米50石を作り、これを標本として摂津西宮醸造家辰馬悦蔵氏に交渉し、取引を開始したるに、すこぶる好結果を得たり。ここに改良米共同販売の萌芽を発するにいたれり。」と記され、泉正宗・菊正宗が現社町に上久米地区と明治24・25年頃取引したのが村米制度のはじまりで、41年米穀検査法の施行により生産地区の品質改善に一層の努力をし、永続的取引を重んじて酒造家とのつながりを一層深めていっている。
大正12年兵庫県明石農事試験場において、"山渡50-7"の系統名で新品種開発、昭和3年酒米試験場が加東郡福田村に設置され、生産者が意欲を燃やしていく中で、生産地の各地区と酒造家の間において会社名」または酒銘を冠した会組織が誕生し、永続的取引きの要因を作った。
(筆者 故 奥川隆司 吉川町田谷)
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