面白き 事も無き世を 面白く
住みなすものは 心なりけり

第2回神戸生絲亭 3月1日(土)15時開演

2014年02月26日 | 落語
プロデュースしている紫亭京太郎が出演する落語会のお知らせです♪

【第2回「神戸生絲亭(神戸素人名人会)】

神戸の歴史的建造物「KIITO」でワンコインで話芸を楽しむ会です。
落語を生で見聞きしたことのある人は意外と少ないのではないでしょうか。
「生絲亭」の出演者は素人ながら、されど素人だからこそ日々芸を研鑽し、高め合っています。
「生絲亭」はそんな演者の熱演を中心に、演芸を気楽に楽しんでいただく会です。
生絲とはシルク糸のこと。
今はカイコである演者が、マユになり輝く絹糸に育つ瞬間をお楽しみください。

◆日 時:2014年3月1日(土) 午後3時~(開場午後2時半~)
◆場 所:デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)1階ルーム101
◆定 員:30名(申込先着順)
◆木戸銭:500円(おひとり)当日徴収いたします。
◆備 考:会場は和室です。履物を脱いでおあがりいただくお部屋です。
◆出 演:紫亭 京太郎、丸々亭おはぎ、笑谷亭いわし、白扇亭龍光


御用とお急ぎの無い方はもちろん、御用とお急ぎがおありの方も万障お繰り合わせのうえ、ご来場たまわりますよう、よろしくお願い申しあげます!

だんしはしんだ

2011年11月25日 | 落語
三枝号泣「格好よくて、ずっと憧れていた」(サンケイスポーツ) - goo ニュース


ゆうべから朝にかけて、ニュース番組や情報番組は談志死去のニュースでもちきりだった。
その中でいろいろ知らなかった話も出たのは当たり前ではあるが、改めて故人について実は「本当の凄さ」をほとんど知らないのだろうなとも。

「笑点」の大喜利で月番(司会)を最初に務めたことは知ってはいても、テレビで見た記憶は全く無い。
また、彼の高座をテレビで見た記憶があるのは、「花王名人劇場」からでしかないし、彼の人生からすれば“後半”部分しか知らない。
残念なことではあるが、自分の年齢を鑑みれば如何ともし難いことであり、それを悔しがっても「死んだ子の歳を数える」ようなもので、せんないこと。
それでも、テレビの生放送で彼の言動を見たし、1回だけではあるが見応えのある「芝浜」も見れたのだから、幸運と言える。

ニュース記事によると、桂三枝が昨年、襲名について病床の談志に相談したところ猛反対されたという。
そして会見数日前に談志から、
「人生成り行き。三枝より文枝の方がよくなったのか。じゃあ仕方ない。勝手にしろ。三枝のばかやろうへ」
と“辛口”激励ファクスが届いたことを明かしたとのこと。
談志としては、せっかく「三枝」という名前を大きくしたのにもったいない…といったところだろう。
創作落語の第一人者として数々の自作の噺を残し、さまざまな賞を受賞してきた三枝という名前は、それ自体で落語界の歴史に名を刻んだ大きな名跡になっている。
しかし、その三枝から文枝に襲名するとなると、文枝という名の歴史の1ページに収まってしまうことになる。
三枝が築いてきた数多の功績も、「6代目文枝は、前名の三枝時代に…」というフレーズと共に記されることになってしまう。
「三枝」という名で落語の歴史に1ページが作れるというのに、何を古臭い落語界の因習の中に閉じこもってしまうんだい!
創作落語というジャンルを切り開いてきた開拓者たる「三枝」を捨てるたぁ、これまでのてめぇのやってきたこたぁ、一体なんだったんだ!?
「辛口の激励」というよりは、三枝という名前が文枝よりも小さくなってしまうことへの口惜しさを読み取ったのは、うがちすぎだろうか。

ところで、今回のテレビにおける追悼の中で、「だんしがしんだ」というフレーズを生前談志がよく口にしていて、自分が死んだときのスポーツ紙の見出しはこれだな、などと言っていたということを初めて知った。
それを踏まえてのことであろう、各スポーツ紙が見出しに「だんしがしんだ」を使ったという。
シャレの利いたイイ話だ。

それでふと思い出したのが、昔、小朝が使っていたマクラ。
大名人・三遊亭円生が死んだときのこと。
落語界の重鎮が亡くなったということで、明日の朝刊は大々的に出るなぁと噺家達は言い合っていたとか。
ところがちょうど同じときに、上野動物園で「ランラン」だか「カンカン」だか、パンダが死んだ。
翌日の朝刊のトップ記事は、「国民的アイドル・パンダ死す」。
その横に小さく、「円生さんも」。

