へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

久しぶりに書いてみる

2011年07月16日 05時04分14秒 | Weblog
最近は管総理を引きずりおろそうとする機運が強いのだが、そんなことをしていったいどうしようというのだろうか。

私は管総理を支持するつもりなど毛頭ないのだが、最近のこのような風潮にはいささか嫌気がさしているのだ。

管総理のやり方にも問題は多いだろうが、問題なのは、「他の人に代えたら良くなるのか?」と言うことである。

安部、福田、麻生、鳩山、管、と、次々に総理大臣を代えても変わり映えしなかったように、総理大臣の首を挿げ替えた程度ではどうしようもない状態になっているのだ。

「総理の首を変えれば何とかなるのでは?」と言う淡い期待を持つのかもしれないが、これは「当たりクジが入っている保障のないクジを引き続ける」のと同じことではないだろうか。

正直な話、今の社会は「とっくに成熟期を過ぎている」と私は思っている。

成熟期を過ぎるとどのような問題が起きるか考えた事があるだろうか。

人間にたとえるなら「成人病」のリスクが高くなる時期であって、その先には「衰退期」が待っているのである。

かつては「高度経済成長」といわれていたが、これを支えたのが「赤字国債」だということを認識する人は少ないだろう。

しかし、この赤字国債は「麻薬」と同じようなもので、ひとたび手を付けると抜け出す事は困難である。

また、赤字国債は、日本という国を「肥満(メタボ)」へといざなってもいるのである。

人間の肥満が様々な病気の原因になるように、今の日本という国も、様々な問題を抱えざるを得ないのである。

このような状態では、誰が総理になっても代わり映えはせず、同じことの繰り返しになってしまうだろう。

ここで少しうがった考え方をするなら、大臣になれる可能性の低い人たちが「総理が代われば俺にもチャンスが・・・・」と思っているのかもしれない。

仮の話し、1日で辞任する事態になったとしても「元○○大臣」には変わりがないのだから。



話は少し変わるが、先日「町議会議員選挙」が実施され、何人かの候補者と話す機会があったのだが、彼らの言い分は「票集め」以外の何物でもないのである。

いくら話してみても所詮は「票集め」のための公約であり、私の突っ込みに逃げ腰になるのである。

一人だけまともに話ができたのだが、彼が思うようなことが実現できる可能性はきわめて低いだろう。

私が議員に立候補しない理由がそこにあるのだ。
コメント (2)
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