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最近話題の神戸どうぶつ公園の豆蔵の寝方も可愛すぎる
BSプレミアムでのアナザーストーリーズ「アイルトン・セナ事故死 不屈のレーサー 最期の真実」
抜粋して書き残しておきます。
AlonsoがMcLaren Hondaに移籍してから、何だかSennaを思い出す事が多い。
とにかく、安全第一(標語みたいだけど)だよ!
サムライ・・・が何だって???私の読解力もなくて上の詩の意味も分からない。
パスポートを何故か噛んでのモナコ入り
アイルトン・セナ事故死 不屈のレーサー 最期の真実
これは伝説のF1ドライバーが最後に乗ったマシン。
音速の貴公子と呼ばれた天才ドライバーは、この車でレースに挑み、そして亡くなった。
男の名は、アイルトン・セナ(Ayrton Senna)享年34
キャリア10年で41回の優勝、3度のワールドチャンピオンにも輝き世界最速と呼ばれた。
その走りは神懸っていた。
圧倒的なドライビングテクニック、剥き出しの闘争心、スリリングなレース展開に人々は熱狂した
天才レーサーSennaの突然の死。そこには謎がある。
悲劇が起きたのは、1994年5月1日午後2時17分。
その日もSennaはトップを走り続けた。しかし7周目の高速コーナーでそれは起きた。
何故かSennaを乗せたマシンは200キロのスピードで壁に激突。
そのまま帰らぬ人となった
レースが行われたイタリア・イモラサーキット(Imola Circuit)
その記者席にいた1人がSennaの異変に気付いていた。
レース直前、あの強気なSennaがいつになく不安気だったという。
あの日、Sennaの身に一体何が起きたのか。
事故を間近で見た者が明かす天才レーサーのアナザーストーリー
1994年5月1日、サンマリノGP(San Marino Grand Prix)
良く晴れたあの日、世界最速の男Sennaの表情は何故か沈んでいた
Sennaの最も近くにいた広報官:ベアトリス・アスンソン
事故の前日、彼女はSennaの異変を目の当たりにしていた。
『Sennaはとても震えていたわ。不安を感じ動揺していたの。ずっと泣いていた。あんなSennaは見た事がないわ』
そして翌日、あの事故が起きた。21年経った今、ベアトリスがあの日見た全てを明かす。
音速の貴公子と呼ばれたSenna。
ヨーロッパ中心のF1の世界で、Sennaはブラジル人ドライバーとして次々と勝利を重ねる。
3度のワールドチャンピオンに輝き、世界最速と呼ばれた。
そんなSennaの4年間を支えたのが広報官のベアトリスだった。
『彼はどんな状況でも妥協せず自分の走りを追及していた。
勝つ為には自分の命を懸けるんだ、といつも言っていたんです』
確かにSennaの勝ちへの執念は凄まじかった。
例えば雨のレース。誰もが慎重になる中Sennaだけはアクセルを全開。
ぶっちぎりの速さで勝ち続けた。人呼んで雨のセナ
どんな時もアクセルを踏み続けたSenna、自分の走りについてこう語っている。
『いつでももっと速く走りたい、というのが僕の本性です。
これだけは経験や知識ではどうにもならない、僕の本質的な部分なんです。
ハイスピードでコーナーを攻める時とか、ギリギリのブレーキング。
あと一歩でコントロールを失い、クラッシュするかも知れないという、
あのスリリングな感覚・・・そういった限界に近付けば近付くほどエキサイトしていきます』
誰よりも速さを求めたSenna。その速さは圧倒的なテクニックに裏打ちされたものだった。
Sennaが10代の時に撮影されたカートレースの貴重な映像。
ゼッケン17番、Sennaの走りに注目してほしい。
卓越したハンドルさばきで減速せずにコーナーへ突入。
ギリギリをせめて尚コースアウトしない。Sennaの強さの原点がここにある。
剥き出しの闘争心と抜きんでたテクニック。
この2つを武器にSennaは勝ち続けたその姿に世界中の人々が熱狂した
そんな彼を死に追いやったサンマリノGP。
のちに呪われた週末と呼ばれたあのレースは、余りに事故が多かった。
まずデビュー2年目のドライバーがクラッシュ。
一時意識不明となる大事故だった。
更に翌日、デビュー1年目の新人ドライバーがクラッシュ、即死だった。
F1レースでの死亡事故は実に12年ぶり
Sennaはレーサーになって死亡事故を目の当たりにした。
激しく動揺していた。この時ベアトリスが見たのは泣き崩れるSennaの姿だった。
『どう声を掛けたらいいか分からなかった。
だからSennaの頭を撫でてあげたの。彼に触れたのはあの時だけだわ』
その夜Sennaは恋人に電話を掛けてこう言ったという、『走りたくない』
事故への恐怖がSennaを追い詰めていた。
それでもSennaはサーキットに現れた、その顔は苦悩に満ちていた。
戦わなければならない訳があった
実は当時のSennaは勝てない時期が続き、2年連続ワールドチャンピオンを逃していた。
そして迎えた94年のシーズン、初戦のブラジルGP、第2戦のパシフィックGP、相次いでまさかのリタイア
そんなSennaを更に焦らせていたのが後の王者、若きシューマッハ(Michael Schumacher)だった。
この年、Schumacherは2戦連続の優勝、ワールドチャンピオンに近付いていた。
Sennaはもはや一戦も落とす事が出来なかった
当時Sennaはこんな言葉を残している。
『2位というポジションは敗者のトップ。僕にとって最も大切なのは勝つことだ』
こうして運命のレースが始まった。
Sennaはスタートからトップを走り続けた。2番手はあのSchumacher。
逃げるSenna、そして運命の7周目。