幸いなことに(?)、談志の死亡を凌ぐ死亡記事は他に無かった。
しっかりスポーツ紙のトップ記事に「談志が死んだ」と掲載させた5代目立川談志。
死してなお、ダンディズムの真骨頂を見せつけ、カッコ良く散っていったその姿は、男としてかくありたしという見本だ。

また改めて冥福を祈るばかり…

合掌

だんしがしんだ

2011年11月23日 | 落語
立川談志さん死去=毒舌と自分流、古典にこだわり(時事通信) - goo ニュース


流行ったわけではないが、「ダンスが済んだ」の回文のもじりでよく口にしたもの(え?自分だけ??)
とうとうこの回文もシャレにならなくなってしまった。
しかし、今年の3月まで「蜘蛛駕籠」を高座にかけていたとは驚いた。
とはいえ、どれほどしゃべれたのだろう。

最近(といっても去年のことか)高座に上った様子をテレビでみたが、さすがに声が出ずに聞きづらかった。
つっかえてスッと言葉が出なくなった晩年の松鶴といい、噺家にとって声が出ない、言葉が出ないというのは、忸怩たる思いがあったに違いない。

談志をナマで見たのは、学生時代に京都で見た「談志・八方二人会」の1回しかない。
しかしそのときの「芝浜」は素晴らしかった。
酒を飲んで眠っている亭主を起こすときのおかみさんの演出は、後になって「うぅぅぅむ…」と唸ったもの。
本人はどうだったのかは知る由も無いが、「芝浜」という噺の味わい深さを改めて認識させられた高座だった。

これで落語界を背負って立つ星がまた一つ落ちてしまった。
次は米朝か!?…と、また改めて思ってしまう。

もう閻魔さんとのやりとりは終わっているだろうか。
地獄へ落ちるところを論破して天国への階段を登っているかもしれない。


合掌

紫亭京太郎 in 「同志社大学喜劇研究会『OB寄席』」

2011年10月03日 | 落語
10月1日、母校・同志社大学寒梅館にて開催された、「同志社大学喜劇研究会・OB寄席」。
我が“出身母体”である喜劇研究会OB会による初の試み。
と書くと何やらタイソウな趣になるが、単に“出たがり”のOB有志が集まって寄席を開いた、というワケで。
しかし、大トリに大先輩である噺家・二代目森乃福郎師匠を迎えて、それなりに“ハク”を付けたりなんかしているところは姑息!?

OB会の宴席を催したり、OB名簿の管理をされている「裏方大好き」というありがたい14上の大先輩が、今回の寄席でも様々な段取りをとられて開催に至ったのであるが、その方からお声かけいただいて自分も出演した次第。
出演するからには自分も何か役に立たなければと、普段使っている見台とめくり台、それに寄席囃子のCDをかついで参加した。
そして自分の出番は、「『社会人落語日本一決定戦』にも出てるし」というようなことから、なんと大トリ・福郎師匠のヒザ(大トリの前)というエライ出番!

開場から上々の入りで(ほとんどがOBなのだが)、声をかけてくださった“段取り”の先輩の開口一番でスタート。
中入りに入ったところで客席から控室に移動した。
着替えて出番に備えているところで福郎師匠から、
「(お客さんを)笑わしてや」
と“指令”を受けて、気合いを入れ直す。

舞台そでにあるミキサールームに入ると、前の先輩がまだ落語に入らずに、タイガースの法被を着ながらマクラをふっていた。



しかしこのマクラが爆笑モノで、喜んで聞いていると突然、落語を知っている人間ならビックリするようなシーンから噺に入った。
そして少し経つと今度は、「そこで終わりかい」という場面で、ふいに噺が終わってしまった!
慌ててミキサーを担当している先輩が出囃子が鳴らして、頃合を見計らって高座へ。
先の先輩をダシにマクラをふると、上手い具合に笑いが沸き起こった。
無事に自分のペースに入っていけるとエンジン全開!
後は勢いに任せての「ちりとてちん」



要所要所で笑いをとることもでき、なんとか福郎師匠からのミッションを達成して高座を降りた。
控室へ戻ると襦袢は汗だく。
すぐに着替えると、ペットボトルの茶をイッキ飲みして一息ついた。
心地よい疲労感を覚えながら、差し入れでいただいたいくつかの菓子類をつまんで、しばし休憩…

