へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

遅ればせながら、明けましておめでとうございます

2011年01月08日 04時11分23秒 | Weblog
去年の最後の更新で「終い良ければ全て良し?」と書いたのだが、今年も4日と6日にボーリングに行きました。

結果は、4日は「7ゲームで平均185」、6日は「5ゲームで平均199」と、新年早々としては満足の行く結果が出ました。

さて、新年早々ゆっくりと新聞を読み、テレビを見ていて気がついたことがあるのだが、私が以前から心配していた「情報『禍』社会」が現実のものとなってきているように感じてならないのである。

私が書いているブログも似たようなものだろうが、インターネットの発達とともに「誰でも簡単に情報を発信できる」と言うことが悪い方に作用しているのである。

「情報『化』社会」が「情報『過』社会」になり、いったいどれが正しいのかわからない状態を招き、ついには「情報『禍』社会」に突入してしまったのだ。

「意見には個人差がある」と言われるのだが、それを判断する能力にも「個人差」と言うものがある。

しかし、その個人差の中でも大きな位置を占めているのが「数が多いものが正しい」と言う考え方ではないだろうか。

しばしば耳にする言葉に「一番売れているのだから良いものに決まっている」と言う言葉があるが、これって本当なのだろうか。

「情報はネットで得られるから新聞は読まない」と言う人が増えているのだが、私は全く反対の意見である。

確かにネットで情報を得ることは出来るのだが、これには大きな問題があることに気がつくべきだろう。

私も時折ネットで調べ物(検索)をする(ニュース以外で)のだが、多くの場合「一番始めに出るのは役に立たないこと」なのである。

下手をすると「一番知りたいことが見つからない」と言うことも良くあることで、ネット社会は「悪意を持って情報操作が出来る社会」と言うこともできるのである。

こうなると、子供たちが有害なサイトにアクセス出来ないようにする「フィルタリング」と言うものを、大人の心にも着ける必要があるだが、これは「一人一人の自覚」に期待するしかないのが困ったところである。

昔の言葉に「清濁併せ呑む」と言う言葉があるのだが、これは「善・悪の分け隔てをせず受け入れる」と言う意味であるが、善と悪の識別が出来なくなっている現代人には意味をなさない言葉(私語?)となっている。

政治の混迷も、根底にこのような問題を抱えていることが最大の原因で、これからますます迷走をするのではないだろうか。



コメント
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