へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

依存症と言う病

2007年11月28日 04時15分31秒 | Weblog
薬物依存症、アルコール依存症などと同じ様に、様々な依存症がある。
薬物やアルコールの依存症の場合は、他人への影響が大きいために「社会問題」になるのだが、これから書く依存症は、他人への影響が少ないため余り問題にはならない。
携帯依存症、パソコン依存症、音楽依存症、ゲーム依存症、パチンコ依存症などなど。
「情報依存症」と言うのもある。
「ナンだソリャ?」と思うかもしれないが、「ある限られた情報」に振り回されて、自分で「物事の判断」が出来ない人のことである。
「政府の発表する情報」「メーカーの宣伝文句」などには、必ず「ウラ」があると思わなくてはいけない。
薬の「効能書き」と同じで、副作用(マイナス部分や都合の悪い部分)については、「出来るだけ触れない」様にしているのである。
何事においても、ひとたび「依存症」になってしまうと、抜け出す事は困難である。
政府や専門家、有識者などの言う事は、多分に「希望的かつ楽観的観測」が殆どである。
その上更に困った問題があるのだ。
様々な分野に、専門家や有識者が無数いいるのだが、縦の繋がりはあっても、横の繋がりは殆ど無いのである。
横の繋がりが無い為、個別に見れば正しく思えても、「総合的」に見た場合に正しいとは言えないのである。
「月面に基地を作る」「月の資源を活用する」などと言う「夢物語」がささやかれているが、「エネルギー問題」が起きている中で、どの様にして実現させるのであろうか?。
「国際宇宙ステーションの建設」さえ滞っているというのに。
21世紀と言う時代は、最早「夢を見る時代」ではなくなっているように思う。
しかし、悲しいかな「科学者、権力者」などと言う生き物は、「夢とロマン」を追いたい生き物なのである。
「夢とロマンに満ちた情報」などに依存していては、足元が危なくなってしまう。
「灯台下暗し」と言う事に成るのである。
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NHKの「海峡」と言うドラマを見て思った事

2007年11月27日 04時22分26秒 | Weblog
この話は、「書こうか書くまいか迷った」題材である。
しかし、私の「ブログの流れ」から言うと、「書かないわけには行かないのでは?」と思い、書くことにした。
このドラマを見ていない人も大勢いることでしょう。
「視聴率ベスト20」にも入っていないのだから当然の事である。
だが、そんな事はどうでもよいのだ、「ドラマの内容云々」と言う問題ではないのだ。
「その裏に隠れている事実」が問題なのである。
朝鮮半島に住んでいた、単一の「朝鮮民族」が、「南北に分断された原因」は、「日本軍の大陸侵略」に端を発している事に気が付いたのである。
「もし」と言う言葉は使いたくないのだが、もしも、「満州、朝鮮半島に日本軍がいなかったら」、ソ連軍は朝鮮半島に侵攻することは無かったであろう。
日本軍の敗色が濃厚になった事で、ソ連は「チャンス到来」と考えたのであろう。
「日ソ不可侵条約」を破棄して、日本軍を攻撃に出たのである。
日米の戦いに割って入ったソ連。
日本の敗戦により、朝鮮半島は「米ソの対立の場」となってしまったのである。
「資本主義と共産主義」、「正反対」と言ってもよい両国の思惑に翻弄されてしまったのである。
日本と朝鮮民族(特に北朝鮮に住む人)との関係は、根底に「過去の重大な問題」がある以上、修復する事は容易な事ではないであろう。
中国との関係も同様である。
「戦争の補償」と言う問題も、中韓を抜きに、「米国主導」で決められてしまったため、政治交渉の材料にされてしまうのである。
拉致事件の被害者の家族の心情は「察するに余りある」のだが、現在の状況を考えれば、解決は難しいと思う。
心情はわかるのであるが、現状ではいくら騒いでみても「関係を悪化させる」と言う事に成るだけである。
「常識など通用しない」相手には、「何を言っても無駄」と言うより、「逆切れ」と言う危険が潜んでいるのである。
今の北朝鮮の中枢は、「逆切れ」した場合には、「何をするかわからない」と言う部分がある。
アメリカも、「その事が心配」なので、「触らぬ神にタタリなし」と言ったところだろう。
ミサイルを打ち込まれてからでは「手遅れ」と言う事に成る。
可能性は、「けして低くない」と思うのだが・・・・・・。
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紅白歌合戦

