健康自由メモ(高齢者の健康メモ)

高齢者の健康自由日記

終戦記念日「戦没者を追悼し平和を祈念する日」

2008年08月15日 | 1.自由日記・健康雑感

32/26℃
 昨朝も雨で今日も大気の気圧状況が不安定で雨だが相変わらず湿気の多い猛暑だ。
 
昭和20年(1945年)8月14日の夜のことである、猛烈な飛行機轟音が新発田の町の夜空を襲ってきた。おそらくB29爆撃機100機以上の来襲だとおもう。 父は姉達に避難逃走するよう指示したのである。私は姉達に従って南西方面の水原新道へ逃げた。 そこには鉄道未設(現在の白新線)の土盛の土手状態で猛火が襲ってきても遮断できるところだった。幸い焼夷弾爆撃もなくB29爆撃機は十数分間、轟音を残し去っていった。その夜は家に帰ったが、私の背に担いで逃げたのは何故か判らないが教科書の入ったランドセルであった。
 
この814ポツダム宣言(日本無条件降伏)を受託した日なのであるそれで爆撃は中止されたものと思うが、同じ日に大阪市は数度目の空襲にあっていた。815日は今日のように朝から暑い日で父は朝からそわそわし、日本は負けたらしい正午に天皇のラジオ放送つまり今上(昭和)天皇による「終戦の大詔」の玉音放送がある、正午前に家族全員ラジオの前に正座した。 近所(当時はラジオさえ無かった家もあった)の人も数人正座していたと思う。 放送の内容は電波の受信状況も悪く難しく、子供の私には何を言っているのか理解できなかった。 つまり日本は「無条件降伏」したのである。 大人たちは敗戦の屈辱を受け動揺していたが10歳の子供には敗戦による世の中の変革は知る余地もなかった。
 秋口の9月中旬には新潟港に上陸した米軍が旧陸軍第二師団歩兵新発田16連隊が在ったせいか完全武装解除のため進駐してきた。

      
 西洋人を見たのが初めてで恐ろしくもあり怖さもあった。 敗戦から63年、家の誰が撮影したかは不明だが家のアルバムにあったのを保存していたのでで記載してみた。 左の画像は帰還傷病兵をお見舞いに軍国調服装の母と写したもので、右はGI(駐留軍兵士)と警察官で、地方の一般の運送交通手段は荷駄の時代である。 戦後生まれの人達には想像もつかないだろう。 太平洋戦争の敗戦で310万人ものゝ犠牲者を出し戦後の国民はは悲惨でインフレの苦しい生活を強いられた。 今日は終戦記念日で第56回の「全国戦没者追悼式」が武道館で営まれたが外戦地であるいは空爆や外地から内地に引き上げる途中で犠牲になった先達・同年輩の人達を思い偲び「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の日である。
                                                              
合掌


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※ 戦没者追悼式での福田首相の式辞(要旨一部)は以下の通り(asahicomより)
 我が国は多くの国々、とりわけアジアの諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えました。私は国民を代表して、ここに深い反省とともに、犠牲となられたすべての方々に対し、謹んで哀悼の意を表します。

 私たちは今日の平和と繁栄が、戦争によってかけがえのない命を落とされた方々の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、ひとときも忘れることはありません。私たちが悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、史実を未来に正しく引き継いでいくことこそ、多くの戦没者の思いに応える道であります.

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