「あさま山荘事件」は、昔のニュース映像などで見たことがある。
親に聞くと、事件当時、テレビ中継をずっと見ていたらしいのだが、当時まだ幼かったこともあって記憶にはない。
山荘に打ち込まれる鉄球の映像はショッキングなものであり、日本の今を思うと、とても同じ国とは思えない。
5人の若者達が、長野県軽井沢の「あさま山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を展開した。
彼らは、革命に自分たちのすべてを賭けた「連合赤軍」の兵士たち。
その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速する。
このあまりにも有名な「あさま山荘」事件へ至る経緯(「道程」)が、克明に記録されている。
もちろん、その当時に同時進行で記録されたドキュメントというわけではない。
事実を完璧に再現したものではないが、連合赤軍メンバーと密接な関係を築いていた若松監督だからこそ集めることができた情報を紡いだ、貴重な「記録映画」である。
ベトナム戦争、パリの5月革命、中国の文化大革命、日米安保反対闘争、世界がうねりを上げていた1960年代。
学費値上げ反対運動に端を発した日本の学生運動も、三里塚闘争など、農民や労働者と共に、社会変革を目指し、勢いを増していった。
活動家の逮捕が相次ぐ中、先鋭化した若者たちによって連合赤軍は結成される。
革命戦士を志した若者たちは、なぜ、あそこまで追いつめられていったのか。
なぜ、同志に手をかけたのか。
なぜ、雪山を越えたのか。
なぜ、山荘で銃撃戦を繰り広げたのか…
彼らの崩壊は、現在の世界情勢を予知するものだったのではないだろうか。
共産主義の“総本家”たるソ連が崩壊し、東欧の共産主義国家が次々消滅し、中国は市場経済の波に抗いきれずに飲み込まれ、北朝鮮は全うな国家とは言えない様相を呈している。
浅薄な私見であるが、いくら高邁な理論や思想であっても、その“理屈”をもって人間を統制し、規律していくことはできないというのが、共産主義が導き出した結論ではないか。
連合赤軍の“同士”たちがとった行動は、理想に満ちた論理に依る正当な行為であるという錯覚に基づいた、ただの個人的な感情の暴発に過ぎなかったと考える。
人間は、自分の過ちについてもっともらしい理由付けをして自分を正当化しようとする生き物であるということは、小さな子供が親に言い訳する姿を見れば分かることだ。
連合赤軍の彼らがとった「総括」という名のリンチの根拠は、子供の言い訳が小難しい修飾語で彩られたものに過ぎなかったのである。
最後には逮捕された男女のリーダーのうち、男の方は獄中で自殺したという。
自分の“存在根拠”としての理論が崩壊すると共に自身の生存意義を失い、自ら死を選んだのであろうが、その姿勢を潔しとは感じなかった。
主義主張に殉じたと言えば聞こえはいいが、そうせざるを得ない状況に自分を追い込んでしまった彼は、哀れにしか思えない。
感情のおもむくまま規律なく生きていれば、それは人間としての存在を否定するものであるが、人間を律することができるのは理屈だけではない。
いくら美辞麗句に飾り立てられた高尚な理論であっても、それが感情に訴えかけることができなければ、人間は律せられないのである。
連合赤軍が起こした行動について、事象としての全ての「なぜ、なぜ」に対する疑問は解消された。
しかし、事象に対する彼らのとった行動について、その本当の動機はわからない。
ただ、画面を通して我々に投げかけられる“情報”をもとに類推するしかない。
若松監督が集めた貴重な“情報”から、様々なことを考えさせてくれる秀作である。
「
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」
2007年/日本 監督・製作:若松孝二
ナレーション:原田芳雄
出演:坂井真紀、ARATA、地曵豪、並木愛枝、佐野史郎、奥貫薫、大西信満、中泉英雄、伊達建士、伴杏里