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川崎重工業(神戸市)創業120周年を記念し神戸ポートターミナル ホールの2Fで旧陸軍戦闘機「三式戦闘機 飛燕」の公開展示されているので見学11月1日に行った。ポートライナーで11時前にポートターミナル駅に着きが入場はフリーで見学客は殆んど中高年者で「飛燕」が展示されていた。
三式戦闘機「飛燕」は戦前に川崎航空機工業が開発し陸軍に約3000機が製造され納入されたと案内書にある。搭載エンジンは1500馬力の液冷で高速性と旋回性に優れ性能で当時の世界水準達した戦闘機とされていた。飛行機となるもの初めて観たのは小学の校低学年で父親と一緒に、郷里の新発田16連隊の演習場で二枚の練習機の「赤とんぼ」が飛来した時で離陸にはゴムロープで引かれ飛びったていたいたのを思い出す。
三式戦闘機 飛燕のMG 151/20口径20mmの機関砲↓
メーカーの説明員に聞くと機体はスピード性を高めるためジユラルミン性だそうで時速500km前後で飛行可能で第Ⅱ次大戦では中国、南太平洋で活躍したそうで、海軍の空母の発着の戦闘機と異なり、飛行中離陸した基地が見えなくなると燃料の関係で引帰さなければならなかったようである。
飛燕の搭載エンジンは1500馬力だそうで自動車の排気量に換算すると約14万~15万ccだそうで大型観光バスなみだそうだ。2Fには操縦席の模型もあり、実際にコクピットに乗り体験もできる。コクピットは非常に狭く、計器類も少なく現在のジェト航空機と比べると単純なものだ。30年以上も前に米軍の岩国基地でF戦闘機をみたがPCのキーボードと多数の計器類ばかりで後は操縦桿のみ、であったと思う。70年以上前の第2時大戦中の戦闘機だが、陸軍戦闘機「隼(ハヤブサ)」や海軍のゼロ戦戦闘機は記憶にあるが陸軍の「飛燕」は名前は知っていたが活躍したとの記憶はあまり覚えていないのである。第Ⅱ次大戦の末期、鹿児島の大隅半島の鹿屋航空基地(中攻中枢基地)からは飛燕やゼロ戦が米軍の沖縄・九州への上陸を防ぐため特攻機として体当たりの「神風特攻隊」そして、帝都東京、大阪や主要都市のB29の空襲の護りとして活躍したと自分ながら想像している。「飛燕」の神戸での展示一般公開は11月3日(木)まで、この後「飛燕」は故郷である岐阜県各務原市の「航空宇宙科学博物館(改装中)」に永久保存の展示されるとのことだった。
戦争末期には陸軍の鹿屋基地、海軍の知覧基地が特攻基地として大空に散っていきました。
コックピットに座りましたが、非常に狭く計器も少なく、よくぞ闘ったと感心しました。
永久保存されることは良い事です。
米軍の空襲でグラマンやB29だったと思います。
九州には知覧など特攻関連の戦争遺跡があり見学しましたが、
案内人の話や説明文からは悲壮感だけが伝わって、
軍歌のような勇ましいイメージは涌いてきませんでした。
さすが「神風特攻隊の基地」をよく、ご存じで有難うございました。
飛燕は同盟国のドイツのダイムラーベンツの水冷式エンジンだそうでがガソリンはハイオクガソリンで大量のハイオクは陸軍は調達できず、隼やゼロ戦戦闘機より性能が落ち、充分発揮できなかったようです。
米空軍のP型戦闘機はスピードは飛燕より速く、鴨のように狙い撃ちされ、撃墜された飛燕の残骸は彼方此方で発掘されいます。
展示の飛燕は知覧の航空記念館の一機だけで貴重な戦闘機だそうで、各務原の博物館恒久展示されるのだそうです。
立派だな-と思うのですが、何の気持ちも沸いて来ません、やはり一応女性なのかな-って思います。姿の美しさ 巧妙さには感動しました・・・
始めて見ました、怖い気がします。人類の為永久保存されるって、良い事だと思います・・
コメント
終戦末期の新潟港は米陸海軍による港湾封鎖で、昼は新発田上空にP-38戦闘機とB29の偵察機が上空から電波妨害とやらで銀紙が撒かれ小学校は休校で、ある夜新潟港へ港封鎖の数機のB29が機雷投下し、陸軍は軍専用の貨物船から高射砲を陸揚げし花火のように高射砲攻撃で1機が撃墜され搭乗員はパラシュートで降下したのを父や兄たちと2階の屋根に上がり目撃しました。
8月15日の終戦宣言した翌日の16日には艦載機からのグラマン戦闘機が数機、新発田市街を低空飛行で操縦士が誇らしげに手を振っていたのは、いまだに目に焼き付いています。
コメント
争いごとを嫌う「女性の、気持ち」充分理解しております。
ただ、国家が平和で豊かな生活するには食糧・生活するには貿易なのですが、それが上手く出来ない時は領土の侵略になるのですが、その手段として高性能な武器開発です。
男性の「戦争映画」を観る気持ちUチャンも同じです。国家を護るため好まれれているようです。
女性の稲田防衛大臣の「お気持ち」はどうなのでしょうか。