2007年11月27日 02時59分42秒 | Weblog
今年も早いもので、後一ヶ月余りで紅白歌合戦の季節である。
恒例の事ではあるが、「出場する歌手」と共に「視聴率」が話題になる。
かつては「国民的番組」とも言われ、「50%以上の視聴率」を誇っていたが、近頃はその面影は無い。
「50%以上の視聴率に回復させる」などと「大見得」を切ったにも拘らず、結局惨敗しながら「そ知らぬ顔」をしている「大物タレント」もいる。
「始めから無理」なのはわかっていたのだが、自分の人気で視聴率を稼げると思ったのであろう。
ナンとも馬鹿げた話である。
それでは何故、「始めから無理」なのであろう?。
答えは至って簡単である、「時代(見る人)が変わってしまった」と言う以外に理由は無い。
50%以上の視聴率だった頃には、今に比べて、テレビ局の数も少なく、ビデオ、DVD,テレビゲームなど、何も無い時代である。
その上、車や娯楽施設なども少なかった。
そして一番の理由は、「歌自体が変化してしまっている」と言う事である。
当時は、歌謡曲や演歌が中心で、ポップス系の歌は殆ど無く、「大晦日は紅白を見て年を越す」と言うのが定番であった。
「選択肢の数」が少なかったのだ。
時代(見る人)が変わると共に「選択肢の数」が増えた以上、視聴率が低下するのは、「当然の結果」と言わざるを得ない。
テレビ局が増えた事も大きな理由であろう。
歌のジャンルが増えた事により「幕の内弁当」の様な感じになってしまっているところに、追い討ちをかけるように、「他局との競合」もあって、「大物歌手の出演拒否」と言う問題も発生している。
「何でこんな歌手が出るの?」と言う事にもなってしまうのである。
歌手が「NHKの安いギャラ」より、「民放の高いギャラ」を選ぶのは「資本主義自由社会」の下では、「仕方ない事」である。
NHK以外の放送局だって、「社運」をかけて「視聴率のアップ」に必死なのである。
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外国人に排他的な日本人

2007年11月25日 18時45分17秒 | Weblog
「中国鉄道大紀行」と言う番組を見ていて気が付いた事がある。
私自身、中国(上海)に何度か行って、「不思議」に思っていた事である。
番組を見た方ならわかると思うのだが、「ぶっつけ本番の様な出会い」にも拘らず、「非常に友好的」なのである。
一部には、「悲しい過去の歴史」による、「非友好的」な人もいるのは確かである。
しかし、一歩「その壁」を越えると、日本人には無い世界が待っている。
「殆ど中国語を話せなくて、筆談が多少出来る」と言う程度なのだが、私が「片言の中国語」を口にすると、彼らの目が輝いてくるのである。
「もっと知っている言葉を話せ」「これは日本語で何と言うのか?」・・・・・と、次から次えと質問攻めで、タチマチ「にぎやかに」なってしまうのである。
日本ではこの様な事は殆ど起きないであろう。
その理由は、日本は「単一民族国家」で、中国は「多民族国家」だと言う事に原因があると思う。
島国である日本は「異民族」と接触する機会が少ない。
一方の中国では、同じ国の中に「多数の民族」が混在している。
民族が違えば、「生活習慣(文化)」が違うには当然の事である。
日頃から「異民族との共存」をしている中国人にとっては、「過去の悲しい歴史」を除けば「日本人も単なる異民族」と感じているのではないだろうか?。
そして、もう一つの理由も考えられるのである。
その理由とは・・・・?。
コンプレックス(劣等感)である。
劣等感を持つ人間は、「自分より下位にいる者」をバカにする傾向がある。
そして、「自分より上位にいる者」に対しては「媚び諂う」と言う行動に出る。
「日本人の特徴」に、「ピッタリ当てはまる」と思うのは私だけであろうか?。
そして、この特徴が「今後の日本経済」に影を落とすように感じてならない。
「原油が100ドルを維持し続けりと、日本経済は大きな打撃を受ける」と発表された。
「何を今更」と言う感じである。
原油高騰のみならず、「サブプライムローンショック」に端を発した「株式相場の下落と円高」。
日本の生命線とも言える、「輸出の花形」である「自動車産業」にも大きな打撃が出ることは「必死」であろう。
時代は「大きく転換」しようとしているのだ。
情報化社会と言いながら、「肝心な情報」は何処にあるのであろう?。
「国際性も資源も無い日本」は、この先どうなるのであろうか?。
自民党もだらしないが、民主党は更に輪をかけている。
「政治の腐敗は国民の腐敗」と言う事に気が付いて欲しいのだが・・・・・。
「成長神話」を信じている様ではとても無理。
「政府が何とかしてくれるのでは?」などと「甘ったれた考え」は捨てなければいけない。
政府は、「問題が大きくならなければ対策は取らない」、と言うのが基本姿勢。
「先手必勝」ではなく、「後手必負?」なのである。
他人を当てにする事無く、「自分の身は自分で守る」と言う考えを持たなくてはいけないだろう。
「備えあれば憂いなし」である。
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木を見て森を見ず

