へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

大豊作?

2011年08月25日 03時49分22秒 | Weblog
民主党の代表選に立候補したメンバーを「どんぐり」に例えたのだろうが、数だけは大豊作でも、中身となると何とも貧弱に感じてならない。

虫食いだらけのどんぐりもあれば、全く熟していないようなものもあり、最も情けないのは「黒子が操る操り人形のようなどんぐり」である。

きつい言い方をするなら「張子の虎状態のどんぐり」ではないだろうか?。

どんぐりが聞いたら気を悪くするような話である。

どんぐりの出来が悪いと熊?が人里の現れる危険も大きくなるというのに・・・・。

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予想もしない結果です

2011年08月23日 03時10分58秒 | Weblog
先月まで表示されていなかった、去年と比べた「今年の電力使用量の削減率」を見て驚きました。

「26%減少」となっているのだが、これは「8月分」としてであって、対象となる日数が去年とは少し違う。

去年は「29日間で412kWh」であるのに、今年は「31日間で304kWh」なので、日割りで計算すると、ナント「31%」もの削減になるのである。

正直な話、「何でこんなに削減できたのだろうか?」と言ったところで、計器の読み間違いではないかと思ったほどです。

昼間最も電力消費の多いエアコンは去年も昼間は使っておらず、何処でこれだけの削減が出来たのか全く不明である。

ちなみに、去年の7月は「318kWh」で、今年は「296kWh」なので、先月の削減率は「僅か4%」なのだから。

しかし・・・・。

よくよく考えるとどこか変である。

そう、去年の8月の使用量が多すぎるのだ。

それではいったいなんで多くなったのだろうか?。

1年も前のことである。

いくら考えても思い出せない。



余談にはなるが、世間にはこんな事がよくあるもので、一種の「数字マジック(トリック)」である。

企業の宣伝文句などによく使われており、結構だまされている人がいるのだが、だまされていることに気がつかないのだから始末が悪い。
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はたやんさんのコメントに答えて

2011年08月22日 22時23分12秒 | Weblog
選挙権を「選挙義務」に変えることによって何が変わるのだろうか。

選挙権は「選挙において投票する権利」であって、「放棄」するかどうかはその人の自由ですが、「義務」となると「強制」と言うことにもなり、個人の自由の侵害になります。


さて、放棄した場合はどうなるであろうか。

放棄した場合は「結果について文句を言う権利はない」と言うことにもなります。

つまり、権利を放棄したのだから、政治についてとやかく言う権利(資格)もないのです。

出た結果については「自己責任」で受け入れるしかないでしょう。

少なくとも私はそうしていますがね。



しかし、権利を行使した場合はどうであろうか。

実際はこの部分に重大な問題があることを殆ど問題にしていないのである。

「権利と義務は表裏一体」と言う言葉があるにもかかわらず、選挙権に関してだけは何故か切り離されているのだ。

つまり、選挙権を行使しながら「その結果に対する義務(責任)」は全く問題にならないのである。

一部には例外もあるだろうが、「その結果に対する義務(責任)があるから投票しない」と言う人も多いのです。

つまり。「選挙義務」にするよりも、投票した人に「選挙結果に対する責任を問う」と言うことのほうが重要なのです。

現状の選挙制度は問題だらけで、「選挙権」にいたっては「無銭飲食」と同じ状態でありながら「何の罰則もない」のです。

衆議院議員を初めとする議員(党)を選んだのはいったい誰ですか?。

選挙権を使って選んだ以上「その議員(党)のしたことの責任は投票した人にもある」と言うことが無視されているのです。

「選挙義務」にするより「投票した人の責任を問う」と言う事のほうが重要で、それが「最善の策」ではないだろうか。



次に、「和を持って物事を進めようとする日本・・・・」とあるが、本当にそうなのであろうか。

私に言わせると「全く違う」としか言いようがありません。

民主主義の基本理念にはない「多数決」と言うものが最も重要な決定手段になっていて、いったい何処に「和」があるのだろうか。

現実は「長いものには巻かれろ」的な風潮が横行しています。


2年前(平成19年度)に私が自治会の役員になったときのことはすでにブログで書いているのだが、このときは殆ど多数決で問題は決めなかったのですが、これこそ「和」が最も重要な役割を担っています。

私は会長ではなかったのですが、少数意見でもよい意見は積極的に取り上げ、その重要性を説明し、反対意見を引き下がらせる事もしましたが、後でもめることもなかったです。

「全員一致(了解)」なのですから。

このとき重要なことは「自分に不都合な意見も取り上げる」と言うことです。

これをすれば反対する人だって納得せざるを得ないのですが、現実の世界でこんな事をする人がどれだけいるのだろうか。

私の知る範囲だが、そのような人は「立候補の要請を受けても断じて断る」と言う人ばかりです。

国民の多くがこのような考えの人になれば日本も良くなるでしょう。

夢物語ですがね・・・・。
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「運」は実力のうち?