汗が引いたところで、福郎師匠の高座を、客席の入口脇から見守った。



改めて自分の“ガチャガチャ”した高座との大きな差を思い知らされる。
やっぱり、心地よく落ち着いて楽しく聴けて当然笑える。




オチの前に客席を出て、控室の片付けに取りかかった。
全てが終了したとき、ミキサーの先輩がつけていたタイムテーブルによると、自分が一番長い時間しゃべっていたことを知って愕然!
大トリの師匠の直前に、なんと35分も高座に“居座った”のだから、失礼にも程がある。
なんともはや…
しかし、ここがアマチュアの悲しさということで、勝手に自分で納得して開き直った♪

福郎師匠は生業であるから別にして、第10代会長である先輩が寄せたプログラムの「ご挨拶」にある一文が、出演者の気持ちを代弁する。
「『おやじバンド』をやっている連中の気持ちがよく分かります。」
ギターを扇子に持ち替えて、高座に座り込んで歌声ならぬバカ声を張り上げる姿は、正に「おやじバンド」そのもの。
(…「そのもの」というのは語弊があるか)

70年代に喜劇研で青春をほとばしらせた諸先輩との“夢の共演”のひと時は、あっという間に楽しく過ぎていったのだった。

「第三回社会人落語日本一決定戦」

2011年09月10日 | 落語
プロデュースしている紫亭京太郎が、去年に引き続き「社会人落語日本一決定戦」予選会に出場します

第三回となる今年の予選開催日は 9月17日(土) 

その日の夕方に審査結果発表を兼ねた懇親会があり、予選を通過すれば翌日の本選に出場という流れは去年と同じ。

京太郎の高座は 池田駅前南会館 にて 12時台 の出演予定。

とりあえず今年も、予選突破を目指して最後までしっかりと練習させねばねば

第二回社会人落語日本一決定戦

2010年10月24日 | 落語
プロデュースしている紫亭京太郎が、「第二回社会人落語日本一決定戦」予選に臨み、晴天の大阪・池田市へ乗り込んだ。
会場は「落語みゅーじあむ」。



普段は落語に関する小さな博物館で、1階に高座があり、パイプイスが70~80くらい並ぶようなスペース。
落語を演じるにはほどほどな広さと高座の高さ。
久しぶりの“キチッとした”舞台で、京太郎も俄然ヤル気が湧く。




朝11時から始まった第一部は、開始当初からほぼ満員。
開始時に審査員の桂文喬が、観客の固さをほぐしつつ注意事項を説明。
和らいだ雰囲気の中でスタートした。

3人目がムチャクチャ上手く、京太郎も気合いが入り直す。
出演予定は第二部で14時半頃のため、他会場の落研仲間を陣中見舞いしたり、腹ごしらえをしたりして過ごしたあと、会場近くに見つけた小さなお寺でストップウォッチを片手に最後のおさらい。

13時40分スタートの第二部もほぼ予定通りに進み、京太郎は14時過ぎから高座脇の控え室へ。
北海道から来た作務衣の出演者が、自分の孫を題材にした創作落語をキモチ良さそうに語るのを聞きながら、直前の出演者が高座に上がったときが動悸のピーク!
しかしいざ自分の出番になり、控え室の幕が開くと、あとは楽しみだけ。

メガネをしていないので詳細は分からないものの会場はほぼ満員。
しかしとりあえず落語を聞きに来ているという状況で、雰囲気は柔らかめ。
ネタも狙い通りのところで笑いも起き、想定以上にウケた心地よい高座。
やはり落語は、観客の前でのライブが一番と、京太郎も満悦で高座を降りてきた。

しかしやはり気が張っていたのであろう、二階の控え室で着替えを終えて、イスに座って下から聞こえてくる演者の噺を聞きながらウトウト。
何人目かが途中で切られたときには、思わず他の出演者と顔を見合わせて、
「ホンマに切られましたね」
と苦笑い。
よくぞ規定時間内(10分以内)に収まったもの。
前日の夜まで11分から12分かかっていたものを大きく修正して大正解だった。


4時前に全スケジュールが終了すると、あとは17時からの懇親会&審査結果発表会まで時間が空いた。
せっかくなので、近くにあった池田城跡に行ってみた。
この辺りを牛耳った池田氏の居城だが、戦国期の豪族として自分が名を知っているのは池田勝正くらい。
初期城郭の特徴でもある典型的な山城タイプの城で、戦国期中頃には廃城となっていたため元々天守閣は無く、城下から見えていた櫓も本来は設置されていなかったものらしい。



