へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

昨日の続きです

2011年01月24日 03時59分50秒 | Weblog
「日本とドイツはよく似ている」と言われる事があるのだが、実際の日本は「ドイツもどき」でしかなのである。

「もどき」とは、「がんもどき」「鮎もどき」「梅もどき」などとして使われるように、「似て非なるもの」と言う意味で使われる言葉である。

実際の話し、日本人は「似ている」というのに対して、一方のドイツでは「全く違う」と言うのだが、そのような相違が起きる原因は「根本的なものの見方の違い」にあると思う。

それを端的に表す話をきいた事があるのだが、それは会社の経営が思わしくなくなったときにとる企業の行動の違いの差である。

日本の企業では、「経営不振になると銀行に飛び込み、財政的な再建を図ろうとする」のに対し、ドイツでは「研究室に飛び込み、より良い製品を作って再建を図ろうとする」と言うように、表面的には似ているように感じても「いざと言うときの行動が全く正反対」なのである。

消費者にしても、何か物を買う時の基準を「企業の宣伝文句」で決める傾向が強く、このため「企業の側も消費者受けの良い宣伝文句を考える」と言う事になり、「中身より宣伝重視」と言う事になってしまうのである。

これを更に掘り下げて考えれば「規模の大きい企業ほど大量の広告宣伝費が使える」と言う事になり、「規模の小さい良心的な企業」程生き残るのが難しくなってしまうのである。

このように、日本では大企業に有利な条件ばかりがまかり通っているのだが、それを許しているのは「消費者(国民)自身」だと言う事を忘れている。

これらの事を防ぐには「厳しい法的規制の網をかける」と言う事が必要なのだが、現実には、規制する法を作る政府自体が「大企業から多額の政治献金を受け取っているので無理」なのであるが、この「多額の政治献金」が出来るのも、「上っ面の宣伝文句に踊らされる消費者が大勢いる」からだということにも自覚が必要なのだが・・・・。
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国産車 低燃費に「?」

2011年01月23日 03時38分29秒 | Weblog
この画像は、22日の朝日新聞の「夕刊一面トップ」に書かれていた記事であるが・・・・。

今更言うまでもないことだが、この記事は「日本を象徴するような出来事」としか言いようがないだろう。

写りが悪くて見ずらいだろうが、左上に書かれているのは「カタログの燃費表示と『実燃費』との違い」を表した表であるが、それを見ると、低燃費を謳った日本のハイブリットカーの実燃費は「カタログの60%前後」であるのに対して、ヨーロッパの車は「90%前後」と、全く持って不可解な数値が出ているのである。

しかし、こんな事は昔から行われていた「日本メーカーの常套手段」で、特別今に始まった事ではないのだ。

しかし、日本のメーカーでも「マツダ」だけは別で、私が今乗っている車は、10年近く前に作られた「ファミリア1500」で、夏場エアコンを使うと「16キロ弱」くらいになるが、それ以外の季節は「17キロ近く」走り、平均で「16.5キロくらい」走ってくれ、ハイブリッドでもない車がこれくらい走ってくれれば上出来であろう。

それも「10年近く前に作られた車」なのだから。

それでは何故日本のハイブリットカーがこのような数値を出せるのかというと、中央の少し左側下に「試験対策上手」と言う文字が書いてあることでわかるように、「巧妙?なテクニック」が使われているのだ。

これと似たようなことは数限りなく行われており、かつて「馬力競争」が盛んだったころの事を思い出す。

このときも、若者を対象に「如何にこの車が高性能か」と言う事を見せ付けるため、カタログに「○○○馬力」と大きく書かれていたものだが、ここでも巧妙な手口が使われていたのである。

このころの「馬力表示」には「ネット表示」と「グロス表示」の、二通りの表示が混在していたのである。

ヨーロッパの車とマツダは「ネット表示」で、マツダ以外の日本車は「グロス表示」でカタログが作られていたのだが、日本人の殆どは「ネットとグロスの違いを知らない」のである。

