へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

とんだ思い違い

2009年06月29日 03時49分54秒 | Weblog
NHKの「ダーウインが来た」で、日本ザリガニを取り上げていたのだが、この番組を見るまで「アメリカザリガニが日本ザリガニを駆逐した」と思っていたのだが、とんでもない思い違いだった。
何故この様な思い違いをしたかというと、子供の頃に聞いた話が先入観として固定されてしまったもので、アメリカザリガニが「悪者扱い」されていることも一因であるが、日本ザリガニの生息域である北海道では「ウチダザリガニ」と言う、別のアメリカザリガニに棲息を脅かされてはいるのだが・・・・。
日本ザリガニは絶滅が危惧されているのだが、ネットのオークションなどではよく見かける。
私も少なからず関心を持ってはいたのだが、この番組を見て完全に飼育を諦めることにしたのだが、その原因は「絶滅危惧種だから」と言うだけではなく、「冷たいきれいな水を好む」と言うことも大きくかかわっているのだが・・・・。


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東国原知事が総理大臣になったら

2009年06月26日 04時20分58秒 | Weblog
一つの選択肢として考えられないことも無いのだが、「自民党を変えたい」と言っている意味が今一つわからない。
「変える」と言う意味が「良い事」と取られているように感じるのだが、私としては「良い事=良い事」にはならないことに気が付く必要があると思うのだが・・・・。
へそ曲がりな私が常に考えるのは「良い事=悪い事」「悪い事=良い事」と言う、一見矛盾?した考え方なのである。
「どの政党が政権を担い、誰が総理になるか」と言うことを、殆どの国民が注目しているのだが、その根底にあるのは「少しでも自分の生活を豊かにして欲しい」と言うことがあるだろう。
だが・・・・、である。
ここで気を付けなくてはいけないのが「生活を豊かにする(経済発展)=地球の環境を悪化させる」と言うことで、まさに「良い事=悪い事}なのである。
このように考えてゆくと、現状では「誰が総理になろうと良い結果は期待できない」と言うしか無いだろう。
「物には限度がある」と言うように、現代社会は「宇宙船地球号の能力の限界を超えている」と言わねばならないほどに悪い状況になってしまっている事を認識しなくてはいけない。
何事においても「表と裏」「長所と短所」と言うように、相反することが切っても切れない関係にあるように、表や長所にばかり気を取られてはいけないのである。
話が多少横道にそれてしまうのだが、私の50年近く昔の話で恐縮だが、或る切っ掛けからユニセフに金額はたいしたことは無いのだが資金援助をしたことがある。
当初は「良いことをしている」と、有頂天?になっていたのだが、暫らくしてある疑問に突き当たってしまったのである。
「ユニセフに資金援助をする」と言えば「良い事」と思われがちであるが、確かに表向きは良い事ではあるが、その事が「新たな貧困を生む」と言うことも否定出来なくなってしまったのである。
飢えや病気で苦しむ子供たちを助けることが悪いことだという気は毛頭無いのだが、助かった子供たちが生きてゆくためには其れなりの食料がなくてはならないのだが、その結果として「新たな貧困を生む」と言う皮肉な結果をもたらすのであり、ここでも「人類の発展(人口増加)=食料・資源・エナルギーの不足」と言う構図が成り立ってしまうのである。
このような問題が起きる根本原因に「脳の発達」と言うことがあるのだが、ここでも「脳の発達=様々な問題の発生」と言う皮肉な結果をもたらしているのである。
ここで自然界の厳しい現実を少し紹介してみようと思うのだが、それは、常日頃我が家で起きている問題に「親メダカが仔メダカを食べてしまう」と言うことがある。
水槽が小さいから起きる問題ではなく、自然界でも日常的に起きている問題で、「ある一定のレベル(限界)」を超えたときに必ず起きる日常的ことで、人間にとって「子供を食べる」などと言うことはとても出来ることではないのだが、「脳が発達していないメダカ」にとっては、仔メダカと言えども「自分が生きてゆくための重要な食料の一種」でしかないのであるが、ここで「可哀想」などと言う仏心を出すと「新たな水槽が必要になる」と言う新しい問題が発生してしまうのである。
このように考えてゆけば、現状では誰が総理になろうが「大同小異」でしかないのだが、良い結果が出れば「そのしわ寄せは後の世代に積み残される」と言うことを肝に命ずるべきだろう。
私個人としては、限界を超えた現状を考えれば「増税・生活レベルの低下」は仕方の無いことだと思っている。
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ダボハゼと人間の違い

