へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

強請り、たかりが横行する社会

2011年02月21日 04時02分14秒 | Weblog
通常「強請り」や「たかり」は悪いやつらがする「悪事」と言うイメージが強いだろうが、最近の日本の社会は「強請りとたかりに満ち溢れている」と言ってもよいだろう。

「誰がそんな事をやっているのだ!」と思う人が殆どだろうが、実際は、殆どの人が無意識(未必の故意)のうちにやっているのだ。

「ふざけるな!」と言うおしかりの言葉を頂きそうだが、ここは冷静になって考えてほしいものである。


さて、選挙で様々な公約と言うものが語られるのだが、何ゆえ「公約」などしなくてはいけないのだろうか。

立候補する人の本音としては「出来る限り公約などしたくない」という気持ちがあるはずなのだが、選挙で選ばれるためには「有権者が喜ぶような公約をぶち上げないと投票してもらえない」と言う恐怖心?から「無理な公約」をせざるを得なくなってしまうのである。

民主党政権が誕生したのも、自民党が「有権者が満足するような公約を発表できなかった」と言う事が原因で、民主党が有権者の「強請り」に応じてしまったのである。

有権者にしてみれば「強請りをしている意識は無い」と言う事だろうが、政権を担う事になった民主党政権にすれば、「このままでは次の選挙で投票してもらえない」と言う、「無言の威圧(強請りと同じだよ)」に怯えているのが現在の心境なのである。

次に「タカリ」だが、ここまで書けばある程度想像がつくと思うが、自分に都合の良い政策(公約)をしてくれる政党に投票するのも「たかりの一種」なのである。

前に「議員は人気稼業」と書いているように、議員(党)にしてみれば「当選するためには一票でも多く欲しい」と言う気持ちを持つのは当然の事だが、有権者(国民)はその弱みに付け込んで強請りタカリを働いているのだ。

「そんなつもりなど毛頭無い」と言いたいかもしれないが、結果から見れば「同じ事だ」と言うしかないだろう。

「未必の故意」と言う言葉をご存知だろうか。

辞書を調べればわかるのだが、「未必の故意」とは、「行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図・希望したわけではないが、自己の行為から、ある事実が発生するかもしれないと思いながら、発生しても仕方が無いと認めて行為する心理状態。故意の一種」とある。

これを現在の日本の財政悪化に当てはめれば、財源不足の状態であれこれ要求すれば「赤字国債の発行を増やすことになる」ということは明白な事実で、赤字国債を増発して財政状態を悪化させた真犯人は「自民党政権」ではなく、未必の故意で強請りタカリを働いた「有権者(国民)自身」だと言う事を認める必要があるだろう。

「事業仕分けを厳しくすれば」と言う意見もあるだろうが、厳しくすれば「自分にも火の粉がかかる」と言う覚悟が出来ているのだろうか。

「自分のところだけは勘弁してくれ」というのでは、余りに「身勝手な考え方」と言わざるをえないだろう。

今の日本は、総理大臣を代えみても、政党を代えてみても、所詮は「大同小異」でしかない。

今の私は「ジリ貧は仕方のないこと」だとあきらめており、かなり以前から生活の質を落として準備を始めているのだ。

そのせいだろう、周りの人からはよく「○○さんは余裕があっていいねー!」と羨ましく思われるのだ。

ある意味「悟りを開いたような感じ」なのである。

ひょっとして「仙人」になった?。

最近の霞は栄養が豊富になったのだろう、どうりでお腹が出るわけだ。
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これこそ「人気稼業の見本」では・・・・

2011年02月19日 03時47分42秒 | Weblog
昨日は議員たちを「人気稼業だ」と書いたのだが、早速夕刊の一面トップにこんな見出しが躍っている。

よく「政治が悪いから国が悪くなる」と言うのだが、こんな事をさせている国民のほうがそれ以上に悪いと思うのだが・・・・。

「首相代えてもいい」と言うが、代わりに誰を首相にすえようと言うのだろうか。

これでは昔自民党がやった事と同じではないか。

どうしても政権を維持したいばかりに「社会党との連立政権」を組み、「村山富一総理」まで誕生させたのだが、それをきっかけに「社会党が衰退」と言うことになったのだが、今回も思い切って「公明党の代表を総理に」と言う事をやってみたらいいと思う。