2007年11月24日 04時31分43秒 | Weblog
「女性に多い」などと書くと、「女性蔑視」と言われそうだが、その様な気は全く無い。
最近は男にも増えているように思えてならない。
情報化社会になって、「受動的」に情報を取り入れていると陥りやすいように感じる。
世を挙げて「情報化社会」などと言っているが、私には疑問に感じてならない。
「情報の量」だけは確実に増えている事は確かである。
情報の量が増えただけで、単純に「情報化社会」と言ってよいのだろうか?。
ネットが出来る以前においては、個人が情報を発信する事は「容易な事」ではなかった。
ネットの発達により、「世界中の情報」が瞬時に得られる様になったのだが、その一方で、個人でも簡単に情報が発信できる為、「意味の無い情報の氾濫」と言う問題も起きている。
ネット上では、「匿名」で情報を発信できる為、「独断と偏見による情報」「意図的な情報」「悪意のある情報」など、気を付けなければいけない情報も多い。
また、個人のブログなどでは、「自分に都合の悪いコメント」などを削除してしまうと言う、一種の「情報操作」も行われている。
私のコメントも何度か削除された事がある。
2日前にも、削除されたばかりである。
従来の情報に「錯誤」があるため、「新事実」としてコメントしたのだが、ブログの主にとっては、「面子を潰された」と感じたのだろう。
様々な機器の開発により、「便利な世の中」になるにつれ、多くの人が頭(脳)を使わなくなってしまった。
頭(脳)を使わずに、「与えられた情報」のみで生活していると、情報の偏りによって「情報の栄養失調(不足)」と言う問題が起きてくる。
「目先の問題(木)にばかりに気を取られて、広い視野(森)で物事を考えない」日本人。
日本の重要な事項を決定する「最高機関」である、国会でさえも殆ど論議される事は無い。
国民(選挙で票を投じる有権者)が関心を持たないからである。
国民が関心を持たない事を論議していては、選挙で勝つ事が難しい以上、当然の話である。
「政治が悪いから」と言う人が居るが、国民にも責任があるのである。
地球温暖化問題に対応する為、日本の京都で会議が開かれ、「京都議定書」が締結されたのだが、どれだけの日本人が「真剣に」受けとめたであろうか?。
資源を持たない日本にとって、「国際貢献」は「資源ナショナリズム」に対応する、「一つの手段」と言えるのではないだろうか?。
資源を海外に頼っている日本にとって、大動脈とも言える「重要な海上輸送ルート(シーレーン)」の安全は、その殆どを外国(アメリカ)に頼っているのである。
「アメリカの庇護の下で成り立っている日本」、アメリカが見放せばどう言う事になるか、民主党も解っている筈である。
大局的な見地(木ばかり見ないで、森も見る)に立たなければ、「政権を担う」ことは難しいであろう。
何となく「政権を担う気が無い」と感じるのは私だけであろうか?。
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食糧危機の到来