2009年06月23日 03時09分27秒 | Weblog
前回「日本人はダボハゼと同じ?」と言うタイトルで書いたのだが、日本人だけが特別そうだと言うわけではなく、多くの人間が持って生まれた「悲しい性」とも言えるかもしれない。
改めて「ダボハゼ」と言う魚について考えてみると、エサの付いていない針にさえ飛びついてしまう理由に「常にエサ不足の飢餓状態にある」と言うこともあるだろうが、人間の場合は特別飢餓状態にあるわけではなく「少しでも楽な暮らしがしたい」などと言う「私利私欲」に満ちたものがほとんどであるから、ダボハゼにしてみれば「俺たちと一緒にするな!」と叱られそうである。
また、ダボハゼの場合は「痛い思いをするのは飛び付いたダボハゼ自身」であるのに対し、人間の場合は「痛い思いをするのは後の世代」と言う意味でも大きな違いがある。
「前倒しで総裁選を・・・・」などと言う意見が増えてきているようだが、一体誰を総理にすればよいと言うのだろうか?。
仮の話ではあるが、「適任者がいた」としても結果にたいした変わりは無いと思うのだが・・・・。
現在の財政状態で「民主党以上の美味しいエサ」など、一体どこを探せばあると言うのだろう。
少し前「民意が政治に反映されていない」などと言われていたのだが、「民意を反映(迎合)する」と言う手法は、少し前までは「与党が選挙対策(票集め)に使う常套手段」であったのだが、バブル崩壊という予期せぬ景気後退局面を迎えて使うことが難しくなったのであるが、それに追い討ちをかけるように「100年に一度」と言う不況で身動きが取れなくなっってしまったのである。
これを「政権を奪う絶好のチャンス」と捉えたのが民主党なのであるが、政権を維持することが危うくなっている与党(麻生総理)でさえも「これ以上は無理」として実施を躊躇している政策を逆手に取っていることに気が付いてほしいものであるが、主だったメディアは殆ど触れようとしていないのだが、何故触れようとしないのであろうか?。
ここでも「民意に迎合する」と言う「市場原理(消費者に嫌われては経営が成り立たない)」が働いているのである。
市場原理に無関係な私だからこの様なことが書けるのであるが、「あいつはおかしな事ばかり言う」と言うレッテルを貼られることは覚悟しなくてはいけないのだが、この様なレッテルを貼られることを嫌がって黙っている人も結構いると思うのだが・・・・。

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日本人はダボハゼと同じ?