そうすれば「どの党がやっても無理だ!」と言う事がわかるはずで、ついでに「公明党が消滅」と言う事も有り得るのではないだろうか。

昨日書いているように、今の日本は「危機的状態」で、誰を総理大臣にしたとしても「問題の解決は不可能」で、その事に国民が気がつかない限り「同じことの繰り返し」にしかならないのである。

それでは何故同じことが繰り返されるのであろうか。

先に「国民のほうが悪い」と書いたのだが、「そんなことは無い!」と言う人もいるだろうが、ここは一つ冷静になって考えてみて欲しいのだ。

自民党政権時代に膨れ上がった「赤字国債(借金)」だが、自民党政権にしても「好き好んで赤字国債を発行したわけではない」と言う事を理解するべきだろう。

このことは「自分が借金をする」と言う場面に当てはめてみればよくわかるだろう。

余程馬鹿な人間でもない限り「好き好んで借金をする」様な輩はいないはずだが、なかには、大事な家族や恋人にねだられては「仕方ない」と言った感じで借金に走る人もいるのだが、この「大事な家族や恋人」が、政治の世界では「有権者の票」に当たるのである。

このように、家族や恋人(有権者)に嫌われたくない一心で「借金(赤字国債の発行)」をすることになるのだが、「良識を持った家族や恋人」であれば「無意味な借金」はしなくても済むのである。

要するに、選挙で「票欲しさに掲げる美味しい公約」につられて投票した結果がこれなのである。

別な表現をすると「私利私欲に目がくらんだ結果」ともいえるのだが・・・・。

それではいったい何時までこのような茶番劇を続けるというのだろうか。

私がここでいくら書いたとしても「殆ど何の役にも立たない」のはわかっているのだが・・・・。

行き着くところまで行かないと無理なのだろうか。

それでは手遅れになってしまうのだが・・・・。

私がいくらじたばたしてもどうにもならないことで、ここは一つ「高みの見物」としゃれこむのも一興かも・・・・。

でも「悪趣味」と言われそうな気もするが・・・・。
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無縁社会以上に困った問題

2011年02月18日 04時16分54秒 | Weblog
昼間車を運転中にラジオを聞いていて思ったのだが、雇用、福祉、高齢化、・・・・と、様々な問題が山積みになっているなかで、最も優先して対応しなくてはいけないのは「財政再建」であろう。

世界各国の中で日本ほど巨額の国債(国の借金)を発行している国は無く、財政再建を疎かにすると「国が破綻する」と言う事が現実のものとなりつつある。

現状では国債の殆どを「国内で処理している」と言う事で、この状態が永久に続くのであれば問題は起きないのだだろうが、発行額が増えるばかりか、数年後には「高齢化で貯蓄額が減少する」と言う事態に陥りかねず、国内だけでは国債を引き受けきれず、国債の発行が困難な状態に陥るのである。

「海外で引き受けてもらえば」と言う案もあるのだが、それにはそれ相応の金利を払う必要があり、「利払い」と言う問題も重なり、借金は雪だるま式に増えてしまい、その先には「国家の破綻」が待っているのだ。

国の財政が破綻してしまえば、雇用も福祉も「それどころではない」と言う事になり、今とは比較にならないほど悲惨な状態になる野は間違いないのである。

北海道の「夕張市」を見ればその実態がわかるはずだが、もっとひどい状態も覚悟する必要があるかも・・・・。

「借金を作ったのは自民党政権のせいだ!」と言う人もいるのだが、それをさせたのは「国民自身だ!」ということは考えようとしないのである。

国会議員ばかりが槍玉に挙げられるのだが、実際は、「議員」と言う名の付く人ばかりでなく、「知事」「長」と言う肩書きの人も同じ事なのだが、これらの人は皆「人気稼業」だと言う事に気がつくべきだろう。

俳優や、タレント、歌手も「人気稼業」である事には違いが無いのだが、議員や、知事、長と言われる人たちとは、同じ人気家業でも中身は全く違うのである。

俳優やタレントなどの場合、人気を維持するためにいくらお金を使っても「ファンにツケを回す」ということは有り得ないのだが、議員たちの場合は「そのツケは有権者(国民)に回す」のである。

