阪神大震災からはやいもので12年も経ってしまった。
私はあの日の朝は大阪にいた。遠い昔、高校生の時に体験した大地震以来の大揺れで本当に恐怖が走った。おまけに住んでいたのは、相当にボロな大学の宿舎。4階建ての一階にいたので飛び起きた。家族も皆飛び起きた。私はすぐにテレビをつけ、どうなっているのか釘付けになった。しかし、夜明けになって街がヘリから見えて来ても、なぜか静かな中継であった。情報が全く伝わらない。把握できないのである。私はその日、朝から講義をすることになっていたの住宅から歩いて10分程度の大学へ行った。誰も来ない。人がいない奇妙な異様な静けさである。全ての交通が止まっている。西宮に住む同僚に電話しようとしても通じない。
大学ではやがて、大変なこととなった。まず同僚の無事確認作業から。その同僚は翌日やっと無事が確認された。「暖をとり、食事のための火がない!」と叫んでいる。そして、真冬の最中、ライフラインの確保のため、ホームセンターなどでガスボンベを買いあさり、西宮へ向かった。なにごともなかったかのような梅田から西へ向かうと風景が変わり始める。倒壊している家がどんどん増える。途中で電車ももう走らない。歩く。皆リュックを背負い線路を歩く人の列。
この中で6千人を超える人が亡くなった。
それからもう12年、である。これを忘れてはならない。災害は忘れた頃にやってくる。
合掌。
私はあの日の朝は大阪にいた。遠い昔、高校生の時に体験した大地震以来の大揺れで本当に恐怖が走った。おまけに住んでいたのは、相当にボロな大学の宿舎。4階建ての一階にいたので飛び起きた。家族も皆飛び起きた。私はすぐにテレビをつけ、どうなっているのか釘付けになった。しかし、夜明けになって街がヘリから見えて来ても、なぜか静かな中継であった。情報が全く伝わらない。把握できないのである。私はその日、朝から講義をすることになっていたの住宅から歩いて10分程度の大学へ行った。誰も来ない。人がいない奇妙な異様な静けさである。全ての交通が止まっている。西宮に住む同僚に電話しようとしても通じない。
大学ではやがて、大変なこととなった。まず同僚の無事確認作業から。その同僚は翌日やっと無事が確認された。「暖をとり、食事のための火がない!」と叫んでいる。そして、真冬の最中、ライフラインの確保のため、ホームセンターなどでガスボンベを買いあさり、西宮へ向かった。なにごともなかったかのような梅田から西へ向かうと風景が変わり始める。倒壊している家がどんどん増える。途中で電車ももう走らない。歩く。皆リュックを背負い線路を歩く人の列。
この中で6千人を超える人が亡くなった。
それからもう12年、である。これを忘れてはならない。災害は忘れた頃にやってくる。
合掌。