2009年06月20日 03時25分42秒 | Weblog
以前にも同じようなことを書いているのだが、「ダボハゼ」と言う名の付いた固有の魚がいるわけではないが、私が子供の頃は、池や沼などにいる5センチほどのハゼを「ダボハゼ」と言っていた。
この魚、全くと言ってよいほど警戒心が無く、人が近寄っても逃げようとはせず、目の前にエサを下ろすと直ぐに飛びつき、時にはエサが付いていない針にさえ飛びついてくる程で、要するに「何にでも直ぐ飛び付く、馬鹿な魚」を意味する「蔑称」である。
このように書くと「日本人はダボハゼと同じ?」などと言うタイトルに「馬鹿にするな!」と言うお叱りを頂きそうであるが、自民党の支持率と言うより「麻生総理の支持率」の「著しい低下」を見ていると「日本人はダボハゼと同じ」に思えて仕方がないのである。
「先進国の中で最悪」と言われる日本の財政状態を考えれば、「財政の健全化(増税)」は避けて通ることの出来ない重要な問題なのだが、野党どころか、同じ仲間の与党内部からさえ反対されている始末である。
さて、民主党が有権者から見ると「美味しいエサ」を色々と用意して政権を奪おうとしているようであるが、これらの「美味しいエサ」、その裏に「鋭い針」が隠されていることに気が付くべきである。
「無駄を無くして財源に充てる」と言うが、無駄を無くせば「その分雇用の場が減り、景気に悪影響を及ぼす」と言うことには触れられておらず、「高速道路の無料化」にしても「鉄道、海運(フェリー)」に対する悪影響を考えなければいけないばかりか、「維持管理の財源をどうするのか?」と言う問題も起きるのである。
「一度民主党に政権を担わせて見ては・・・・」と言う考えも無いではないが、直ぐに行き詰まるのが分かりきっている状態では非常に危険であろう。
民主党を初めとする野党が前面に押し出している政策の多くは、その昔、与党が「票集めに使った手段」となんら変わる事が無く、その結果が現在の多額の借金(国債、地方債)の元になっていることに気が付くべきで、極度の支持率低下の現状でさえも自民党がその手を使うことが出来ないことが「なによりの証明」である。
以前にも書いているのだが、バブル崩壊までの高度経済成長は「多額の借金に支えられた砂上の楼閣」と言ってもよく、民主党の掲げる政策は「更に借金を増やす政策」と言うしかなく、直ぐに財源不足で行き詰まってしまうだろう。
阿部、福田と、2代続けて総理の職務を放棄して問題になったが、民主党が政権をとったとしても「直ぐに行き詰まる」と言うことは明らかで、その段階で「政権の放棄」などということになれば、その影響は「総理の突然の辞任」などとは比較にならない程の「重大な問題」が残るのである。
美味しいエサに飛びついて「後で痛い思いをする」と言う、ダボハゼの様な愚かな人間にはなりたくないものであるが、本当に痛い思いをするのは「自分たちより後の世代で、自分たちではない」と言うことが「ダボハゼ的人間を増やす根本原因」なのだから厄介なのではあるが・・・・。
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臓器移植法

2009年06月19日 02時43分45秒 | Weblog
臓器を移植する以外に生きる術を持たない人たちのために、少しでも臓器の提供を増やそうと考えられた法案ではあるが、どう考えても「臓器を提供する側」の気持ちが組み込まれていないように感じてならない。
臓器提供を待つ人の気持ちもよくわかるのだが、同じように「臓器を提供する側の気持ち」と言うものも十分に考えなくてはいけないのでは無いだろうか・・・・。
臓器によっては完全に死亡が確認された後でも大丈夫なものもあるが、問題になっている臓器の多くは「脳死」と言う段階で臓器を摘出しなければならないため、関係する家族にとっては非常に複雑な心境になるのは当然の話なのだが、何となく「善意の強要」と言った感じがしてならないのだが・・・・。
臓器の提供を受けられず子供を失った家族の話などが報道されているが、その話の内容は「法律の不備」を責める内容が殆どで、法律が整備されれば問題が解決するような考えを持っているように感じてならないのだが、いくら法律が整備されたとしても、臓器を提供する側が「イヤだ!」と言ってしまえばそれまでなのである。
要するに、臓器の提供は「提供する側の善意」に頼らなければならないことを理解するべきで、臓器を提供する側の善意に「どうこたえるか」と言うことを最優先に考えるべきではないだろうか。
自分たちの希望ばかりを前面に押し出していては解決しないであろう問題をどう解決するか・・・・、難しい問題である。

