ご覧のとおり1989年に初版が出た少々古い部類に入る本です。今回この本を読んで初めて知ったことですが、我が国が誇る民族学者・文化人類学者で数多の著作も出しておられる故・梅棹忠夫先生は、齢66歳にして突如としてほぼ失明状態となってしまっていました。しかし、視力を失ったことに途方にくれつつも、一方でめげることなく「知的生産」、つまり情報のインプットとアウトプットを少しずつしかし着実に再開していきました。本作は文字通り「暗中模索」となったその活動のご様子が、突然の失明というショッキングな出来事に対峙しての先生ご自身の葛藤やあらゆる感情も含めて割と克明に描かれたエッセーです。
例えば自分がこういった稚拙な書評を恥ずかしげもなくネットに垂れ流していることも、「知的生産」の端くれということになるのでしょう。しかし、仮に視力がほぼないとなれば、まず読書からして不可能、そして何とかインプットした情報をアウトプットしようにも、文字を書くにも一苦労、パソコンで打ち込もうにも画面も見えない。メールやLINEで家族や友人とコミュニケーションを取ることにも当然高い高い壁が立ちはだかることとなり、ましてや著作を執筆するような作業には目の見える者には想像を絶するような労苦を伴うことになります。
もちろん失明後の梅棹先生の知的生産には、目が見えた頃以上に家族、同僚といった身の回りの大きなサポートが必要でした。例えば、梅棹さんの場合は本や新聞・雑誌を読むにも誰かに朗読してもらう必要があり、他方、自分が執筆するにも口頭で述べたものを誰かに書き起こした上で編集してもらう必要があり、さすがの御大も自分以外の誰かの膨大なアシストなしには知的生産は成立しえません。むしろ、梅棹さんのような「大先生」だからこそ実現出来たことであるのは間違いないと言ってよいではないでしょうか。
ごくごく凡人の私としては、まずは視力を失うようなことにならないよう日常生活で細心の注意を払うのは勿論のこと、いざという時にサポートしてもらえるような人間関係づくりも重要、ということなのでしょう。また、本作では目の不自由な方が上記のような知的生産活動に留まらず、日常生活を送り、職務をこなしていく上で直面するであろう障害がかなり具体的に書かれており、平成の初めに出版された古い本ではありますが、私立文系の私にはともかくとして、技術系の方にはある種のイノベーションのヒントが詰まっていると言えるのかもしれません。
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