要するに、俳優たちは、人気を維持するために借金をしたとしても「借金は自分で抱える」のだが、議員たちは「知らぬ顔の半べい」を決め込むのである。

それでは何故借金(国債)をしなくてはいけないのだろうか。

その原因は「有権者の要求」が根底にあるのだ。

俳優やタレントであれば「人気が落ちても俳優やタレントでいることは出来る」のだが、議員たちにとって「人気の低落は死活問題」になりかねず、ましてや「借金(国債)返済は自分がするわけではない」のだから「気楽な稼業」のなのである。

こんな状態なのだから、議員たちにしてみれば、将来のことより「目先の選挙対策」のほうが重要な問題で、「後は問題が起きてから考えりゃいい」といった程度にしか考えていないのである。

このようなわけで、過去に3回町会議員選挙に立候補を要請されたときも「馬鹿らしくて引き受けられるか!」と断っているのである。
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無縁社会   その3

2011年02月14日 05時23分23秒 | Weblog
若年層の「無縁化」が問題化しているが、それを解決するのは容易な事ではないだろう。

そもそも「無縁化」する理由は様々で、極端な言い方をすれば「一人ひとり条件が違う」のである。

更に困った事には、科学技術の発達とともに「自助努力」と言う事が疎かになり、いつの間にか「依存体質」になっているのである。

「政府に何とかして欲しい」とか「自治体に・・・・」とか言うばかりで、自分では殆ど何もしようとしないのである。

私も同じような立場におかれているのだが、冷静に現状を考えれば「望むのは酷」だと思っている。

本音は「何とかして欲しい」とは思うのだが、「少子高齢化」「財源不足」「個人第一主義」など、現状の問題を解決するには「現状を大きく変えなくてはいけない」と言う事で、「無理な相談」だと思っている。

現在は健康で問題なく過ごせているのだが、いつ何時問題が起きるかわからず、内心はかなり不安なのは事実であるが・・・・。

全くの一人暮らしなので、万一の場合は「孤独死」と言う事になるのだろうが、「死後数ヶ月経って発見される」と言うような事だけは避けるよう手は打っている。

新聞を購読しているのがその対策の一つなのだが、単に購読しているだけではないのだ。

朝刊は無理だが、夕刊は可能な限り「手渡し」で受け取るようにし、「ご苦労様」と声をかけているのだ。

このため、配達する人に覚えてもらうことが出来るだけでなく、万一の場合も「新聞がたまる」と言う事によって「何かあった?」と思ってもらえるのである。

郵便配達の人にも声をかけるようにしているので、「郵便配達の人が気がつく」と言う可能性も期待できるだろう。

「無縁社会」をなくすためには、「一人ひとりの努力の積み重ね」が必要だが、科学技術の発達がそれを阻害しているのだ。

「便利な世の中」=「楽しい世の中」とはならないことに気がつかなくてはいけないのだが・・・・。
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無縁社会、その2

2011年02月13日 05時02分03秒 | Weblog
若い世代でも「無縁化」が進んでいるのだが、そのなかで少し気になることがある。

最近の若い世代では「就職できない」「結婚できない」・・・・など、様々な問題で社会と縁が薄くなっている人たちが「自分は誰からも必要とされないのでは?」と考えるようになる事が多いらしい、が・・・・。

これは「生きている意味」にもつながる問題はないだろうか。

私が子供の頃は「生きている意味」にしても「働く意味」にしても、殆どの人は気にかけることはなかったのではないだろうか。

私だって、「生きている意味」も「働く意味」も考えたことなどなく、「生きている意味」は「死ねないから生きている」と言った程度にしか考えておらず、「働く意味」だって「働いてお金を貰わないと生きてゆけないから働く」としか考えた事などないのである、が・・・・。

「情報化社会」になるにつれ、「生きる意味」だの「働く意味」だのと言った余計な情報が満ち溢れ、私から見ると「情報に振り回された哀れな世代」に見えてくる。

この結果「自分がやりたい仕事」だの「充実した仕事」「やりがいの有る仕事」・・・・と、昔では考えられないようにことが求められるようになり、その先に待っている「現実とのギャップ」で悩む事になるのである。

現実の話「自分がやりたい仕事」が出来ている人がどれほどいるのだろうか。

「充実した仕事」「やりがいの有る仕事」にしても同じ事である。

「理想と現実」と言う言葉があるように、現実の社会では自分が思うようには行かないのが当たり前のことで、そんな事で悩んでいてはどうしようもないのである。

私が今こうしていられるのも、「仕事の選り好みなど出来ない立場」に置かれ、その結果「多くの人がやりたがらないような仕事」でもやってきた結果なのである。

26になった夏などは「仕事(熱処理)場の温度が53度」などと言う過酷な状態でも仕事をしたことがあり、その一方で、「寒さで指先の感覚がなくなる」言うような状態でも仕方なくやったものである。