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「KY」と言うより「JY」

2009年06月15日 02時32分35秒 | Weblog
「KY」とは「空気が読めない」と言う意味だが、「JY」とは「状況が理解出来ない」と言う意味の、私が作った新しい言葉である。
広い意味で言えば「KY」も「JY」も同じようなものではあるが、「KY」が「空気を読む」と言う曖昧なものに対して、「KY」は「状況を理解する」と言う、或る程度限定されていると言う違いがある。
突然この様なことを書こうと思ったのは、ある集まりの中で起きた或る男の対応が根底にある。
或る問題が発生したことに対する対応策を練るために集まった中で、どのような対応策が有るか各自が意見を出し合って対応することにしていたのだが、その中の一人が、全ての発言を待たず一つ一つの意見にあれこれとイチャモンをつけるのである。
「一つの話として話しているのだから最後まで聞いてからにしてくれ」と皆で言っても聞き入れず、結局何も決められずに終わってしまった。
この様なことは結構あるもので、「一般論」とか「たとえ話」を真に受けてしまわれると話の仕様がなくなり、徒に話が紛糾してしまうのだが、この男、「かなり大きな会社の課長」だと言うから恐れ入る。
零細企業の課長ならいざ知らず、「東証二部上場企業」の課長がこんな男に勤まるとしたら驚きである。
ヒョットして「名ばかり管理職?」とも思ってしまうのだが、私も若い頃「名ばかり管理職」というものを経験しているのだが、私の場合の「名ばかり管理職」は少々意味合いが違い、「取締役営業部長」と言う肩書きにもかかわらず「社内に部下はゼロ」と言うもので、対外的な営業に必要な「一種のハッタリ」なのだが、いい加減な対応をとれば「会社の信用にかかわる」と言う重要な意味を持っていたのである。
「社内だけで通用する管理職」と「社外で通用させなくてはいけない管理職」、一体どちらが本当の管理職なのだろうか・・・・。
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ネズミ講と経済発展の違い

2009年06月04日 04時04分08秒 | Weblog
「ネズミ講と経済発展の違い、って何の事だ?」と思われる人も多いと思うのだが、私から見ると「大同小異」としか思えない。
「一体どこが大同小異なのだ!」と思うかもしれないが、ネズミ講は新たな子を増やす事によって成り立ち、新たな子を増やせなくなると破綻してしまうことは良く知られているだろうが、ネズミ講で言う「新たな子」と言うのは、経済発展に当てはめれば「新たな需要」と言うことが出来よう。
つまり、経済発展も「新たな需要が無ければ成り立たない」と言う意味でネズミ講と同じなのである。
今回の百年に一度と言う世界的な不況も、元を正せば「無理な需要開拓のツケが回って来た」と言ってよいだろう。
かつて日本は「高度経済成長」を謳歌していた時代もあるが、これとて「何も無い時代から次々と新しい需要を掘り起こす」と言うことで成し得た事で、少子高齢化社会になり「何でも有る」と言っても良い現在では、「新たな需要(子)の掘り起こし」など容易に出来る筈が無い。
中国ではまだしばらくの間は高い経済成長を維持出来るだろうが、これはまだ内陸部に「膨大な潜在需要(子)が眠っている」と言うことで成り立っているもので、いずれはこれらの潜在需要(子)も食い尽くしてしまう日が来るのである。
この「潜在需要を食い尽くした」と言う状態は「今の日本」と同じことで、ネズミ講が破綻したのと大差ないのである。
ネズミ講は法律で禁じられているが、経済発展は法律で禁じられていないばかりか、「国民の殆どが望んでいる」と言っても良いのだが、「無限に発展する」などと言うことは不可能なことで、「発展の後には必ず衰退(破綻)が待っている」と言うことを忘れてはならないだろう。
「経済発展」は或る意味で「麻薬と同じ」と考えるべきで、麻薬と同じように「依存(中毒)」と言う問題がが起き、「発展が止まる(薬が切れる)」と、麻薬と同じように「禁断症状」に苦しまなくてはいけないのである。
この様に考えてゆくと「ネズミ講も経済発展も大同小異」と言うことがわかるのではないかと思うのだが・・・・。
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