2007年11月22日 04時21分30秒 | Weblog
「飽食の時代に食糧危機?」と思う人もいるであろう。
「アフリカか何処かの話だろう?」と思う人もいるかもしれない。
しかし、日本の現実の話なのである。
「給食費が足りなくなりそうなので、2日給食を休む」と言うニュースが報じられている。
「給食費の不払い」が原因ではない、「原材料の値上がり」が原因になっているのだ。
昼間、近所の奥様方の話を「聞くとも無く」聞いてしまった。
別に盗み聞きしたわけではない、聞こえてきてしまったのだ。
「次から次へと値上げするけど、企業努力で何とかして欲しいわ!」と言う意味の話である。
企業努力、企業努力とよく言われるのだが、「企業努力」は「諸刃の刃」だと言う事に気が付いていない。
ここでチョット余談なのだが、「諸刃の刃」と言う言葉だが、広辞苑では「諸刃の剣(刃)」とあり、パソコンで変換すると「諸刃」と出るのだが、携帯では「両刃」と出てしまう。
新聞記事なども「両刃」となっている事があるのだが、あえて私は「諸刃」を使っています。
話を戻すが、「企業努力」は、「合理化」「リストラ」などと言う形で「コストダウン」をしなければならない。
もしもリストラの対象が、自分自身であったり、身内だったらどの様に感じるであろう?。
インフレによる値上げと違い、値上げされた分の多くは、「海外へ流出」してしまうのである。
「値上げの要因」が「原油の高騰」にある以上、資源を持たない日本にとっては「どうする事も出来ない」のである。
原油高騰が、本来は食料以外には使われなかった、サトウキビ、トウモロコシ、小麦などを、「エネルギー(バイオエタノール)に転用する」と言う新たな問題を発生させた。
「新たな需要」が発生すれば、「価格が上昇する」と言うのは「経済の基本原則」と言わざるを得ないだろう。
食料を含む「資源」を海外に依存する日本は、「ジリ貧」と言う事になるであろう。
「農業を大規模化すれば」と言う話も出ていたが、いくら大規模化しても、太刀打ちは難しい。
「国土の面積」と言う基本的な部分で問題にならないのである。
急速な経済発展で「勝ち組(先進国)」の仲間入りをしたのだが、「基礎体力(国土の面積)不足」の為に「落ちこぼれ」と言う事になりそうである。
私自身は、元々「急速な経済発展」には興味が無かったので、影響は少ないのだが・・・・。
正直な話、「東京に生まれ、東京で育ちながら、東京が嫌い」で、現在の場所に住んでいるのである。
便利な社会も、宇宙旅行も、「全く興味が無い」と言うとウソになるが、「どうでもよい」と言う程度にしか感じない。
のんびりとした昔の生活に戻るのもまた「一興」だと思うのだが・・・。
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天気予報は何故当たらないのか?

2007年11月21日 04時47分01秒 | Weblog
天気予報が外れて嫌な思いをした人は多いと思う。
天気(気象)は、普段の生活に密着しているだけに、外れると影響も大きい。
それだけ重要な問題なのだが、そもそも、「天気予報」という表現に問題があると思う。
正確に言うなら、「予報ではなく予想」と言うのが正しいと思うのだが。
昔から「予報」と言う表現が定着しているので、今更「予想」と言う表現を使うことは難しいだろう。
しかし、「予想」と言う表現になれば、受け取る側の「受け取り方」も違うのではないだろうか?。
「競馬、競輪、スポーツなどの勝敗を予想する」のと同じなのである。
「当たる事もあれば、外れる事もある」と言うのが現実である。
「何処が同じだ!」と言う人もいるであろう。
しかし、悲しいかな「天気予報」も「勝敗の予想」も、「未来を予測する」と言う意味で、同じ事なのである。
それでは、どの様にして「天気予報」が作られるのであろうか?。
基礎となる「過去のデーター」を基に、「確率」によって決められているといってよいだろう。
確率は、「未来の予測」である以上、100%と言う事は「有り得ない」。
ましてや、基礎となる「過去のデーター」自体が、「せいぜい数十年」と言うレベルでは「当たる方が不思議」かもしれない。
40億年余りの「地球の歴史」の中で、「同じ気象の日」など、「限りなくゼロに近く」無いであろう。
天気予報の精度は、「年々向上」してはいるが、高望みは難しいのでは無いだろうか?。
天気の事では、嫌な思い出がある。
今から50年以上前、私が中学生だった頃、私が家の近くに住む友人と、日曜日に釣りに行くと言う話を聞きつけた同級生が「俺も連れて行け」と言うのである。
彼の家は、歩いて1時間余りのところにあり、今と違って電話など無かった時代、「雨が降ったら中止する」と言う約束であった。
しかし、当日は皮肉にも、私の家の付近は雨。
当然「中止」したのは言うまでも無い。
しかしである、月曜日に学校で会った時、彼はカンカンに怒っているのである。
何と、彼の家から約束の場所迄は、「晴れていた」と言うのである。
4キロ余り離れただけで、「晴れと雨」。
特別珍しい事ではないのだが、日頃それ程仲も良くなかったので、私が「約束を破った」と思ったのである。
今では考えられない出来事であろうが、携帯は愚か「固定電話」さえ少なかった時代、良くあった事である。
家を出たら最後、連絡手段が無いので「同じ駅の反対側で待ちぼうけ」なんて事もよくあった。
今に比べて、不便ではあったが「のどかな時代」で、良かった様に感じる。
天気予報にしても、今ほど細かくはなかったので、ある程度は「自己判断」をするしかなかった。
その為か、予報が外れても「文句を言う人」は少なかった様に記憶している。
何事においても、「他人を当てにせず自己責任で」と言う傾向が強かったと思う。
私は現在でも、天気予報は「参考程度」にしか考えていない。
「未来の予測」など出来るわけは無いのだから。