こんな事を書くと、私が特別ひどい仕事をして来たように感じるかもしれないが、実際はもっとひどい状態の人もいるのである。

情報化社会などといっても、私がやってきたような事は片隅に追いやられ、華やかな部分ばかりが強調された「偏見に満ちた情報ばかりの世界」なのである。

「情報はネットで得られるから」と言う理由で新聞離れが進んでいるが、ネットで得られる情報は「日の当たる部分」ばかりで、いつの間にか「日の当たらない影の部分」は「存在しないもの」のようになってしまったのである。

私が敢えて「へそ曲がりおじさん」と言うのは、このように、一般的には「存在しない」と思われている影の部分を見ているからで、ある意味「皮肉をこめている」のである。

誰にでも出来る事ではないだろうが、私のような生き方をしていると「悩む事も少ない」のではないだろうか。

家族との縁も殆どなくなってしまい、正に「孤独死予備軍」になっているのだが、私とすれば「これも運命(宿命?)」だと考えるようにしている。

後は「成るようにしかならない」と言った開き直りで対処するしかないだろう。

余り悩んでいると「うつ病」になりかねないので・・・・。
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無縁社会

2011年02月12日 05時32分33秒 | Weblog
今まで「無縁社会」は高齢者が抱える問題だと思っていたが、最近は「若年層」にまで広がっているらしい。

私も「無縁」に近く、言わば「孤独死予備軍」でもあるのだが・・・・。

昔は「無縁社会」などという問題は余りなかった気がするのだが、いったい何が原因でこのような事になってしまったのだろうか。

様々な問題が複合的に絡んで起きた問題だろうが、その一つに「物質的に豊かな時代になった」と言う事があると思う。

「天は二物を与えず」と言うように、物質的に貧しかった時代は「人々の心が豊かだった」のだが、科学技術の進歩(発達)に伴い「物質的豊かさを手に入れた」のと引き換えに、「心の豊かさを失ってしまった」のではないだろうか。

物質的に貧しかった時代は「みんなが協力しないと生きてゆくのが難しかった」のだが。科学技術の発達とともに「人がやっていた事を機械が代行する」と言う事になったのだが・・・・。

それに負い打ちをかけるように「効率優先(無駄の排除)」と言う考え方が重要視されるようになってしまう。

その結果、人と人の繋がりの間に「機械」と言う物質が割って入るようになり、気がつくと「無縁社会」が出来上がっていたのである。

殆どの人は「科学技術の発達を喜ぶ」のだが、これもまた「諸刃の刃」でしかないのである。

だいぶ前の事だが、ある人に「諸刃の刃ってどういう意味?」と聞かれたことがあるのだが、別の表現をするなら「光と影」「表と裏」「効果と副作用」「薬も量を間違えると毒になる」「塞翁が馬」など、様々な表現が出来るのだが、要は「単純に喜んでいると落とし穴が待っている」と言うようなものである。

若い頃はそれほど考えてもいなかったのだが、最近良く考える事に「進化は退化」だと言う事である。

そして、「進化(発達)すればそれ相応の問題が発生する」と言う事である。

ついでに言うなら「物質的に豊かな世界=お金が無いと生きてゆけない世界」でもあるのだが・・・・。

「物質的に貧しい時代」は「お金の値打ちも余り無い(お金があっても物が買えないのだから)」のだが、物が溢れるような時代では「お金の有る無しで大きな差がつく」と言う事になり、人々は金儲けに奔走するようになるのである。

しかし、誰でも金儲けが出来るわけではないから困るのである。

この結果「格差」というものが発生し、「格差の下位」にいる人は否応無しに「無縁社会」に追い込まれてしまうのである。

私も無縁社会から抜け出したいとは思うのだが、非常に残念ではあるが「先立つものが無い」のである。

「国や行政の支援を!」と言う人も多いのだが、現実は「財源(先立つもの)不足で期待する事はできない」のである。

「税金の無駄をなくせば財源は確保できる」と言う人もいるだろうが、「税金の無駄をなくす」と言う事も「諸刃の刃」だと言う事に気がつくべきだろう。

多くの人は、単純に「無駄」と言うのだが、その「無駄」で生きている人もおり、単純に無駄をなくせば「その人たちが生きてゆけなくなる」と言う事になり、またもや新たな問題が発生してくるのである。