私はゴルフをしないので間違っているかもしれないが、「ゴルフではグロスが重要」らしいが、車のエンジンでは「ネットが重要」だということを知るべきだろう。

それでは「ネットとグロスの違い」を書いてみることにしよう。

馬力表示における「ネット」とは、「エンジンを車に搭載した状態で計測した数値」であった、「グロス」は「エンジン単体をテストベンチで計測した数値」なのである。

つまり、ネットで表示された数値は、エンジンの力が「発電機、オイルポンプ、キア、・・・・」と、タイヤに伝わるまでに様々な形で失われてしまい、グロスで100馬力のエンジンも「ネットでは80馬力以下?」と言う事になってしまうのである。

これを逆に表示すると、ネットで100馬力のエンジンは、「グロスでは125馬力」と言う事になるのである。

これは正に「メーカーの良心が問われる問題」なのだが、日本人はそのようなことに全く関心を持たないのである。

以前別のことでドイツに長く住んでいた人の話をしたことがあるが、ドイツでは「過大表示をする会社は信用できない」と言う事で、「会社の存続さえ危うい」のだそうであるが、日本ではこのようなことが「極当たり前」のように行われている。

これを別な言い方で表すと、「日本人は宣伝文句に踊らされるが、ドイツ人は踊らされない」と言う事になり、更に別な言い方をすれば「大メーカーの宣伝文句に洗脳されている」と言う言い方も出来るだろう。

選挙においてもまた然りで、「実現不可能なマニフェスト」にさえ群がってしまうようでは「世も末」と言うしかないと思うのだが・・・・。。

この記事を読んでいて気になることは、このような日本メーカーの姿勢に対する「批判的な論評」は余り見られず、なにやら「トヨタを擁護するような内容」さえ見受けられるのである。

これは「トヨタを敵に回すと後が怖い」とでも思っているのだろうか。

しかし、このようなことが平然として通用するのも、「国民が愚かだから」と言わざるを得ないのではないだろうか。

政治や企業の姿勢を批判する事は簡単だが、気をつけないと「天に唾する」のと同じ事になる。

今の日本をダメにしているのは、「政治でも企業でもない」と言う事に早く気がつく必要があるのだが・・・・。
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人間は地球の癌では・・・・

2011年01月15日 04時02分45秒 | Weblog
昨日の記事を投稿した後に思いついたのだが、地球を一つの生命体と考えると、人間の存在は「地球にとって癌のような存在」ではないだろうか。

がん細胞も、元をたどれば「正常な細胞」で、何らかの原因で「癌化」することによって問題が起きるのだが、人間の脳の発達も、言い方を変えると「正常な脳が癌化した」というべきではないだろうか。

癌細胞も、初期の段階では極ゆっくりと増殖するのだが、中期を越えるにしたがって増殖を早め、「気がついたときは手の施しようが無い」ということになるのと同様、人間社会も、人類が誕生した初期のころは極ゆっくりだった知能の発達が、近世になって急速に発達し、ついには手に終えない状態になっているのではないだろうか。

このように考えてみると、過去に発生して人類の生存を脅かした、スペイン風邪、チフス、コレラ、天然痘・・・・や、比較帝新しい、エイズ、サーズ、新型インフルエンザ・・・・なども、「地球を守るための防衛反応」のように思えてくるのだ。

大分前に書いた事だが、南方に住む原住民の話に「人間は地球の毒だ」と言っていたことを書いたことがあるのだが、これも私が考えた事と全く同じ考えだったのではないだろうか。

地球上には膨大な数の生命が存在するなか「唯一人類だけが高度な知能を持つ」のだが、この知能が逆効果となって災いを招いているのではないだろうか。

癌細胞に限った話ではなく、病原菌、病原ウイルス、寄生虫・・・・など、数が少ないうちは問題が起きなくても「あるレベルを超えると問題になる」とともに、ある限界を超えると「宿主とともに自分も滅びる」と言う宿命を抱えているのである。

経済発展を望むのも「終末期を早める」ということになるのだが、医療技術の発展による「高齢化社会」も、言い方を変えると「人間社会の末期的症状」ではないだろうか。

「レアアース」を初めとする、極めて埋蔵量の少ない鉱物資源に頼るのも「末期的症状」に思えてならないのだが・・・・。
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どこかが狂っている