Sennaは時速200キロで壁に激突。サーキットの誰もが凍り付いた。
ベアトリス:『あの瞬間を私は記者席で見ていたんです。息が出来なくなる程に泣いたのを覚えています』
Sennaの頭部は激しく損傷していた、4時間後死亡が確認された。
3日後のブラジル、祖国の英雄Sennaの為に国葬が行われた。
全国民がその死を悼んだ。そして120万人が沿道を埋め尽くした
しかしSennaの死には不可解な点があった。
衝突直前、Sennaはブレーキは踏んだものの、何故かコンクリートの壁に一直線に向かってクラッシュしたという。
あの日、何故Sennaのマシンは壁に突っ込んだのか。
実は事故の後、Sennaの死の責任を巡って裁判が開かれた。
それはSennaを殺したのは誰かセンセーショナルな裁判だった
その裁判の知らせに衝撃を受けたのがベアトリスだった。
何故ならその容疑者として起訴されたのがベアトリスの夫、パトリックだったからだ。
彼こそSennaのマシンのチーフエンジニアを務めていた男だった
何故パトリックは起訴されたのか。それを知るには少し時間を遡る必要がある。
実はSennaは、チーフエンジニアであるパトリックに何度もマシンの不調を訴えていた。
ベアトリス:『彼は車体が不安定だといつも言っていました』
Sennaが訴えるマシンへの不安、実はその年のルール変更が影響していた。
Sennaのチームのマシンには、最新鋭の電子制御システムが搭載。
備えつけられたコンピューターが車体の傾きやブレーキを微調整。
超高速マシンを扱いやすいものにしていた
しかしあの事故のあった94年のシーズン、F1の主催者は電子制御システムの使用を禁止したのだ。
長年Sennaを取材してきたブラジル人ジャーナリストはこう指摘する。
『制御システムを載せた車はまさに敵なしでした。でもそれがF1をつまらなくしていたのです。
そこでよりエキサイティングな競争をさせる為にルールを変更したのです。
マシンは速くなっているのに技術の検証を行わずに制御システムを外す、
それは野獣のような車を不安的にさせるだけです。Sennaはその危険性を知っていたんです』
観客を惹きつけるにはよりスリリングなレースが必要。しかしその結果安全が置き去りにされた。
突然のルール変更、マシンの調整が追い付かないままレースに挑んだ。
それが事故の原因となったのではないか。
そして、その罪に問われたのはチーフエンジニアだったベアトリスの夫だった。
『事故は自分のせいではない』
そう主張する夫とベアトリスの間に、目に見えない溝がどんどん広がっていった。
『パトリックには大切な人を失ったという感覚がなかった。
私はSennaという存在を感じていたけれど、彼は違った。
お互い別の道を歩んでいく気がしたわ。お互いが共感し合えるものが崩れていったの』
8年に及ぶ裁判はこう締めくくられた。
確かにマシンに異常はあったが、事故の責任までは問えない
結局Sennaの事故の原因は解明されなかった。そして裁判の後、2人は離婚した。
『私は今までSennaの事を語ったり書いたりする事はなかった。
でも、昨年初めて彼が命を落としたあのサーキットへ行ったの。
行って良かったと思う。心のどこかでは行かなくちゃ、と思っていたので』
あの呪われた週末から21年、ベアトリスの胸には今もあの日のSennaが息づいている
天才レーサーSennaが命を落としたあの呪われた週末。
わずか3日の間に事故が相次いだ。
予選初日には、ブラジルのバリチェロ(Rubens Barrichello)
予選2日目には、オーストリアのラッツェンバーガー(Roland Ratzenberger)、そして決勝のSenna。
命を取り留めたのはバリチェロだけだった
実はバリチェロはSennaと固い絆で結ばれていた。
同じブラジル出身、Sennaに憧れこの道に入った。
事故当日、バリチェロは1200キロ離れたイギリスの自宅にいた。
同じレースに挑み自分だけが生き残った。
英雄の死を背負った男のアナザーストーリー
Sennaの死を境に人生を一変した男がいる。
ブラジル出身の元F1ドライバー:ルーベンス・バリチェロ(Rubens Barrichello)
『突然のSennaの死で全てが崩れ去ったんです』
事故の後、バリチェロはSennaの存在を背負い過酷な人生を生きてきた
祖国の英雄Sennaに憧れてF1ドライバーになったバリチェロ。
Sennaもまた、そんなバリチェロを弟のように可愛がっていた
そんな2人に襲いかかったのが、あの呪われた週末サンマリノGPだ。
予選初日、デビュー2年目のバリチェロを悪夢が襲う。
時速225キロでカーブを曲がり切れずフェンスに激突。
何度も回転し地面に叩き付けられた。
『ぶつかった瞬間は連続写真のようでした。その後の事は全く覚えていません』
バリチェロは意識不明の状態で会場近くの病院に運ばれた。
事故を知ったドライバーで真っ先に行動したのがSennaだった。
ベアトリス:『Sennaはすぐさま病院に向かったわ。バリチェロがかなり危ないと思ったのでしょう。
でも病院に誰も入るな、と止められたの。
そこでSennaは裏口に回ってフェンスを飛び越えて病院に入ったのよ』
バリチェロ:『予選も終わっていないのに、Sennaはすぐに見舞いに来てくれたんです。
僕の身体をとても心配してくれました。Sennaは私の大切な友人でありヒーローでした』
バリチェロは左腕や肋骨を骨折したものの、翌日奇跡的に退院することが出来た。
療養の為にイギリスに戻る直前、彼が立ち寄ったのがSennaの元だった。
しかし翌日の決勝レース、Sennaは命を落としてしまう
イギリスの自宅でSennaの事故を見たバリチェロ、3日後ブラジルで行われた葬儀にも駆けつけた。