大手門は東側で、懇親会会場から直近の西門に、民家の間を縫うようにして入ったため反対側だった。



西南角側にある櫓。
城下から見上げたときに「天守閣か?」と思わず見間違えるほど立派な作り。
城内中央の館跡が芝生の広場になっており、礎石だけが残っている。



櫓からは池田市内や伊丹方面、猪名川方面まで一望。
西国街道からは大きく外れているため、城主となった荒木村重がすぐに拠点を伊丹へ移したのも分かる。
しかし「一地方豪族の館」としては立派な方ではないだろうか。

  

櫓の真下は池があって錦鯉が泳いでいる。
のんびりと過ごせる市民の憩いの公園といった趣き。

 


さて、いよいよ審査結果発表&懇親会に向けて会場へ。
17時スタートの少し前に会場入りし、落研仲間の笑谷亭いわしと合流。
しばらくすると、まずは主催責任者である池田市長と桂三枝が入場し、冒頭に挨拶。



そして審査員が入場し、いよいよ発表。



10名の予選通過者が発表されていくが、「落語みゅーじあむ」で開かれている落語教室の関係者が多いのか、名前を呼ばれる度に歓声が上がる。
それ以外の人が呼ばれた場合には拍手と「おお~!」という声だけで、あまりの違いに自分達はよそ者として入り込んでいるような気分になる。
あまりに身内同士で盛り上がるのはいかがなものか。
“日本一決定戦”を謳っているのだから、もう少し落ち着いた反応であってほしい。

さて、10人が発表された。



ということで、紫亭京太郎の名前は無し。

善戦(?)むなしく予選敗退。
しかしメディア審査で落とされた第一回から、今回は予選出場という目標は達成。
次は予選突破が目標となる!

とはいえ、来年も事前審査を通過するかどうかが問題だが…


「社会人落語日本一決定戦」予選通過!

2010年08月14日 | 落語
プロデュースしている紫亭京太郎が、去年こっそり応募してこっそり落選した「社会人落語日本一決定戦」。
その第2回コンテストが10月に開かれるが、今年もこっそり応募していたところ…

なんと今回は事前審査を突破
予選会に出場できる運びとなった

開催日は 10月23日(土)
その日の夜、審査結果が発表される懇親会があり、予選を通過すれば本選は翌日。

とりあえず予選突破を目指して練習させねば

訃報

2009年11月01日 | 落語
三遊亭円楽さんが死去…76歳肺がんで(読売新聞) - goo ニュース


病で倒れ、高座での噺の出来に納得できなくなったと引退していた円楽師の訃報は、実はあまり驚かなかった。
ああ、ついに来たか…という感覚だったのだが、死因が肺がんだったのは少し驚いた。
晩年は癌との闘いだったことは、知らなかったのである。

生前の円楽師の高座は、あまり見ることがなかった。
ぶっちゃけた話が、個人的に好きではなかったからである。
これは、その芸がどうこうというよりも、自分個人として、生理的に受け付けないタイプの人種だったからであって、円楽師個人の技量や人柄とは何の関係もない。
ただ単に個人的な好みとして、あのしゃべり口調が耳障りだっただけのこと。
なので彼のことといえば、やはり「笑点」での月番しか印象がない。

しかし、落語界として考えた場合には、またひとり巨星が堕ちてしまったことは残念。
ここ数年は高座から遠ざかり、西の米朝師とはスタンスが違うものの、弟子を通して落語界に対する影響は大きかったものと思う。

来春、弟子の楽太郎が円楽を継ぐが(このことも今回初めて知ったのだが…)、生きていれば改名する予定だったのだろうか。
それとも、自分の死期を悟って楽太郎に譲ることにしていたのだろうか。

師のご冥福を祈るばかり…

合掌


こっそり落選…

2009年06月29日 | 落語
8月に、大阪の池田市というところで、「社会人落語日本一決定戦」 というコンテストが開催されるということで、プロデュースしている紫亭京太郎がこっそり応募していたものの、あえなく落選…

必要書類に、高座姿の映像あるいは音声+画像を同封して応募、その書類と素材とで一次審査が行われたのだが、その時点で落選してしまったため、予選会の高座にも上がれずじまい。

本人は来年の出場に向け、まずは思い切り鬼を笑わせたうえで、更に精進を重ねる所存にて、引き続きご声援をいただきますれば幸いにござゐます…!