Nikon D90 + TAMRON SP AF90mm F/2.8 Di MACRO
専門科に属していた高校の3年間と浪人期間である1年間、
大学受験に失敗した後、細々と描いていた数年を足した《のべ10年にも満たない年月》が、
自分が絵画に関わっていた全ての期間である。
そんなワタクシ、合格にはいたらなかったものの、わりと優秀な『受験用絵画の受験生』でしたの♪
だがその『受験』というワクが外れ、『作家として作品を作る/表現してゆく』という段になってはじめて、
自分には『表現者としての資質がそなわっていない事』に気がついた。
ただ『描く技量を有していたから猫いていた』のであって、『描きたいモノ・描くべきコト』があった訳では無かったのだ。
公私ともに色々な出来事と重なった結果、
自らの資質に気がついたその時期を境に、絵筆を握ることはなくなった。
今から10万20年あまり前の事である。
そんな『中途半端な作家生活経験者』でしかない自分が、
今まさに作家としての第一歩を踏み出した若者~恒森将晃さん~の作品展を観に行った。
ご丁寧にも若者の師匠は、観に行く前から「観終わったら感想レポートを提出するように。」と通達して来た為、
なんとかソレラシイモノをでっち上げてみたいと思う。
※ ※ ※
今年の9月。
展示会のDM制作を請け負った関係で、はじめて恒森さんの作品を見た/手にした。
その時の正直な感想は、「・・・・・・。。。」
好き嫌い/良い悪いを評する以前に、
自分にはどの面を切り取っても語るべき言葉を持ち合わせていない作品に思えた。
簡単に言えば、《とっかかりが無い》。
もともと『受験絵画』で終わっている自分には、『抽象画』を咀嚼し評価出来るだけの度量が無い。
色や構図を手がかりに解釈の真似事が可能な作品もあるにはあるのだが、
恒森さんの作品にはその手がかりさえ見つけられそうになかった。
どうしても先入観とある種のレッテルを貼ってしまいそうになる。
出来るだけニュートラルな状態で個展会場入り出来るよう、10万2分程滝に打たれてから名古屋へと向かった。
会場のドアを開けるといくつかの作品が目に飛び込んで来た。
その中には自分が知っている唯一の作品~とっかかりがみつからなかった小品~も含まれていた。
会場に入り「はじめまして。」の挨拶を交わし、ゆっくりと周囲を見渡す。
隣り合う作品を眺め、何度か会場内を往復していると、
数ヶ月前、初めて作品を前にした時とは明らかに違う印象で全体を眺めていることに気がついた。
それはギャラリーという空間がもたらした作用(会場にのまれた:なんとなく良く観える)では無く、
お互いがお互いの作品を補完しあうことで生み出している『翻訳効果』的なモノの為せる業。
『ただ塗っている』ようにしか観えなかった画面には、『描かれたモノである主張』が漂っていた。
1つの作品だけでは『無秩序』という『秩序』すら感じ取ることが出来なかったのだが、
いくつかの作品がならぶ事で、『知性と生理により構築されたモノであること』が明確に感じられた。
これなら大丈夫◎これなら理解出来る。
師匠曰く「(観に来られた人の感想は)予想以上の高評価」だという現象も、これなら頷ける。
そこに在るのは『知性と生理が支配している画面に経験が加わって行く過程を楽しみにさせてくれる作品ズ』だったのだから。
今はまだ、取り入れるべき事も捨てるべき事も沢山ある作風/作者である(偉そうでスミマセン)。
現時点での作品単位での評論は師匠にお任せするとして、
小さいながらも、社会に対して『自分はココにいる』というクサビを打ち込んだ若者にエールを送りたい。
なにはともあれ、初個展、おめでとうございます。描き続けて下さい。
結論:文中、1カ所だけ『描』でな無く『猫』の部分がある。