“坂本龍馬が「大政奉還」を思いついた”という龍馬伝説「大政奉還発明伝説」はウソである。
司馬遼太郎が空想歴史小説『竜馬がゆく』の中でそういうフィクションを書き、それが世間に事実であるかのように広まってしまったわけだ。一部には、事実ではないことを知りながら自分の金儲けの為にこの作り話を必死に喧伝し続けている“悪質龍馬業者”も居る。
『竜馬がゆく』は架空の幕末スーパーアイドル坂本“竜” 馬の物語(フィクション)に過ぎない。歴史的実在の坂本“龍”馬の実際とは大きく異なっている。(龍馬本人は自分の名を“竜馬”と表記したことはないそうだ。)
専門誌『歴史評論』(317号 昭和51年9月号)掲載の思想史家:絲屋寿雄氏の「竜馬の虚像・実像 ―司馬遼太郎『竜馬がゆく』によせて―」より引用する。(文字強調は私メガリスによる。)
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『坂本竜馬海援隊始末』の記事によると、一八六三(文久三)年一月二五日、竜馬は江戸におり、沢村惣之丞らとはじめて幕臣大久保一翁と会談している。一翁は当時、勝とならんだ幕府の先覚者で、かつて蕃書調所頭取、外国奉行を勤めただけに、世界事情に通じ、その識見も群を抜いていた。
彼は、幕府は天下の政治を朝廷に返還し、徳川家は諸侯の列に加わり、駿・遠・三の旧領地を領し、居城を駿府に定めるのが上策であると論じて、幕吏たちを唖然とさせたことがあった。また文久二年の春、政事総裁松平春嶽に上書し、大小の公議会を設け、大公議会の議員は諸大名を充て、全国に関する事件を議し、小 公議会は一地方に止まる事件を議する所とし、議員と会期は適宜の制を定めればよいと論じた。
竜馬たちが大久保一翁と会談したとき、一翁は、万一の場合、殺されるかもしれないのを覚悟で、思い切って自分の意見を述べたところ竜馬と沢村の両人は手を打たんばかりにして共感した。
同じ頃、竜馬は、勝が千代田城の大広間で将軍ご辞退の大議論をやってのけたという話を勝から直接聞かされ、こんな調子で議論をすれば先生の命が危いのではないかと手帳に書きつけている。
これらの話は竜馬に大政奉還論をはじめて吹き込んだのは大久保一翁や勝海舟のような幕府側のブレーンであることを語っている点で重要な資料であるが、何故か司馬遼太郎によっては正面からとりあげられていない。
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『竜馬がゆく』は娯楽のための単なる空想歴史小説に過ぎない。そういったものも史実に絶対に忠実でなければならないということはない。当該資料を司馬遼太郎が「正面からとりあげ」ないからといって、其れが彼の落ち度であるということにはならない。「何故か」などと否定的ニュアンスで語られる理由はない。(ただ、もし、司馬が“『竜馬がゆく』は史実に忠実に書いてある”旨のことを言ったり、そのように理解されるような言動をとったとしたら、それは問題である。)
最初の提唱者である大久保一翁(おおくぼ いちおう)よりも熱心に大政奉還論を説いたのが福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)である。
坂本龍馬が大政奉還実現のために奔走したという話もウソである。彼は後藤象二郎に一翁・春嶽らから受け売りの大政奉還策を教えた(とされているが、実はこの話にも確たる根拠は無い。)が、他には一切何もしていない。“龍馬が大政奉還策を発明し、彼の奔走で実現した”という「大政奉還発明奔走伝説」はウソである。