しかし、事故の後遺症で記憶障害となり細かな事は覚えていないという。
『記憶障害だった事は幸いだったのかも知れません。じゃないと悲しみに耐えられなかったと思う。
でも記憶障害が治り現実に戻るとSennaはいなかった。
Sennaの死を受け入れるのは、本当に苦しかったのです』
Sennaは死に自分だけが生き残った。バリチェロの過酷な人生がここから始まる
何より苦しんだのが祖国ブラジルの期待。
Sennaが活躍した1980年代から90年代、ブラジルは軍事政権から民主化を達したものの、
政治汚職が蔓延し貧富の格差も拡大、各地で暴動が起きるなど混乱が続いていた。
そんな時代にSennaは国民の期待を背負い走り続けた。
毎週のように優勝すると必ずブラジル国旗を掲げた。
あの時代、Sennaだけが国民の期待だった
そのSennaが亡くなると、デビュー2年目のバリチェロに全ての期待がのしかかってきた。
いつも優勝を期待された。しかし勝てなかった。そんなバリチェロにブラジル国民は厳しかった。
『とても辛い日々でした。毎日のように泣いていました。何より私は孤独でした。誰も助けてくれない。
Sennaが居てくれさえしたら、と何度も考えました』
もがき苦しむバリチェロは、ある日父親にこう言われた。
『セナはセナ。お前はお前、時間をかけてゆっくりやりなさい』
Sennaのような英雄になれなくても自分の走りをすればいい、父親の一言がバリチェロを変えた。
『私は父に抱き付いて思いきり泣きました。本当に辛い時でしたが、その一言に救われたのです』
事故から6年後ドイツGP、最後尾からスタートしたバリチェロは大雨の中、粘り強いレースを展開
ついにトップでゴールを果たす。
表彰台の上で一目をはばからず泣いた。そして手にはブラジル国旗
Sennaの重みを背負い、初めて掴んだ栄冠だった。
『Sennaが微笑んでいるような気がしました。時間はかかりましたが、Sennaの夢を引き継ぐ事が出来たんです』
その後、バリチェロは亡くなったSennaの分まで走り続けた。
実に19年間で322レースを走った。
これはF1史上最多レース出場という前人未到の記録だ。
こうしてバリチェロは、Sennaの死を乗り越えて名レーサーとなったのだ
Sennaの死を背負い続けた男はここ日本にもいる、F1ジャーナリスト:尾張正博。
大学生の時に見たSennaのレースに魅了されジャーナリストになった。
記者になっての1年目、Sennaの全レースを取材したその時の取材メモは全部取ってある
そんな尾張が大切にしている写真がある。
『93年の優勝直後のとっさに撮った写真ですね。
僕が好きなのは左手にテーピングしているんですよ。
一見華やかに見えるんですけど、コックピットの中ではやはりドライバーは結構戦ってるな、
と取材して自分の目で初めて分かったんですね。貴公子でも何でもなく本当にアスリートなんです』
尾張には夢があった。Sennaの単独インタビューをしたい。しかしSennaはF1界のスーパースター。
駆け出しの尾張が簡単に取材出来る相手ではなかった。
呪われた週末と言われたサンマリノGP、29才の尾張もあの場所にいた。
レースは荒れに荒れた。大事故も多発し死者も出ていた。尾張は何よりSennaの事が気掛かりだった。
『Sennaは本当にやるのかな、レース辞めるんじゃないかな、と無性にグリッドに行かなきゃと思って』
尾張は思い切った行動に出る。
決勝レース寸前、既に出走準備を終えたSennaに駆けつけたのだ。
その時に見たSennaの様子を尾張は克明に覚えている。
『僕が知ってるSennaは、グリッドではいつもヘルメットを被っていたんです。
ただ、グリッドの上でヘルメットを脱いでいたんです。
結構スタート前にナーバスなイメージがあって、あの時に何を考えていたのか知りたいです』
それは駆け出しの記者尾張がSennaに最も近付けた瞬間だった。
そして、その直後に始まった決勝レース、7周目であの事故が起きた
突然過ぎる憧れのSennaの死、とにかくその姿を一目見たかった。
Sennaの遺体のある病院を探し当て駆けつけた。
入口は警備員により閉鎖、しかし何故か尾張は関係者と間違えられ招き入れられた。
そこで尾張はSennaの遺体と対面する、初めての一対一の対面だった。
『余りにも痛まし過ぎて、その瞬間の痛みが分かる感じの、もしそこに花束がなくて全然違う場所で見たら、
Sennaだと分からないですよ。綺麗事じゃないな、という世界で彼は勝負していたんです』
亡骸に対面した日本人は尾張ただ一人、記事を書けば大スクープになる。
しかし尾張は書く事が出来なかった。
『書くべきではない、という正義感ではなくたぶん書けなかったんですね。
余りにも自分のキャパを超えてしまって、全く受け止められていないんですよ。
見てしまったけど書けない、という自分がいて』
この取材を最後に尾張はジャーナリストを辞めた。
帰国後、植木職人となった1年が過ぎたある日、親方にこう言われた、『F1から逃げて来たんだろう』
あの日の事を書けなかった自分がいた、ジャーナリストとしてただ逃げているだけじゃないか、
しかしSennaはどんな時も逃げなかった。
尾張はあの日の事を書く、と決めた。
初めて一対一で対面した憧れのSenna、その変わり果てた姿と再び向き合った。
「首筋は恐ろしい程に腫れ上がっていた。
そして、閉じられたまぶたは鬱血して青紫色に変色し、
目尻、目頭、耳、鼻、口元からは拭ききれなかった血痕が幾筋も残っていた」
尾張だけが書ける記事だった。その後尾張はジャーナリストに復帰。
世界各地で行われる全てのF1レースを取材し続けた。
『Sennaが死んだという現実は、誰も変えられないじゃないですか。
でもSennaが死んだという事で、残された人間って変わるんだな、と今は自分を変えてくれた重要な1日でした』