2011年08月20日 00時30分50秒 | Weblog
「運も実力のうち」と言うが、本当にそうなのであろうか?。

考えようでは「正しいと」とも言えるのだが、その「実力の中身」を考えると複雑な気分になることも多い。

管総理の退陣表明を受け、民主党内部で様々な思惑が渦巻いており、何人もの人が立候補を表明し始めたが、顔ぶれを見て考えるのは「運も実力のうち?」と言うことである。

安部、福田、麻生、鳩山、管と、続けざまに総理大臣の辞任が続き、その実力の無さが際立っている。

昔の言葉に「玉石混交」と言う言葉があるが、今の状況を考えると「石石混交」と言ったほうが良いと思うのだが・・・・。

しかし・・・・。

「玉磨かざれば光無し」と言う言葉もある。

私は「石石混交」と書いたのだが、可能性としては低いながら「玉が混じっている?」と言う可能性(希望的観測)もあるかもしれない。

が、しかし・・・・。

たとえ「玉」が混じっていたとしても、それを磨く人がいなければ玉の意味を無さないのだ。

それではいったい誰が磨くのだろうか?。

それは言うまでも無く「国民自身」なのである。

が・・・・。

磨いて光り輝くまでには多くの時間と努力や忍耐も必要で、今の日本には欠けているものばかりなのだ(世界的にも言えるかも・・・・)。

常日頃私が書いているように「政治の腐敗は国民の腐敗」であるように、国民の意識が変わらない限り政治も変わらないのである。

「出たい人よより、出したい人を」と言う言葉もあるが、今の時代は「出たい人ばかり」で、「出したい人」などどこにも見当たらないのである。

これも何度も書いているが「あの人なら何とかしてくれるのでは」とか「この人ならこうしてくれるだろう」と言う考え自体に問題があるのである。

本当の意味(意見には個人差があるが)で将来を考えた結果なら良いのだが、その中身は「未必の故意による賄賂の要求」でしかないのである。

私のところにも過去に3回「町議選への立候補要請」が来ているが、全てお断りをしている。

立候補を要請してくる人たちの話には共通する考え方があるのだ。

それは、前にも書いているように「この人なら何とか・・・・」と言う下心丸見えの考え方なのである。

仮の話だが、私が町議会議員になったとしたときの事を考えてみよう。

私の基本理念は、支持者の意見より「今なすべきこと」が最重要課題で、それがたとえ「支持者に都合が悪い事」であってもである。

ここまで書けばわかるだろうが、私が正式にお断りする前に「立候補要請自体をあきらめる」と言う結果になるのである。

このことからもわかるように、民主党の代表選に立候補を表明した人は全て「出たい人」なのである。

出たい人に共通することは「このチャンスを逃がしたくない」と言う思惑が働き、体制に媚び諂い、何とかして支持者を増やそうとする考えしかないのだ。

ここで登場するのが「大きな派閥の代表」である。

派閥に属する議員は「代表の意見に従う」と言うことが基本にあり、代表の賛同は「必要不可欠」な問題になるのである。

ここで登場する問題に「交換条件」と言うものがあるが、悪い言い方をするなら「裏取引」である。

裏取引である以上「黒い影」が付きまとうのは仕方のないこなのだが、国民にそれをとやかく言う資格は無いだろう。

選挙での投票は「国民の権利」だと言われるのだが、私はその権利を放棄している。

「棄権」を無責任だと言う人もいるだろうが、私に言わせれば「権利だけ主張して義務を果たさない人」のほうがよっぽど無責任だろう。

「権利には義務が付き物」だと言う事を忘れているのである。

権利と義務は「表裏一体のもの」で、権利を主張すれば「義務が発生する」と言うことを無視しているのだから困ったものである。

国や政府にあれこれ要求する人が多いのだが、国や政府が何かをしようとするために必要なものを考えた事があるのだろうか?。

国や政府が何かをしようとすれば必ず必要になるものに「財源」と言うものがある。

この財源の元になるのが、国民や企業が納める「税金」である。

「税金は納めたく無いが、あれもこれもしろ」。

何とも無責任な話である。
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何とも ノーテンキ な日本社会である

2011年08月07日 03時41分53秒 | Weblog
8月6日の朝日新聞に載っていた「社会風刺の一コマ漫画」なのだが、何とも今の日本を象徴するようで笑ってしまう。

8月6日と言えば、広島への原爆投下から66年も経つのだが、3月11日に起きた福島原発の事故があったにもかかわらず、国会の内部ではこのような低レベルの争いで終始いている。

放射線であれば低レベルのほうが良いのだが、一国の将来を担う国会がこのような低レベルの争いをしているのだ。

しかし・・・・・。

このような状況を招いた張本人はいったい誰なのであろうか。

アメリカでも似たようなことをやっている。

それは、国が借金出来る上限を引き上げる法案をめぐっての争いでしかなく、それに付きまとう根本の問題が「次の選挙」であリ、この漫画で描かれていることもまた然りなのである。

日頃耳にする「民意が政治に反映されていない」と言う言葉はある意味?では正しいのだが、私から見れば「政治が民意の影響で右往左往している」としか見えないのだ。

つまり、いつも言うことと同じことで「政治の腐敗は民意の腐敗」でしかないのだ。

この漫画で見るように、「こども手当」と「児童手当」をめぐって、こども(児童)同士が争っている姿を見ても殆どの人は何も感じないのであろう。

「こども」と「児童」。

いったい何処に違いがあるのだろう・・・・。

其処にあるのは「各党の思惑の違い」でしかなく、更にその先にあるものは「選挙対策用の面子」でしかないのだ。

選挙対策用としてしか用をなさない「こども手当」と「児童手当」。

平和ボケをした日本を象徴するような出来事ではないだろうか。

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