戦争と私! 2013年09月13日 15時31分23秒 | 読書・作文・新聞投稿 ”戦争と私”の原稿募集に応募していました。(熊本日々新聞) #私 « 暑さ寒さも彼岸花! | トップ | 三つの喜び! »
6 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 ミゼラブル! (hiko) 2013-09-13 17:11:44 雁の巣と言えば、今のソフトバンクホークスの2軍の合宿所や練習場があるところですね。博多湾の対岸に見る街の空爆の火の手が、ハッキリ想像できます。最近、集団的自衛権だとか何とか、勇ましいのは格好いいですが、どうも危なかっしい気がします。 返信する そうらしいです! (忠さん!) 2013-09-13 17:28:59 hiko様雁ノ巣はそのようですね~当時は戦中ながらまだ民間航空機がルートもあって爆撃をうけながらも運用していたようでした。オヤジが航空局に勤務していました。私は小6でしたが、取ったタコを数匹ブら下げて飛行機のお客が出てくる近くにいました。お金より、飴玉などを交換にもらうのがなにより嬉しかったです!私は、海で、たこ、大型の貝、在日韓国人のプロのあとをつけて、技を盗んで 取って、飢えをしのいていました。泣いてよろこぶ母の顔が浮んできます。私は子供でしたが神風など信じていませんでした。よほどの 新兵器がうまれない限りゼッタイに(絶対と言う言葉は滅多に使いませんが)戦争は負けるとと公言していました。ところが、新兵器(原爆)は敵のほうが使いました。終戦の日、博多湾に、ポッカリ浮っかりながら、もう、空襲警報もないんだ機銃掃射もないんだという解放感を味わったのを思い出しています。アメリカと言わず何処の国にもナメられないように実力をつけたいものですね~ 返信する 貴重なお話です (日々くさぐさ) 2013-09-14 22:08:25 私には 戦争の記憶はありませんわが家の上を 水島を爆撃するためにアメリカの飛行機が 飛んでいた・・という話を聞きました忠さん!の目にした 戦争の実態はもっと 記録に残されるべきですこれからも折にふれ 小学校6年生の記憶を投稿されますように期待しています 返信する バカな戦争でした! (忠さん!) 2013-09-16 09:09:19 日々くさぐさ様戦争が終わっても食糧難は終わらず、腹いっぱい食べたいと必死でベンキョウししました。第1級無線通信士の免許を取って大阪商船の船に乗って、アメリカのロスアンジェルスに初めて、入港しました。そこの石油タンクの量にビックリ仰天しました。昭和28-29年ごろ車で溢れていました。日本では秋田県にチョッピリ石油が取れると聞いていたくらいでした。こんな大国と戦争して勝つわけが無いと思いました。バカな戦争をしたものです。 返信する Unknown (SHOU) 2013-09-16 12:27:04 高射砲で打っても飛行機まで弾丸が届かないとは・・・・・日本の戦艦も、最後には飛行機の餌食になったとか・・・・お空を制するものが勝つ・・・と言うことでしょうか・・・二度と戦争に参加して欲しくないですね。。 返信する 不戦の誓い! (忠さん!) 2013-09-16 14:23:25 SHOU様照空灯で照らしていましたから途中から落下するのがヨク見えました。あの頃は応戦しようにも味方の飛行機はなかったのですね~原子爆弾ともんぺで竹やりで勝てるわけもありません、せめてもの本土上陸がなくてよかったです! 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
博多湾の対岸に見る街の空爆の火の手が、ハッキリ想像できます。
最近、集団的自衛権だとか何とか、勇ましいのは格好いいですが、どうも危なかっしい気がします。
雁ノ巣はそのようですね~
当時は戦中ながらまだ民間航空機がルートもあって
爆撃をうけながらも運用していたようでした。
オヤジが航空局に勤務していました。
私は小6でしたが、取ったタコを数匹ブら下げて飛行機のお客が出てくる近くにいました。
お金より、飴玉などを交換にもらうのが
なにより嬉しかったです!
私は、海で、たこ、大型の貝、
在日韓国人のプロのあとをつけて、
技を盗んで 取って、飢えをしのいて
いました。
泣いてよろこぶ母の顔が浮んできます。
私は子供でしたが神風など信じていませんでした。
よほどの 新兵器がうまれない限りゼッタイに(絶対と言う言葉は滅多に使いませんが)戦争は負けるとと公言していました。
ところが、新兵器(原爆)は敵のほうが使いました。
終戦の日、博多湾に、ポッカリ浮っかり
ながら、もう、空襲警報もないんだ機銃掃射もないんだという
解放感を味わったのを思い出しています。
アメリカと言わず何処の国にもナメられないように実力をつけたいものですね~
わが家の上を 水島を爆撃するために
アメリカの飛行機が 飛んでいた・・という
話を聞きました
忠さん!の目にした 戦争の実態は
もっと 記録に残されるべきです
これからも
折にふれ
小学校6年生の記憶を
投稿されますように
期待しています
戦争が終わっても食糧難は終わらず、腹いっぱい食べたいと必死でベンキョウ
ししました。
第1級無線通信士の免許を取って
大阪商船の船に乗って、アメリカのロスアンジェルスに初めて、入港しました。そこの石油タンクの量にビックリ仰天しました。昭和28-29年ごろ車で溢れていました。
日本では秋田県にチョッピリ石油が取れると聞いていたくらいでした。
こんな大国と戦争して勝つわけが無い
と思いました。
バカな戦争をしたものです。
日本の戦艦も、最後には飛行機の餌食になったとか・・・・
お空を制するものが勝つ・・・と言うことでしょうか・・・
二度と戦争に参加して欲しくないですね。。
照空灯で照らしていましたから途中から落下するのがヨク見えました。
あの頃は応戦しようにも味方の飛行機は
なかったのですね~
原子爆弾ともんぺで竹やりで勝てるわけも
ありません、せめてもの本土上陸がなくてよかったです!