事故現場のイタリアから、遠く大西洋を隔てたSennaの祖国ブラジル。
サンパウロのスタジアムでは、1人のサッカー選手が突然の死に打ちひしがれていた。
サッカーブラジル代表ゼッチ(Zetti)、あの事故の直前Sennaとある約束をしていた。
共に祖国ブラジルを背負い戦い続ける男達、その約束が生んだ奇跡のアナザーストーリー
ブラジルサンパウロのスタジアム。
Sennaが死んだ日、元ブラジル代表のゼッチはこのスタジアムに居た。
あの日、試合直前にSennaの死を知ったゼッチは、グラウンドで黙祷を捧げた
その時だった、Sennaコールが自然と湧きあがったのだ。
『あの瞬間は、敵味方関係なく一つになってSennaに祈りを捧げました。
あの日、私はSennaと交わした約束を思い出していたのです』
あの日、ゼッチの胸にはSennaと交わした1つの約束があった。
そして、それが後に奇跡を生む事になる
男達が交わした約束、それはSennaの死の11日前にさかのぼる。
パリで行われたブラジル代表とパリサンジェルマンとの親善試合。
Sennaは始球式のキッカーとして、レースの合間をぬって駆けつけていたのだ。
この直前、Sennaとブラジル代表はロッカールームである約束を交わしていた
元ブラジル代表マウロ・シウバ(Mauro da Silva Gomes)もその時の事を鮮明に覚えていた。
『Sennaは僕らにこう言ったんです。
僕も4度目の優勝を果たすから、君達も4度目の優勝を果たすんだ』
それは私達だけではなくブラジル人国民全員の望みでした
4度目の優勝、それはSennaにとってもブラジル代表にとっても悲願だった。
当時Sennaは追い込まれていた。
ワールドチャンピオンに3度輝いていたSenna、しかしこの2年王座から遠のいていた。
この年、何としても4度目の優勝を果たしたかった。
一方ブラジル代表もまた、長きに渡りワールドカップの優勝を果たせずにいた。
最後の優勝はペレがいた1970年、それから24年もの間、4度目の優勝を期待され続けていた。
ブラジルに4度目のワールドチャンプを、それは国民の期待を背負った男達の約束だった
この日、Sennaはその決意を語っていた。
『ブラジルの調子がいまいちだけれど、これから良くなってくると思う。
実は僕もブラジルと日本のレースでリタイアしたんだ。でも必ず挽回してトップになってみせるさ。
お互い優勝してシーズンを終えるんだ』
しかし、この約束から11日後、志半ばでSennaは亡くなった。
その想いを継いだのがブラジル代表の選手達だった。
シウバ:『何としても優勝し、Sennaに勝利を捧げたいという気持ちが出てきました』
ゼッチ:『選手全員がSennaとの約束を果たす為に頑張ろうと誓い合ったのです』
2ヶ月後、W杯が始まった。
準々決勝オランダと激突、2点を先制したがオランダの猛攻撃で追いつかれてしまう。
試合終了間近、執念で決勝点をもぎ取った。
シウバ:『ブラジル国民に喜びを与える為、Sennaに敬意を表す為、
我々にのしかかったプレッシャーは大変なものでした。絶対に失敗は許されなかったのです』
スウェーデンとの準決勝、1:0で接戦を制した。
ゼッチはSennaとの約束が、選手達を突き動かしていると感じた。
ゼッチ:『試合の合間にSennaのビデオを皆で見ていました。
そして、常に限界でレースに挑んでいたSennaの言葉を思い出していたのです。戦う限り勝利しかない』
生前のSennaの言葉
2位というポジションは敗者のトップ。僕にとって最も大切なのは勝つことだ
あの呪われた週末、Sennaは逃げずにレースに挑んだ。どんな時も勝利への執念を燃やし続けた。
そんなSennaとの約束を交わした4度目の優勝。絶対に負けられない戦いが始まる
W杯決勝戦、対戦相手は宿敵イタリア。
一進一退まさに死闘、勝負はPK戦にもつれこんだ。
この時、24年ぶり4度目の優勝が決まった
その直後、彼らは横断幕を掲げた「Sennaと一緒に加速した。優勝は僕たちとSennaのものだ」
sennaと誓った約束が果たされた瞬間だった。
あれから21年、男達の約束は今も輝きを失わない
ブラジルが生んだ天才レーサー、Senna。
どんな時も逃げずに戦い続けた、その不屈の生き様は多くの人々に勇気を与え時に人生をも変えた。
34年の短い生涯を全力で駆け抜けた音速の貴公子。
Sennaのアナザーストーリーは今も続いている。
ブラジル、サンパウロ、Sennaが生まれ育った街。
未来のF1レーサーを夢見る子供達。彼らの中にSennaは生き続けている
生前Sennaは、レースの合間をぬって子供達の指導に当たっていた。
私財をはたいて病院などに寄付も行った
そんなSennaの遺志を継いだのが姉のビビアーニ・セナ。
『20年前のブラジルは、経済状況が悪く格差も酷いものでした。
当時誰もがブラジル人である事を恥ずかしいとさえ思っていたのです。
でも彼だけはブラジル人である事を誇り、国旗をいつも高らかにあげたんです。
彼は貧しい子供でもチャンスを掴める国にしたい、と言っていたのです』
祖国ブラジルを愛したSennaは、今も人々の中に生きている。
世界最速の男、Ayrton Sennaの走りには、多くの人々の想いが詰まっていた。
事故死から21年、Sennaは生まれ育ったサンパウロで静かに眠っている
最近話題の神戸どうぶつ公園の豆蔵の寝方も可愛すぎる
BSプレミアムでのアナザーストーリーズ「アイルトン・セナ事故死 不屈のレーサー 最期の真実」
抜粋して書き残しておきます。
AlonsoがMcLaren Hondaに移籍してから、何だかSennaを思い出す事が多い。
とにかく、安全第一(標語みたいだけど)だよ!
サムライ・・・が何だって???私の読解力もなくて上の詩の意味も分からない。
パスポートを何故か噛んでのモナコ入り
アイルトン・セナ事故死 不屈のレーサー 最期の真実
これは伝説のF1ドライバーが最後に乗ったマシン。
音速の貴公子と呼ばれた天才ドライバーは、この車でレースに挑み、そして亡くなった。
男の名は、アイルトン・セナ(Ayrton Senna)享年34
キャリア10年で41回の優勝、3度のワールドチャンピオンにも輝き世界最速と呼ばれた。
その走りは神懸っていた。
圧倒的なドライビングテクニック、剥き出しの闘争心、スリリングなレース展開に人々は熱狂した
天才レーサーSennaの突然の死。そこには謎がある。
悲劇が起きたのは、1994年5月1日午後2時17分。
その日もSennaはトップを走り続けた。しかし7周目の高速コーナーでそれは起きた。
何故かSennaを乗せたマシンは200キロのスピードで壁に激突。
そのまま帰らぬ人となった
レースが行われたイタリア・イモラサーキット(Imola Circuit)
その記者席にいた1人がSennaの異変に気付いていた。
レース直前、あの強気なSennaがいつになく不安気だったという。
あの日、Sennaの身に一体何が起きたのか。
事故を間近で見た者が明かす天才レーサーのアナザーストーリー
1994年5月1日、サンマリノGP(San Marino Grand Prix)
良く晴れたあの日、世界最速の男Sennaの表情は何故か沈んでいた
Sennaの最も近くにいた広報官:ベアトリス・アスンソン
事故の前日、彼女はSennaの異変を目の当たりにしていた。
『Sennaはとても震えていたわ。不安を感じ動揺していたの。ずっと泣いていた。あんなSennaは見た事がないわ』
そして翌日、あの事故が起きた。21年経った今、ベアトリスがあの日見た全てを明かす。
音速の貴公子と呼ばれたSenna。
ヨーロッパ中心のF1の世界で、Sennaはブラジル人ドライバーとして次々と勝利を重ねる。
3度のワールドチャンピオンに輝き、世界最速と呼ばれた。
そんなSennaの4年間を支えたのが広報官のベアトリスだった。
『彼はどんな状況でも妥協せず自分の走りを追及していた。
勝つ為には自分の命を懸けるんだ、といつも言っていたんです』
確かにSennaの勝ちへの執念は凄まじかった。
例えば雨のレース。誰もが慎重になる中Sennaだけはアクセルを全開。
ぶっちぎりの速さで勝ち続けた。人呼んで雨のセナ
どんな時もアクセルを踏み続けたSenna、自分の走りについてこう語っている。
『いつでももっと速く走りたい、というのが僕の本性です。
これだけは経験や知識ではどうにもならない、僕の本質的な部分なんです。
ハイスピードでコーナーを攻める時とか、ギリギリのブレーキング。
あと一歩でコントロールを失い、クラッシュするかも知れないという、
あのスリリングな感覚・・・そういった限界に近付けば近付くほどエキサイトしていきます』
誰よりも速さを求めたSenna。その速さは圧倒的なテクニックに裏打ちされたものだった。
Sennaが10代の時に撮影されたカートレースの貴重な映像。
ゼッケン17番、Sennaの走りに注目してほしい。
卓越したハンドルさばきで減速せずにコーナーへ突入。
ギリギリをせめて尚コースアウトしない。Sennaの強さの原点がここにある。
剥き出しの闘争心と抜きんでたテクニック。
この2つを武器にSennaは勝ち続けたその姿に世界中の人々が熱狂した
そんな彼を死に追いやったサンマリノGP。
のちに呪われた週末と呼ばれたあのレースは、余りに事故が多かった。
まずデビュー2年目のドライバーがクラッシュ。
一時意識不明となる大事故だった。
更に翌日、デビュー1年目の新人ドライバーがクラッシュ、即死だった。
F1レースでの死亡事故は実に12年ぶり
Sennaはレーサーになって死亡事故を目の当たりにした。
激しく動揺していた。この時ベアトリスが見たのは泣き崩れるSennaの姿だった。
『どう声を掛けたらいいか分からなかった。
だからSennaの頭を撫でてあげたの。彼に触れたのはあの時だけだわ』
その夜Sennaは恋人に電話を掛けてこう言ったという、『走りたくない』
事故への恐怖がSennaを追い詰めていた。
それでもSennaはサーキットに現れた、その顔は苦悩に満ちていた。
戦わなければならない訳があった
実は当時のSennaは勝てない時期が続き、2年連続ワールドチャンピオンを逃していた。
そして迎えた94年のシーズン、初戦のブラジルGP、第2戦のパシフィックGP、相次いでまさかのリタイア
そんなSennaを更に焦らせていたのが後の王者、若きシューマッハ(Michael Schumacher)だった。
この年、Schumacherは2戦連続の優勝、ワールドチャンピオンに近付いていた。
Sennaはもはや一戦も落とす事が出来なかった
当時Sennaはこんな言葉を残している。
『2位というポジションは敗者のトップ。僕にとって最も大切なのは勝つことだ』
こうして運命のレースが始まった。
Sennaはスタートからトップを走り続けた。2番手はあのSchumacher。
逃げるSenna、そして運命の7周目。
Sennaは時速200キロで壁に激突。サーキットの誰もが凍り付いた。
ベアトリス:『あの瞬間を私は記者席で見ていたんです。息が出来なくなる程に泣いたのを覚えています』
Sennaの頭部は激しく損傷していた、4時間後死亡が確認された。
3日後のブラジル、祖国の英雄Sennaの為に国葬が行われた。
全国民がその死を悼んだ。そして120万人が沿道を埋め尽くした
しかしSennaの死には不可解な点があった。
衝突直前、Sennaはブレーキは踏んだものの、何故かコンクリートの壁に一直線に向かってクラッシュしたという。
あの日、何故Sennaのマシンは壁に突っ込んだのか。
実は事故の後、Sennaの死の責任を巡って裁判が開かれた。
それはSennaを殺したのは誰かセンセーショナルな裁判だった
その裁判の知らせに衝撃を受けたのがベアトリスだった。
何故ならその容疑者として起訴されたのがベアトリスの夫、パトリックだったからだ。
彼こそSennaのマシンのチーフエンジニアを務めていた男だった
何故パトリックは起訴されたのか。それを知るには少し時間を遡る必要がある。
実はSennaは、チーフエンジニアであるパトリックに何度もマシンの不調を訴えていた。
ベアトリス:『彼は車体が不安定だといつも言っていました』
Sennaが訴えるマシンへの不安、実はその年のルール変更が影響していた。
Sennaのチームのマシンには、最新鋭の電子制御システムが搭載。
備えつけられたコンピューターが車体の傾きやブレーキを微調整。
超高速マシンを扱いやすいものにしていた
しかしあの事故のあった94年のシーズン、F1の主催者は電子制御システムの使用を禁止したのだ。
長年Sennaを取材してきたブラジル人ジャーナリストはこう指摘する。
『制御システムを載せた車はまさに敵なしでした。でもそれがF1をつまらなくしていたのです。
そこでよりエキサイティングな競争をさせる為にルールを変更したのです。
マシンは速くなっているのに技術の検証を行わずに制御システムを外す、
それは野獣のような車を不安的にさせるだけです。Sennaはその危険性を知っていたんです』
観客を惹きつけるにはよりスリリングなレースが必要。しかしその結果安全が置き去りにされた。
突然のルール変更、マシンの調整が追い付かないままレースに挑んだ。
それが事故の原因となったのではないか。
そして、その罪に問われたのはチーフエンジニアだったベアトリスの夫だった。
『事故は自分のせいではない』
そう主張する夫とベアトリスの間に、目に見えない溝がどんどん広がっていった。
『パトリックには大切な人を失ったという感覚がなかった。
私はSennaという存在を感じていたけれど、彼は違った。
お互い別の道を歩んでいく気がしたわ。お互いが共感し合えるものが崩れていったの』
8年に及ぶ裁判はこう締めくくられた。
確かにマシンに異常はあったが、事故の責任までは問えない
結局Sennaの事故の原因は解明されなかった。そして裁判の後、2人は離婚した。
『私は今までSennaの事を語ったり書いたりする事はなかった。
でも、昨年初めて彼が命を落としたあのサーキットへ行ったの。
行って良かったと思う。心のどこかでは行かなくちゃ、と思っていたので』
あの呪われた週末から21年、ベアトリスの胸には今もあの日のSennaが息づいている
天才レーサーSennaが命を落としたあの呪われた週末。
わずか3日の間に事故が相次いだ。
予選初日には、ブラジルのバリチェロ(Rubens Barrichello)
予選2日目には、オーストリアのラッツェンバーガー(Roland Ratzenberger)、そして決勝のSenna。
命を取り留めたのはバリチェロだけだった
実はバリチェロはSennaと固い絆で結ばれていた。
同じブラジル出身、Sennaに憧れこの道に入った。
事故当日、バリチェロは1200キロ離れたイギリスの自宅にいた。
同じレースに挑み自分だけが生き残った。
英雄の死を背負った男のアナザーストーリー
Sennaの死を境に人生を一変した男がいる。
ブラジル出身の元F1ドライバー:ルーベンス・バリチェロ(Rubens Barrichello)
『突然のSennaの死で全てが崩れ去ったんです』
事故の後、バリチェロはSennaの存在を背負い過酷な人生を生きてきた
祖国の英雄Sennaに憧れてF1ドライバーになったバリチェロ。
Sennaもまた、そんなバリチェロを弟のように可愛がっていた
そんな2人に襲いかかったのが、あの呪われた週末サンマリノGPだ。
予選初日、デビュー2年目のバリチェロを悪夢が襲う。
時速225キロでカーブを曲がり切れずフェンスに激突。
何度も回転し地面に叩き付けられた。
『ぶつかった瞬間は連続写真のようでした。その後の事は全く覚えていません』
バリチェロは意識不明の状態で会場近くの病院に運ばれた。
事故を知ったドライバーで真っ先に行動したのがSennaだった。
ベアトリス:『Sennaはすぐさま病院に向かったわ。バリチェロがかなり危ないと思ったのでしょう。
でも病院に誰も入るな、と止められたの。
そこでSennaは裏口に回ってフェンスを飛び越えて病院に入ったのよ』
バリチェロ:『予選も終わっていないのに、Sennaはすぐに見舞いに来てくれたんです。
僕の身体をとても心配してくれました。Sennaは私の大切な友人でありヒーローでした』
バリチェロは左腕や肋骨を骨折したものの、翌日奇跡的に退院することが出来た。
療養の為にイギリスに戻る直前、彼が立ち寄ったのがSennaの元だった。
しかし翌日の決勝レース、Sennaは命を落としてしまう
イギリスの自宅でSennaの事故を見たバリチェロ、3日後ブラジルで行われた葬儀にも駆けつけた。
しかし、事故の後遺症で記憶障害となり細かな事は覚えていないという。
『記憶障害だった事は幸いだったのかも知れません。じゃないと悲しみに耐えられなかったと思う。
でも記憶障害が治り現実に戻るとSennaはいなかった。
Sennaの死を受け入れるのは、本当に苦しかったのです』
Sennaは死に自分だけが生き残った。バリチェロの過酷な人生がここから始まる
何より苦しんだのが祖国ブラジルの期待。
Sennaが活躍した1980年代から90年代、ブラジルは軍事政権から民主化を達したものの、
政治汚職が蔓延し貧富の格差も拡大、各地で暴動が起きるなど混乱が続いていた。
そんな時代にSennaは国民の期待を背負い走り続けた。
毎週のように優勝すると必ずブラジル国旗を掲げた。
あの時代、Sennaだけが国民の期待だった
そのSennaが亡くなると、デビュー2年目のバリチェロに全ての期待がのしかかってきた。
いつも優勝を期待された。しかし勝てなかった。そんなバリチェロにブラジル国民は厳しかった。
『とても辛い日々でした。毎日のように泣いていました。何より私は孤独でした。誰も助けてくれない。
Sennaが居てくれさえしたら、と何度も考えました』
もがき苦しむバリチェロは、ある日父親にこう言われた。
『セナはセナ。お前はお前、時間をかけてゆっくりやりなさい』
Sennaのような英雄になれなくても自分の走りをすればいい、父親の一言がバリチェロを変えた。
『私は父に抱き付いて思いきり泣きました。本当に辛い時でしたが、その一言に救われたのです』
事故から6年後ドイツGP、最後尾からスタートしたバリチェロは大雨の中、粘り強いレースを展開
ついにトップでゴールを果たす。
表彰台の上で一目をはばからず泣いた。そして手にはブラジル国旗
Sennaの重みを背負い、初めて掴んだ栄冠だった。
『Sennaが微笑んでいるような気がしました。時間はかかりましたが、Sennaの夢を引き継ぐ事が出来たんです』
その後、バリチェロは亡くなったSennaの分まで走り続けた。
実に19年間で322レースを走った。
これはF1史上最多レース出場という前人未到の記録だ。
こうしてバリチェロは、Sennaの死を乗り越えて名レーサーとなったのだ
Sennaの死を背負い続けた男はここ日本にもいる、F1ジャーナリスト:尾張正博。
大学生の時に見たSennaのレースに魅了されジャーナリストになった。
記者になっての1年目、Sennaの全レースを取材したその時の取材メモは全部取ってある
そんな尾張が大切にしている写真がある。
『93年の優勝直後のとっさに撮った写真ですね。
僕が好きなのは左手にテーピングしているんですよ。
一見華やかに見えるんですけど、コックピットの中ではやはりドライバーは結構戦ってるな、
と取材して自分の目で初めて分かったんですね。貴公子でも何でもなく本当にアスリートなんです』
尾張には夢があった。Sennaの単独インタビューをしたい。しかしSennaはF1界のスーパースター。
駆け出しの尾張が簡単に取材出来る相手ではなかった。
呪われた週末と言われたサンマリノGP、29才の尾張もあの場所にいた。
レースは荒れに荒れた。大事故も多発し死者も出ていた。尾張は何よりSennaの事が気掛かりだった。
『Sennaは本当にやるのかな、レース辞めるんじゃないかな、と無性にグリッドに行かなきゃと思って』
尾張は思い切った行動に出る。
決勝レース寸前、既に出走準備を終えたSennaに駆けつけたのだ。
その時に見たSennaの様子を尾張は克明に覚えている。
『僕が知ってるSennaは、グリッドではいつもヘルメットを被っていたんです。
ただ、グリッドの上でヘルメットを脱いでいたんです。
結構スタート前にナーバスなイメージがあって、あの時に何を考えていたのか知りたいです』
それは駆け出しの記者尾張がSennaに最も近付けた瞬間だった。
そして、その直後に始まった決勝レース、7周目であの事故が起きた
突然過ぎる憧れのSennaの死、とにかくその姿を一目見たかった。
Sennaの遺体のある病院を探し当て駆けつけた。
入口は警備員により閉鎖、しかし何故か尾張は関係者と間違えられ招き入れられた。
そこで尾張はSennaの遺体と対面する、初めての一対一の対面だった。
『余りにも痛まし過ぎて、その瞬間の痛みが分かる感じの、もしそこに花束がなくて全然違う場所で見たら、
Sennaだと分からないですよ。綺麗事じゃないな、という世界で彼は勝負していたんです』
亡骸に対面した日本人は尾張ただ一人、記事を書けば大スクープになる。
しかし尾張は書く事が出来なかった。
『書くべきではない、という正義感ではなくたぶん書けなかったんですね。
余りにも自分のキャパを超えてしまって、全く受け止められていないんですよ。
見てしまったけど書けない、という自分がいて』
この取材を最後に尾張はジャーナリストを辞めた。
帰国後、植木職人となった1年が過ぎたある日、親方にこう言われた、『F1から逃げて来たんだろう』
あの日の事を書けなかった自分がいた、ジャーナリストとしてただ逃げているだけじゃないか、
しかしSennaはどんな時も逃げなかった。
尾張はあの日の事を書く、と決めた。
初めて一対一で対面した憧れのSenna、その変わり果てた姿と再び向き合った。
「首筋は恐ろしい程に腫れ上がっていた。
そして、閉じられたまぶたは鬱血して青紫色に変色し、
目尻、目頭、耳、鼻、口元からは拭ききれなかった血痕が幾筋も残っていた」
尾張だけが書ける記事だった。その後尾張はジャーナリストに復帰。
世界各地で行われる全てのF1レースを取材し続けた。