2011年01月14日 03時40分15秒 | Weblog
昨夜食べたインスタントラーメンの袋を何気なく見ると・・・・。

製品によって表示の仕方は様々なのだが、最近やたらとアレルギーに関する表示が目立っている。

私が子供のころは、アレルギーといえば「鯖による蕁麻疹」が殆どだったように記憶しているのだが・・・・。

私も良く蕁麻疹になったのだが、成長するにつれ蕁麻疹になる事も少なくなくなり、今では全くそのような事はなくなっている。

さて、何故これほどアレルギーが増えたのだろうか。

様々な説がささやかれているのだが、私が考えるには、衛生状態がよくなったことと「医療技術の発達」が大きく影響しているように思えてならないのだが・・・・。

アレルギーは、人間が本来持っている「免疫機能」が、何らかの理由で自分の体を攻撃する事によって起きるといわれているのだが、衛生状態がよくなることによって「免疫機能が働くべき攻撃目標を見失う」ということになってしまったのだろう。

変なたとえかもしれないが、以前これと似たようなことがあったので書いてみる事にする。

それはある男の話であるが、ある組織で「対外的な問題に対応する係」をしていたのだが、対外的な問題が多かったときは重宝がられていたのに、対外的な問題が少なくなると「組織内のあら探しを始める」ということになるのである。

このあら探しが「建設的」な方向に向いてくれればよかったのだが、実際は「単なる弱いものいじめ」になってしまい、数年後、その組織は崩壊してしまったのである。

軍事政権なども似たような事ではないかと思うのだが・・・・。

医療技術の発達もまたアレルギーの増加に手をかしているように思えるのだが・・・・。

昔は助からなかった命が、「医療技術の発達で助かるようになる」のだが、このことは、自然界で重要な働きをする「自然淘汰」と言う仕組みに反する事になり、その結果「アレルギーの増加」と言う事になっているのではないだろうか。

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遅ればせながら、明けましておめでとうございます

2011年01月08日 04時11分23秒 | Weblog
去年の最後の更新で「終い良ければ全て良し?」と書いたのだが、今年も4日と6日にボーリングに行きました。

結果は、4日は「7ゲームで平均185」、6日は「5ゲームで平均199」と、新年早々としては満足の行く結果が出ました。

さて、新年早々ゆっくりと新聞を読み、テレビを見ていて気がついたことがあるのだが、私が以前から心配していた「情報『禍』社会」が現実のものとなってきているように感じてならないのである。

私が書いているブログも似たようなものだろうが、インターネットの発達とともに「誰でも簡単に情報を発信できる」と言うことが悪い方に作用しているのである。

「情報『化』社会」が「情報『過』社会」になり、いったいどれが正しいのかわからない状態を招き、ついには「情報『禍』社会」に突入してしまったのだ。

「意見には個人差がある」と言われるのだが、それを判断する能力にも「個人差」と言うものがある。

しかし、その個人差の中でも大きな位置を占めているのが「数が多いものが正しい」と言う考え方ではないだろうか。

しばしば耳にする言葉に「一番売れているのだから良いものに決まっている」と言う言葉があるが、これって本当なのだろうか。

「情報はネットで得られるから新聞は読まない」と言う人が増えているのだが、私は全く反対の意見である。

確かにネットで情報を得ることは出来るのだが、これには大きな問題があることに気がつくべきだろう。

私も時折ネットで調べ物(検索)をする(ニュース以外で)のだが、多くの場合「一番始めに出るのは役に立たないこと」なのである。

下手をすると「一番知りたいことが見つからない」と言うことも良くあることで、ネット社会は「悪意を持って情報操作が出来る社会」と言うこともできるのである。

こうなると、子供たちが有害なサイトにアクセス出来ないようにする「フィルタリング」と言うものを、大人の心にも着ける必要があるだが、これは「一人一人の自覚」に期待するしかないのが困ったところである。

昔の言葉に「清濁併せ呑む」と言う言葉があるのだが、これは「善・悪の分け隔てをせず受け入れる」と言う意味であるが、善と悪の識別が出来なくなっている現代人には意味をなさない言葉(私語?)となっている。

政治の混迷も、根底にこのような問題を抱えていることが最大の原因で、これからますます迷走をするのではないだろうか。



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