楽学天真のWrap Up


一語一句・一期一会
知的遺産のピラミッド作り

司馬遼太郎の考えたこと(1)

2006-09-23 18:52:25 | 読書
司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10

新潮社

このアイテムの詳細を見る


嵐の学会作業の中で読んだ一冊。司馬遼太郎ものは随分と読んだが、そのきっかけは学生。現在さる大学で助手をしている、かつての私の学生との出会いはおもしろいものであったが、その学生はいつも本を読んでいる。見ると司馬遼太郎。私の人生は一貫して文学音痴。こったことがあるものと言えば、松本清張全て、森村誠一全て、西村京太郎ものなど推理小説だけ。
司馬遼太郎が亡くなった時、極めて多く報道されたが、私は1つも読んだことがなかった。なんでこんなに騒ぐのだ?と理解不能であった。そして、その学生がなぜそんなに凝って読むのかも理解できなかった。以来、私はさまざまな文学ものなどを隙間の時間に読むようになった。以来、何百冊読んだかわからないが、読書趣味が続いている。
 さて、この1冊。書かれた時代は私の幼き頃から小学生時代。司馬遼太郎はほぼ私の父の世代。そして、あの第2次世界大戦の修羅場からの生還者。私の父達の世代は、酒を飲むと軍歌を歌い、とんでもない修羅場であったのに、その時の青春時代を懐かしんでいる姿があった。私は幼心に<戦争なんて人がどんどん死ぬとんでもない怖い世界なのに、昼間は大人は皆、そういっているのに夜になって酒を飲むと、なぜ違うことをいって懐かしんでいるのか?わからん!>と思ったものである。昼は安保反対と叫び、キューバ危機で「戦争がまた始まるぞ!」と恐れているのにである。今は理解できる。命を掛けた青春であったからである。でも戦争は強制された命のやりとりであった。だからこそ、昼も夜もどちらも真実なのである。
 この司馬遼太郎もそのような修羅場から帰還者であった。そして青春はまさに戦争の時代。彼が明治以降は狂った日本の歴史と 認識し、人間それも変わった人間をこよなく愛し、歴史の中からそれを描き出すことを通してメッセイージを送り続けたことはつとに有名である。私はこのエッセイ集をゆっくり読んで、私の生きてきた道、父の生きてきた道、その時代、そして日本と世界、科学の世界と未来を考え続けていきたいと思っている。
 最初のエッセイ「請願時の狸ばやし」なんて最高!一気にこのエッセイ集に引き込まれた。
あすの休日は本屋へいって、その(2)を買おう。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵐の日々の中の小嵐

2006-09-23 01:36:40 | 生活
 9日間に及ぶ学会、死のロードが終わった。ブログに書く暇もないほど忙しかった。台風も来て、そして去った。
学会後のワークショップ。ほぼ10年ぶりにやや我がままな友人と、外国人を呼びワークショップを開いた。途中で国内を飛行機で移動し、場所を変えて開くというやや異色なもの。そこでの小嵐話を1つ。
 ドイツ人。一銭のキャッシュも持たずに来た。事前に書類を整えればなんとかなったものを、締め切りを守らず、こちらの研究費を現金化することもできない。なんども書類の締め切りを守れとメールした。そして間に合わずにそのままやってきた。「こんなことは欧州ではありえない!invoiceだけで金は分かるだろう!」と叫ぶ。私は 招待した外国人の多くいる面前であえて声を荒げ、「欧州、日本、そんなことは関係ない!請求書(invoice)で額は分かるが、払った証拠(reciept)ではない!それでは払えないと秘書からいってあるだろう!あなたの国では請求書は領収書なのか?」と一喝。非はドイツ人の我がままにあることは他の人の面前で認めさせた。このように人の国を低開発国よばわりする輩はいつでもいる。世界を知らないものどもの哀しい姿である。かつて森鴎外を憤慨させたナウマンというドイツ人の傲慢な姿が一瞬、頭をよぎった。しかし、おかげで現金を全て私が立て替えるはめとなった。私は喧嘩を全面展開させることもやぶさかではなかったが、主催者として全体の雰囲気を維持することを優先させた。
 私は昔、この手の喧嘩をよくやった。アメリカ人、ロシア人、フランス人、中国人でも誰でも、「日本人は~~とか、日本は~~」とひとくくりにする物言いをする議論を私は大嫌いだからである。この手の物言いをする日本人も実に多いが、私は軽い冗談でも、そこに人を馬鹿にする話題を含むことは大嫌いである。人がそのような議論をしていると、
<ほらほらまたやってる、だから喧嘩になるんだよ。くくるときはほめるときだけにしときな>、と思う。
批判するときは具体的なことにとどめておけば良い。無用な一般化をするから殺し合いにまでになる。
 さて、実は私にそれを強烈に教えてくれた負けの喧嘩(というか喧嘩両成敗)が私にはある。私が昔、カナダに居たときのことである。そこはモントリオール。言葉は英語とフランス語が入り交じる。酒を飲むと大変である。途中まで英語で話していて、フランス語の人間が来ると完全に入り交じる。英語でさえよく分からない上に酒を飲んでいる。私には雰囲気だけしか分からなくなる。
 ある時、私はカナダ人に『日本では薄いコーヒーをアメリカンコーヒーという。そこで「ブランディー、氷で割ればアメリカン」というんだよ』と、当時のテレビコマーシャルのあるフレーズを紹介した。これが一緒に飲んでいたカナダ人に大受け、大爆笑であった。
 私は、<お!受けた。これはジョークがうまく言った>と思った。しかし、
ところが、一緒にいた、大学で同室のアメリカ人が突然立ち上がり、烈火の如く怒りだした。
『お前ら日本人は!、トヨタは!ーーー!』
 と訳のわからん英語でまくしたて始めた。ただでさえ分からないのにこんな早口、何を言っているのか分からん。私もかちん!と来た。「お前らはいつもでかい顔をして!このアメリカ帝国主義者が!~~」とかなんとか下手な英語で。
でも、どうもジョークで頭に来たらしい。当時は、バブルの絶頂。多くのところで日本人は確かに傲慢にもなっていた。私も。
 その時である。英語フランス語の完全バイリンガル、カナダ人がいいことをいっておさめてくれた。
「アメリカ人は、日本人は~~、というから駄目なんだよ、お前ら友達だろ?だったらそんな言い方は止めた方がいい」
私は、<お~~、なるほど、と思った>。 その時、カナダはケベックがカナダから独立するかどうかでひっくり返したような大騒ぎになっていた。皆そのことを議論していた。そのカナダ人はオタワの川縁で生まれ育ったという。そこは英語圏とフランス語圏を統一するために設けられた首都。ケベック州とオンタリオ州の境目にある。言葉の使いはじめから両方を使っていたのでどちらにも何のストレスもないという。彼はカナダの分裂騒動を悲しんでいた。カナダでは象徴的な人である。
 というわけで、それ以来、私は出身地や国をくくって人の悪口を聞くのがあまり好きではない。そのような議論を聞くと不愉快になるようになった。だから当然言わない。傷つけない程度の軽いジョークはいいが、<度が過ぎると喧嘩になるぞ~!>と思う。
 ところで肝心のワークショップの方は、なかなかおもしろいことを随分と気がつきさせてもらった。共催した友人も、そのドイツ人に負けず劣らず、我がままであるが今後の見通しを議論し、久々に楽しかった。本日、無事終了した。手伝ってくれた学生諸君、秘書さん、ご苦労さん。ありがとう。まだ後始末があるけれどよろしくね。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする