赤い彷徨 part II
★★★★☆★☆★★☆
↑次にお星さまが増えるのはいったいいつになるのでしょう…
 





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




以前ご紹介した「いたこニーチェ」の続編と理解してよいものだと思います。今回は東日本大震災直後の日本を舞台に、主人公は平凡な31歳の男性営業マン「山本」。山本は、彼の元同級生であり、実は前作の主人公だった「吉田」と久方ぶりに出会い、そして新興宗教か何かの勧誘かと思いきや「ニーチェの講義を受けて『プラトンの呪い』から世界を救う手助けをして欲しい」という荒唐無稽な願いに付き合わされる羽目になり、ニーチェの言葉を浴び続けることで徐々にその現状認識を改めていくことになります。

著者の適菜収さんはニーチェの著作"Der Antichrist"(独題、英語では"The Antichrist")を「キリスト教は邪教です!」という刺激的な邦題で訳した方だけに、現代の「脳内」に降臨したニーチェの口を借りてプラトンと、そのプラトンの「やり口」を使って世界を席巻したキリスト教を徹底的に批判し、現代社会の常識やコモンセンスのようなものの見直しを迫りまくってきます。それをコメディタッチのドタバタ劇で描いているので、さながら「哲学ラノベ」といったところなのでしょうか(ラノベ読んだことないので自信はありませんが…)。

現実世界の背後に見えない《真の世界》を『でっち上げた』プラトンと、そのプラトンのカラクリを利用して「神の国」なるものを打ち立て、イエスの教えをさえ歪めて、というかイエスの教えを正反対のことをして信者を増やしてその後の世界を支配し続けている「邪教」キリスト教やそこから生まれた「民主主義」いったものの呪縛から、震災後の日本を、そして世界を解き放て!というのが本作におけるニーチェの「教え」なのだと思います。

そもそも歴史というのは古今東西、その時々の勝者によって都合よく塗り替えられてきたわけです。従って、現代社会で「常識」とされていることをすんなりと受け入れるのではなく、疑って自分の頭で徹底的に考えるべきだ、という、ネットの普及でより莫大な情報のシャワーを浴びる昨今にあってより求められる「情報リテラシー」の基本も教えてくれているのかもしれません。やや前作の焼き直しっぽいところがあり物語としての目新しさには欠けますが、軽い「頭の柔軟体操」にはなる作品だと思います。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回からのつづき)

一ノ門跡あたりからあらためて天守を見上げてから降りて行きます。



こちらは一ノ門跡、二ノ丸跡を後にしたあたりだったと思います。



藤ノ丸跡にある城山郷土館ではお城だけでなく宇和島の街の歴史に関する資料を見ることができます。司馬遼太郎さんは宇和島を愛したびたび訪れたようで、大村益次郎を描いた「花押」をはじめ、「伊達の黒船」、「花屋町の襲撃」、「街道を行く」といった著作に宇和島が登場するそうです。



上の写真はその「花押」の一節。曰く、「『蘭学は宇和島』という評判が、すでに先代藩主の伊達宗紀のときから世にひびいていた。宇和島と言えば明治以降の交通地理では僻地で、その小さな城下町のまわり山々が屏風のようにかこみ、伊予松山からも土佐高知からもよほどの難路を踏みこえねばたどりつきにくく、しかも唯一の開口部は海でしかない。こういう土地に深耕度の高い学問文化が栄えたというのが、江戸期というこの分治制度のおもしろさであろう。」なのだとか。



先にご紹介したこちらの水道施設もインフラヲタ的には少々気になるところ。



「宇和島伊達400年祭」は昨年(2015年)3月から11月にかけて行われていたようですが、詳細は不明です。当日はそれらしい雰囲気は感じませんでした。



せっかく宇和島まで来たのだから闘牛も見ておきたかったのですが、先述のとおり生憎この期間はお休みでした。



こちらの「桑折氏武家長屋門」は宇和島藩の家老だった桑折(こおり)家の屋敷に残されていたところ、同家より昭和27年に譲渡を受けてこちらに移築されたものだそうです。



その長屋門の向かって左手の三之丸跡にあった「海鮮割烹 一心」さんでランチ。宇和島らしく鯛めしをいただきました。東京で食べる鯛めしと違って感じたのは雰囲気のせいでしょうか。



ついでに鮎の塩焼きもいただきました。記憶がおぼろげですが、期待通り四万十川で獲れたものだったと思います。名残惜しかったですがこれで宇和島を発って松山に向かいます。



(つづく)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回からのつづき)

引き続き城内です。こちらの天守は大変小ぶりなものではありますが、先述のとおり全国に12あるいわゆる「現存天守」のひとつ。1666年に伊予宇和島藩2代藩主伊達宗利公が再建したものだそうです。



この伊予宇和島藩の初代藩主は仙台藩の伊達正宗公の長男秀宗公だったのですが、長男とはいえ側室の子であったため家督を継ぐことができず宇和島藩10万石の初代藩主となった、というのが概ねの経緯のようです。思わぬところに仙台との縁があるものですね。



動画でお見せしたいくらいの雲々の流れにしばし見とれていました。



この時ドラマティックに視界を横切ってくれた黒鳥は…カラス?ご覧のとおり宇和島の城下町?の街並みを一望することができます。



城内にあった「宇和島城下絵図屏風」ですが、元禄年間に描かれたもののようですが、いずれにせよこちらはレプリカとのこと。



急な階段は現存天守ならでは。登り甲斐があるというものです。



細君に気を使って後ろ髪を引かれながら天守を後にします。



伊達宗利公の娘は、真田信之が初代藩主となった松代藩の3代目である真田幸道公に嫁いだとのこと。それを聞いてまた少々感慨深い想いに浸っています。



(つづく)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