時にあっけにとられるほど弱々しく崩れさり、時に信じられないくらい逞しく危機を乗り越える――。予測不可能に陥った21世紀の経済に対して、経済学はまだ有効か?学問から実業まで飛び回るエコノミストにして「ネットワーク理論」を経済学に持ち込んだ第一人者ポール・オームロッドの新著『経済は「予想外のつながり」で動く』。インセンティブを、合理的経済人を、効用を、そして経済学そのものをネットワーク理論でアップデートする野心的な本作から、刺激的なトピックを抜粋してご紹介する特別連載第2回。タバコ増税と健康被害の予想外の関係から、経済学の主要コンセプト「インセンティブ」の有効性を検討する。
インセンティブはもはや万能ではない!?
インセンティブは間違いなく大事だ。経済学が導き出した人間行動に関するもっとも偉大な洞察は、これである。この洞察を支持する実証的な証拠は山ほどある。
でも急いで言っておきたいのは、だからといって自由な市場と均衡を信じる経済学が正しいとはいえない、ということだ。この点はとても大事だから太字でもう一度書く。エージェントがインセンティブに反応するからといって、自由な市場と均衡を信じる経済学が正しいということにはならない。
インセンティブは重要だと認識するのに、人間行動に関する経済学の標準理論の枠組みを丸ごと鵜呑みにしないといけない、なんてことはないのである。実際、中央計画経済体制を敷いていたソヴィエト圏では、インセンティブはお金以外の形を取っていた。生産ノルマを達成して、世間の賞賛を浴びたり社会主義労働英雄のメダルを貰ったりするのがインセンティブだったのだ。
ここで、政策立案者が目的を果たそうとか目標を達成しようとかというとき、インセンティブは決して万能ではないことを示す。ここでのインセンティブとは、たとえば税率を変更したり補助金を出したりメダルを授与したりということだ。ネットワーク効果が弱かったり、それこそまったく働いていなかったりするときでさえ万能ではない。人間は大変革新的で独創性があり、インセンティブの変化に対して人間が示す反応は予測がとても難しい。
タバコの税率を上げれば、健康被害は減るのか?
意図せざる結果をもっと詳しく描く事例、より厳密には、エージェントの反応があまりに独創的であるためにどんな結果になるか予測がつかない事例を見てみよう。
2006年、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのジェローム・アッダとフランチェスカ・コーナグリアが、もっとも権威ある学術誌『アメリカン・エコノミック・レビュー』にある研究論文を掲載した。テーマは、喫煙者への課税は果たして消費の抑制に役立っているのか、だ。ニコチンが喫煙者の健康に及ぼす悪影響のひどさは、すでにはっきりしている。ここ数十年、先進国の政府の多くがタバコの消費量を減らすべく努力している。彼らが用いる重要な方法の1つが、タバコにかかる物品税を引き上げることだ。タバコにかかる税金を引き上げ、タバコの値段をつり上げるのである。
この政策は疑問の余地なく成功している。詳細にわたる学術研究がたくさん行われ、タバコの価格が上がればその消費が減ることが示されている。もちろん税金が上がった直後以降は、反応は時間とともにだんだん薄れていく。タバコには中毒性があるからだ。それでも効果自体は残る。
この文脈では、社会的ネットワークがインセンティブの効果を後押ししているといえる。もうタバコなんて一切やめてしまってはどうですか、と人びとを説得しようというときにはとくにそうだった。
「フラミンガム心臓研究」は類を見ないデータベースであり、研究の名前にもなっているマサチューセッツ州フラミンガムで何十年にも渡って個人の健康状態を観察したものである。医学を追究する者にとって、これは研究材料の宝庫だ。しかしこの研究は、同時に社会科学者にも研究材料を提供している。この手の医学研究としては珍しく、個人本人だけでなく、それぞれの家族や友人に関する情報も含まれているからである。
ハーヴァード大学のニコラス・クリスタキスとジェイムズ・ファウラーは、ネットワークの観点からデータを分析し、わかったことを2008年に『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』に発表した。彼らが得た結果は衝撃だった。中小企業で働く人の同僚がタバコをやめると、その人がタバコを吸う可能性は34%低くなっていた。タバコをやめたのが友だちだと36%だ。やめたのが配偶者だと可能性は59%も低くなる。
彼らの研究は、価格の上昇やタバコが健康に与える悪影響に関する公共広告といったインセンティブが個人に与える影響を分離してはいない。しかし、どんな動機にせよ、人がタバコはやめると決心すると、その影響がその人の社会的ネットワーク――家族、友だち、職場の同僚など――を通じて他の人たちに伝播する。そうして他の人たちは模範を与えられ、それだけでタバコをやめてしまったりする。だからネットワークはインセンティブとともに機能し、インセンティブが与える当初の影響を促進し、強化することがある。
しかし、アッダとコーナグリアの研究に話を戻すと、インセンティブの変化の影響を予測するのは難しいかもしれない、ということだった。彼らの論文はいわゆる「合理的嗜癖仮説」に基づいている。重厚な数学と「2次の効用関数を仮定する」だの「2次のテイラー近似を使えば証明できる」だのといった言い回しが山ほど出てくる。
しかし、この章のはじめのほうで書いたように、合理的行動なんて仮定する必要はまったくない。彼らの研究はデータを注意深く統計的に分析しており、実証結果が示しているものは明らかだ。彼らはアメリカの全国健康・栄養調査を使った。全米にわたって約2万人の健康に関するデータベースだ。データには、吸ったタバコの本数やニコチンとタールの含有量、一酸化炭素の濃度などが含まれている。タバコの税率は州によって違うから、それを使えば税金が喫煙者の行動に与える影響を推定できる。
当局も驚きの予想外でありえない結末へ――「危険な吸い方」の流行
アッダとコーナグリアは、税率が高くなればなるほどタバコの消費量が減るのを発見した。ここまではよかった。国民の健康を推進する政策当局にとって、まったく思った通りの結果だ。
でも、研究者2人は、税率が高くなると、喫煙者たちはタールやニコチンの1本当たりの含有量が多い銘柄に乗り換えているのにも気づいた。それ自体は画期的な発見というわけではない。しかし、同じ効果を報告していた、既存の論文2本の信憑性を高めた。税金や価格がタバコの消費量に与える影響に関しては、たくさんの論文が書かれている。でも、銘柄の乗り換えを報告した論文は2本だけだ。だから2人の論文でこの効果が確認できたことは貴重だったのだ。頭の痛い問題ではあるけれども。
2人の研究が本当に独創的だったのは、喫煙者たちがタバコ1本から摂取するニコチンが増えているのを発見した点だ。そういう行動はタバコの銘柄に関係なく見られた。喫煙者たちはタバコを根元まで吸うようになった。それではタールやニコチンの摂取量は増えてしまうし、危険な化学物質の摂取も増えてしまう。それでさらにガンが肺の奥深くへ進行する傾向があることがわかっている。
そういうわけで、たしかに税金が高くなればタバコの販売量は減る。インセンティブは思った通りの働きをする。でも同時に、喫煙者たちは、タールとニコチンが強い銘柄に乗り換え、さらに健康にいっそう悪い吸い方をすることで、本数が減った分を補っていたのだ。