さて、大学院受験。昔の大学受験の時の古びた受験参考書を取り出し、やり直すことにした。昔は如何に勉強していなかったがよくわかる。紙がただただ黄ばんでいるだけ。ほとんど勉強した跡がない。今度は真っ黒になるまでやった。少し、分かるようになってきた。大学受験のときと異なったのは単語の暗記などという馬鹿なことは止めたこと。大学受験のときは、「赤尾の豆単」を丸ごと暗記すれば良い、などというどこかの宣伝文句にだまされた。しかし、今回は読み、書きの数をこなすことに集中した。
大学院へ進学した。そこそこ文献も読んだ。そしていよいよ学位を書く時となった。その前に英語の論文を公表しておかなければならない。私の指導教官は、すばらしい人格の人で、私のやりたいようにやらせてくれた。悪く言えばほったらかしである。しかし、その様子を横で見ていた指導教官の友である別の教授が、ある日、私に「話がある」といって呼び出された。「原稿を持って来い」という。まだ、ワープロもない時代、手打ちのタイプでA4で100枚以上の原稿を抱えて、その教授の部屋へいった。その教授はパラパラと原稿を見て、言った。
「今日から3日間、俺のうちへ来い。泊まる容易をして」
それから3日間、夜。1枚1枚、丁寧に、この前置詞は、この動詞は自動詞、他動詞、evidencesは間違い--。原稿は真っ赤になった。それを今度は昼に、タイプで打ち直す。今はワープロで一瞬。しかし、当時の手打ちタイプでは20枚~30枚全部打ち直すのに完全に丸一日はかかる。1~2時間しか、寝る間がない。でも、出来た!
その教授はまだご存命である。私のへたくそな英語を一度も馬鹿にすることなく、怒ることなく、淡々として見てくれた。夜連続して、7~8時間も続くのである。私の方が体力が持たない。こっくりすると、「少し休むか?」といって、教授の奥さんがコーヒーとお菓子を持ってきてくれる。今も忘れることの出来ない濃密な英語の身に付いた一瞬であった。
研究と英語に少し自信がつきはじめた。そのまま、学位が取れると思った。しかしである。ここで大問題が起きた。私のまとめた研究はそれまでの通説と異なり、多くの教授が考えるそれまでの通説と大きく異なっていた。私の指導教官や英語を見てくれた教授は熱心に支持してくれたが、他の教授から猛反対され、つぶされる可能性がある、との助言を受けた。万全にするために1年間延長を決意することにした。
これは結構きつかった。なぜなら親から猛反対されていた結婚は修士課程を終え、博士課程にすすんだ時についに実現し、この学位の最中は子供を抱えながらであった。おまけに延長をするということは私の奨学金が切れ、収入は妻のみということとなるからである。
でも、一方で私をさらに成長させるよい時期ともなった。その新しい学説にもとずくシンポジウムが東京で学会で相次いで開かれた。私はまだ大学院生の分際であったが、ほとんど毎月のように東京へでる機会を得た。多くの知り合いだできた。
そして、1年後、ほとんど慌てることなく学位を得た。そして学術振興会の研究員にもなることができた。それまでの苦しかった家計が一気に明るくなった。
東京へ出て、東大の先生などと知り合っていたが、「アメリカの国際学会へ行きなさい。お金は頼みなさい。必ず何とかなるから」と強く推薦された。
やっと国際舞台への切符が手に入った。私はすでに30になっていた。
しかし、問題は英語である。
それから、再び三たび、英語の勉強を開始した。今度の課題は話す、聞く。
(つづく)
大学院へ進学した。そこそこ文献も読んだ。そしていよいよ学位を書く時となった。その前に英語の論文を公表しておかなければならない。私の指導教官は、すばらしい人格の人で、私のやりたいようにやらせてくれた。悪く言えばほったらかしである。しかし、その様子を横で見ていた指導教官の友である別の教授が、ある日、私に「話がある」といって呼び出された。「原稿を持って来い」という。まだ、ワープロもない時代、手打ちのタイプでA4で100枚以上の原稿を抱えて、その教授の部屋へいった。その教授はパラパラと原稿を見て、言った。
「今日から3日間、俺のうちへ来い。泊まる容易をして」
それから3日間、夜。1枚1枚、丁寧に、この前置詞は、この動詞は自動詞、他動詞、evidencesは間違い--。原稿は真っ赤になった。それを今度は昼に、タイプで打ち直す。今はワープロで一瞬。しかし、当時の手打ちタイプでは20枚~30枚全部打ち直すのに完全に丸一日はかかる。1~2時間しか、寝る間がない。でも、出来た!
その教授はまだご存命である。私のへたくそな英語を一度も馬鹿にすることなく、怒ることなく、淡々として見てくれた。夜連続して、7~8時間も続くのである。私の方が体力が持たない。こっくりすると、「少し休むか?」といって、教授の奥さんがコーヒーとお菓子を持ってきてくれる。今も忘れることの出来ない濃密な英語の身に付いた一瞬であった。
研究と英語に少し自信がつきはじめた。そのまま、学位が取れると思った。しかしである。ここで大問題が起きた。私のまとめた研究はそれまでの通説と異なり、多くの教授が考えるそれまでの通説と大きく異なっていた。私の指導教官や英語を見てくれた教授は熱心に支持してくれたが、他の教授から猛反対され、つぶされる可能性がある、との助言を受けた。万全にするために1年間延長を決意することにした。
これは結構きつかった。なぜなら親から猛反対されていた結婚は修士課程を終え、博士課程にすすんだ時についに実現し、この学位の最中は子供を抱えながらであった。おまけに延長をするということは私の奨学金が切れ、収入は妻のみということとなるからである。
でも、一方で私をさらに成長させるよい時期ともなった。その新しい学説にもとずくシンポジウムが東京で学会で相次いで開かれた。私はまだ大学院生の分際であったが、ほとんど毎月のように東京へでる機会を得た。多くの知り合いだできた。
そして、1年後、ほとんど慌てることなく学位を得た。そして学術振興会の研究員にもなることができた。それまでの苦しかった家計が一気に明るくなった。
東京へ出て、東大の先生などと知り合っていたが、「アメリカの国際学会へ行きなさい。お金は頼みなさい。必ず何とかなるから」と強く推薦された。
やっと国際舞台への切符が手に入った。私はすでに30になっていた。
しかし、問題は英語である。
それから、再び三たび、英語の勉強を開始した。今度の課題は話す、聞く。
(つづく)