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買い手市場と売り手市場

2007年11月20日 03時06分18秒 | Weblog
「買い手市場」と「売り手市場」は、チョットした事がキッカケで逆転する事がよくある。
数年前の就職戦線は、「氷河期」と呼ばれた「買い手市場」であった。
運悪く、会社の倒産で失業中だった私には、就職の当てもなくそのまま現在に至っている。
65になった現在では、いくら「売り手市場」だといっても就職は難しいだろう。
しかし、今回の話は就職戦線の話ではない。
日本人の生活を揺るがしている、「世界経済」の話である。
「原油の高騰」がもたらした、「市場の逆転現象」。
原油の高騰自体も、需給のバランスが崩れた事により「買い手市場が売り手市場に」変わった事による物である。
かつては輸出していた中国でさえも輸入国になってしまったように、需要が大幅に増大してしまったのである。
この原油高騰が、「世界の穀物市場」を「売り手市場」に変えてしまった。
天候に恵まれて「豊作」になれば、「余剰在庫」が発生して価格の下落を招いていたものが、原油高騰により「バイオエタノールの原料」と言う「新たな需要」が発生した事により、需要が供給を上まり、「売り手市場」に変わってしまったのである。
この事は、食料自給率が低く、国内に資源を持たない日本にとっては「大きな痛手」になるであろう。
海外に資源を頼っている日本は、「ジリ貧」を覚悟しなくてはいけないだろう。
原油高騰以前は、「かなりの部分」で、日本に「価格決定権」があった。
しかし、原油高騰後では、価格決定権がなくなり、「日本が提示する価格」では相手が納得しないのである。
「日本が提示する価格以上」で売れるのだから、当然の話である。
「ビジネスの世界」では、「少しでも条件の良いほうに売る」と言われれば、どうしようもない事である。
戦後長い間「勝ち組」であった日本も、形勢が逆転して「負け組」の仲間になろうとしている。
「平家物語」の、冒頭の一説を思い出した、「おごれる者は久しからず、盛者必衰・・・・」、何時の時代にでも当てはまる「名言」と言えるのではないだろうか?。
 地球規模で「資源、穀物などの争奪戦」が始まっていると言うのに、国内の事にしか目が行かない日本人。
「過去の栄光」など、いくら振り回してみても「ナンノ役にも立たない」と言う事に気が付いて欲しいものだが・・・・。
「資源ナショナリズム」には、「日本人の人情論」は通用しない。
「日本の国際的地位」を、高くしなくてはいけないと言うのに、ナンノ手も打てないでいる。
「座して死を待つのみ」と言う様な事にならなければよいのだが・・・・。
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情報化社会の落とし穴