正に「諸刃の刃」そのもので、「完全無欠の解決策」どころか、「有効な解決策」さえ見つけることは出来ないのである。

このように、もはや国や行政に頼る事は困難で、残された解決策は「自助努力」だけであろうが、はてさて、いったいどんな自助努力をすればよいのやら・・・・。



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日本は八百長天国?

2011年02月06日 04時22分50秒 | Weblog
角界の不祥事で連日紙面がにぎわっているのだが、家電製品でも「データーの偽装」が行われている。

前回は「車の燃費の偽装」を書いたのだが、何故日本と言う国はこれほどまでにいい加減な数値がまかり通るのであろうか。

私が考えるには「それだけ日本人が馬鹿だから」ではないだろうか。

政治にしても、具体的な根拠も裏付けもない「民主党のマニフェスト」に簡単にだまされ、政権を奪われた自民党にしても、与党時代に散々批判した「野党のやり方」を、まるで手のひらを返したようにやっている。

そして、メディアにしてもまたしかりである。

このように、いくら考えてみても「日本人は賢い」とはとても思えないようなことばかりであるが、「ずる賢い」と言う言い方は出来るかも・・・・。

更に、「情報化社会」にも大きな落とし穴があることにも気がついていない。

今まで、「情報 過 社会」「情報 禍 社会」と言う言葉を使ってきたが、ここでもう一つ加えたいと思う言葉がある。

それは、「情報 過疎 社会」である。

「過疎?」と思うかもしれないが、別な言い方をすれば「情報 不足 社会」ともいえるだろう。

「過疎のうえに不足?」と思うだろうが、実際それ以外に表現の仕様がないのである。

単純に考えれば、今の社会は「情報が満ち溢れている」と思っているだろうが、満ち溢れている情報の殆ど(全てに近い?)が、「人々が興味を持つ情報」だけなのである。

このことに気がつくのは「私のようなへそ曲がりな人間だけ?」のようで、殆どの人は気がつかないのである。

「百聞は一見にしかず」と言う言葉があるが、以前「テレビで見るのは一見ではない」と書いているように、テレビを見ている人の多くが「映っていない部分」は知ることが出来ず、「映っている部分が全て」だと錯覚を起こしているのである。

情報にしても同じ事で、「情報化されたものが全てだ」と勘違い(錯覚)してしまい、いつの間にか「メディアに洗脳されてしまった」のである。

「日本は技術大国だ!」と言う人もいるが、単純に考えるなそうかもしれないが、いくら優れた技術を持っていても「その使い方を知らない」のであればどうしようも無しだろう。

ある人が「スーパーコンピューターがあるのに何故だ!」といっていたのだが、どんなに優れたコンピューターでも、使いこなせる人がなければ「ただの箱」あるいは「電卓のほうがまし」だと言う事に気がつかないのである。

どんなにコンピューターの性能がよくなったとしても、入力したデータ-が正しくなければ「正しい答えは出てこない」のである。

時折、データーの「偽装や改ざん、捏造」が問題になるのだが、実際は「日常茶飯事」のように身の回りで当たり前のように起きているのである。

ついでなので、身近で起きた笑えないような可哀想な人のことも書いておくことにする。

これは、データーの「偽装、改ざん、捏造」全てが当てはまる問題であるが・・・・。

それは、日ごろから血圧が高目で、医者から「1日3回、一ヶ月分(90回分)の測定値を記録するように」と言われたのだが、その人は朝起きたときの血圧が高い「隠れ高血圧」だったのだ、が・・・・。

ナントその人、朝起きてすぐの血圧が高いため、「計っても記録しなかった」のだそうである。

2時間ほどすると少し下がるため、それを朝の数値として記録したのだそうだが、最も高いときの数値が記録から漏れていたことには医者も気がつかず、結局、高血圧が元で「脳内出血」を起こしてしまったのである。

これは正に「自業自得」であるが・・・・。

気をつければいくらでも身の回りで起きている事で、チョット気をつければわかるはずなのだが・・・・。
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