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博士とは

2007-01-17 01:03:08 | 科学
昨日午後は都庁の見える研究所で一人の学生の博士の審査があった。



出来上がった論文を回覧しながら1時間ちかくの発表と1時間以上のやりとり。そのやりとりの中できちんと応答できるか、どの程度考え抜いているか、などを見る。詰まる場面も多々あるが、そのことが必ずしも問題なのではなく如何にきちんと考えを述べられるか、である。

なぜなら、博士とは「これからは1人前ですよ。自分で研究のテーマを見つけ、データを出したり、理論を整備したりしながら新しい発見をし、それをきちんと国際的な学術雑誌に公開できる能力があるね」という免許皆伝を受けたもののことである。

昨日の発表はアメリカ人教授もいるので全部、英語。学生に取って発表する方は大変ではあったと思うが、将来のためにはよいことだ。その発表の後の審査会で、アメリカ方式の審査基準の話になった。
その教授の大学の基準は、full paperが3編、すでにacceptされていることが条件であるという。
4頁程度のletterはappendix(付録)であり、評価が低いとのこと。full paperで体系を求めるという。
これはいいことである。

日本でも公開は条件であるところが多いが、letterかfullかは問わない。さすればいきおい書きやすいletterに流れるね。
今日のその議論で、私のところもそうしようかな?(fullが条件)とちょっと思う。
でも反対も多いだろうな。

だって、「英語で書かねばならないなんてとんでもないハンディー!日本語で書いて何が悪い!」という過激国家主義的・民族主義的研究者だって、まだいるからね。自然科学の世界ではあるが。
「journalの審査をパスすることを基準にするなどけしからん!人のふんどしで相撲を取ることと一緒だ!」という人もいる。
私は、少々のハンディーがあるとはいえ英語は科学リテェラシーの世の中、しゃーない、と思う。言葉が2つ使えることはハンディーではなく利点と思っている。だって私たちが日本語で専門の話をしている時、彼らには分からない。しかし、私たちには彼らの話が丸見え。これって不利じゃなく、有利でしょ。英語で発表する努力は、本格的な科学の努力に比べたら、たいしたことではないと思う。半年も英語の世界につかれば誰だって使えるようになるものだから。

指導教官と異なる視点で審査され、論文が雑誌に通ることは自立の上で重要。「ふんどし論」を展開する人って、自分と違う見解を学生に支持されたら困るからなのかな?なんて思ってしまう。「少々の違い、いいじゃないか、対等に議論すれば、だって博士って自立することだろ?」と思ってしまう。
今回の場合ということではなく、上の話はあくまでも一般的な話である。
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