『Sennaが死んだという現実は、誰も変えられないじゃないですか。
でもSennaが死んだという事で、残された人間って変わるんだな、と今は自分を変えてくれた重要な1日でした』
事故現場のイタリアから、遠く大西洋を隔てたSennaの祖国ブラジル。
サンパウロのスタジアムでは、1人のサッカー選手が突然の死に打ちひしがれていた。
サッカーブラジル代表ゼッチ(Zetti)、あの事故の直前Sennaとある約束をしていた。
共に祖国ブラジルを背負い戦い続ける男達、その約束が生んだ奇跡のアナザーストーリー
ブラジルサンパウロのスタジアム。
Sennaが死んだ日、元ブラジル代表のゼッチはこのスタジアムに居た。
あの日、試合直前にSennaの死を知ったゼッチは、グラウンドで黙祷を捧げた
その時だった、Sennaコールが自然と湧きあがったのだ。
『あの瞬間は、敵味方関係なく一つになってSennaに祈りを捧げました。
あの日、私はSennaと交わした約束を思い出していたのです』
あの日、ゼッチの胸にはSennaと交わした1つの約束があった。
そして、それが後に奇跡を生む事になる
男達が交わした約束、それはSennaの死の11日前にさかのぼる。
パリで行われたブラジル代表とパリサンジェルマンとの親善試合。
Sennaは始球式のキッカーとして、レースの合間をぬって駆けつけていたのだ。
この直前、Sennaとブラジル代表はロッカールームである約束を交わしていた
元ブラジル代表マウロ・シウバ(Mauro da Silva Gomes)もその時の事を鮮明に覚えていた。
『Sennaは僕らにこう言ったんです。
僕も4度目の優勝を果たすから、君達も4度目の優勝を果たすんだ』
それは私達だけではなくブラジル人国民全員の望みでした
4度目の優勝、それはSennaにとってもブラジル代表にとっても悲願だった。
当時Sennaは追い込まれていた。
ワールドチャンピオンに3度輝いていたSenna、しかしこの2年王座から遠のいていた。
この年、何としても4度目の優勝を果たしたかった。
一方ブラジル代表もまた、長きに渡りワールドカップの優勝を果たせずにいた。
最後の優勝はペレがいた1970年、それから24年もの間、4度目の優勝を期待され続けていた。
ブラジルに4度目のワールドチャンプを、それは国民の期待を背負った男達の約束だった
この日、Sennaはその決意を語っていた。
『ブラジルの調子がいまいちだけれど、これから良くなってくると思う。
実は僕もブラジルと日本のレースでリタイアしたんだ。でも必ず挽回してトップになってみせるさ。
お互い優勝してシーズンを終えるんだ』
しかし、この約束から11日後、志半ばでSennaは亡くなった。
その想いを継いだのがブラジル代表の選手達だった。
シウバ:『何としても優勝し、Sennaに勝利を捧げたいという気持ちが出てきました』
ゼッチ:『選手全員がSennaとの約束を果たす為に頑張ろうと誓い合ったのです』
2ヶ月後、W杯が始まった。
準々決勝オランダと激突、2点を先制したがオランダの猛攻撃で追いつかれてしまう。
試合終了間近、執念で決勝点をもぎ取った。
シウバ:『ブラジル国民に喜びを与える為、Sennaに敬意を表す為、
我々にのしかかったプレッシャーは大変なものでした。絶対に失敗は許されなかったのです』
スウェーデンとの準決勝、1:0で接戦を制した。
ゼッチはSennaとの約束が、選手達を突き動かしていると感じた。
ゼッチ:『試合の合間にSennaのビデオを皆で見ていました。
そして、常に限界でレースに挑んでいたSennaの言葉を思い出していたのです。戦う限り勝利しかない』
生前のSennaの言葉
2位というポジションは敗者のトップ。僕にとって最も大切なのは勝つことだ
あの呪われた週末、Sennaは逃げずにレースに挑んだ。どんな時も勝利への執念を燃やし続けた。
そんなSennaとの約束を交わした4度目の優勝。絶対に負けられない戦いが始まる
W杯決勝戦、対戦相手は宿敵イタリア。
一進一退まさに死闘、勝負はPK戦にもつれこんだ。
この時、24年ぶり4度目の優勝が決まった
その直後、彼らは横断幕を掲げた「Sennaと一緒に加速した。優勝は僕たちとSennaのものだ」
sennaと誓った約束が果たされた瞬間だった。
あれから21年、男達の約束は今も輝きを失わない
ブラジルが生んだ天才レーサー、Senna。
どんな時も逃げずに戦い続けた、その不屈の生き様は多くの人々に勇気を与え時に人生をも変えた。
34年の短い生涯を全力で駆け抜けた音速の貴公子。
Sennaのアナザーストーリーは今も続いている。
ブラジル、サンパウロ、Sennaが生まれ育った街。
未来のF1レーサーを夢見る子供達。彼らの中にSennaは生き続けている
生前Sennaは、レースの合間をぬって子供達の指導に当たっていた。
私財をはたいて病院などに寄付も行った
そんなSennaの遺志を継いだのが姉のビビアーニ・セナ。
『20年前のブラジルは、経済状況が悪く格差も酷いものでした。
当時誰もがブラジル人である事を恥ずかしいとさえ思っていたのです。
でも彼だけはブラジル人である事を誇り、国旗をいつも高らかにあげたんです。
彼は貧しい子供でもチャンスを掴める国にしたい、と言っていたのです』
祖国ブラジルを愛したSennaは、今も人々の中に生きている。
世界最速の男、Ayrton Sennaの走りには、多くの人々の想いが詰まっていた。
事故死から21年、Sennaは生まれ育ったサンパウロで静かに眠っている