2007年11月19日 04時45分22秒 | Weblog
ネットの発達により、世界中の情報が簡単に手に入るようになった。
しかし、ここに「大きな落とし穴」があるのである。
以前書いたことがあるのだが、「欲しい情報が見つからない」と言う現実にぶつかるのです。
そればかりではありません、「重要な情報」であっても、「政権の中枢にいる者たちにとって都合の悪い情報」は表面に出ない事も多いのです。
私が書いている様な「悲観的な情報」も、「公の立場」にいる人が書くのは難しいでしょう。
「月面に基地を建設・・・」などと言う「夢物語」を実現する為には、どれ程の「地球資源」が必要か考えた事があるだろうか?。
夢物語の話だけで、現実の話には触れることが無い。
「原油の枯渇」ばかりではない、ウラン鉱石、希少金属、希少鉱物・・・・と、枯渇が心配される物が「目白押し」の状態で、どうやって実現すると言うのだろう?。
タダでさえ不足してきていると言うのに、それに「追い討ち」をかけることになりはしないだろうか?。
「地球温暖化」と言う問題にしても、「温室効果ガスの排出削減」のために様々な事が考えられているが、何となく「場当たり的」に思えてならない。
「省エネ」程度で解決する程、「生易しい問題」ではないはず。
先進国が排出を「ゼロ」にしてみても(実現不可能な夢物語だが)、「発展途上国の排出増加」で帳消しになってしまうだろう。
「発展途上国にも排出削減を」と言う考えもあるのだが、現在のような状況にしたのは「日本を含めた先進諸国」の責任ではないだろうか?。
「過去を不問にする」と言うのは、「身勝手」なように感じるのだが・・・・・。
「早い者勝ち」と言う論法もあるにはある。
「経済発展を損なわずに削減する」と言う事は不可能であろう。
大幅に定員をオーバーした「宇宙船地球号」は、確実に「破滅えの道」を歩んでいる。
近い将来には、僅かに残された資源を巡って「醜い争い」が起きるのではないだろうか?。
すでに、原油、ウラン鉱石、希少金属、希少鉱物などの「価格高騰」が始まっている。
「資源ナショナリズム」が台頭してきている事を考えれば、予断は許されない。
私が幾ら書いたとしても、「警告」の役には立たないであろう。
「九牛の一毛」どころか、「九万牛の一毛」程度の意味しかないであろう。
この様な事を「公の人」が言う事は「非常に難しい」と言わざるを得ない。
「国の屋台骨」を揺るがしかねないのである。
「情報化社会」と言えども、「ずべての情報」が流れているわけではないのだ。
物事にはすべて「ウラ」があることを認識するべきである。
政府や学者の言う事は「希望的観測や一時しのぎ」の、「楽観論」ばかりである。
この様な「楽観論」を信じていると、後で「ガッカリ」する事になるでしょう。
「地球規模」で起きている問題は、「一国の政府」の力ではどうする事も出来ないのです。
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国会劇場のドタバタ喜劇

2007年11月17日 04時35分05秒 | Weblog
喜劇と言うより、悲劇と言うべきかも知れない。
座長もいなければ、ストーリーさえも「出たとこ勝負」と言った感じで、予定外のシナリオで右往左往している。
守屋事務次官の問題も重要ではあるが、他にも重要な問題が山積していると言うのに、何を考えているのであろうか?。
民主党は、まるで「鬼の首」でも取ったように攻撃を仕掛け、自民党は徒に防戦するだけ。
「何のために国会議員がいるのかわからない」と言うより、「国会議員がいるからこのような問題が起きる」と言うべきかも知れない。
国の重要な事項は国会の議決によって決まる。
当然の結果として、「旨い汁を吸おうとする者達」が集まることになる。
「魚心あれば水心」である。
「記憶にありません」などと言う答えが通用する事自体不思議である。
昔から、「知らぬ存ぜぬ」は、悪いやつらの言う決まり文句である。
当分の間、ドタバタ劇(茶番劇とも言う)が続くのではないだろうか。
このドタバタ劇の根底にあるものは、「自民党と民主党の覇権争い」と言えるであろう。
しかし、「覇権争い」は自然界では「極当り前」の事である。
「生物が持つ本能」とも言えるのではないだろうか?。
「覇権争いと生物が持つ本能が同じ?」と思うかも知れないが、「強い物が生き残り、弱いものは滅ぶ」と言う意味で同じなのである。
参議院で第一党になった民主党も、衆議院では第二党である。
今回の問題は、「衆議院でも第一党になるチャンス」と言えるであろう。
みすみすチャンスを逃す手はない。
一方の自民党にしてみれば、一歩対応を間違えば大変な事になる。
政権政党である自民党を守る為には、「同じ自民党の仲間」を守ろうとするのは当然の事である。
覇権争いになれば、他の事など問題にはならなくなってしまう。
日本以外の国でも、大体同じ様な事をしているのではないだろうか?。
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