赤い彷徨 part II
★★★★☆★☆★★☆
再起動、します
 





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私は、我が国の長い歴史において、3つの大きな「転換期」があったと考えています。その3つの転換期とは具体的には、①律令レジーム、②明治レジーム、そして③戦後レジームそれぞれの体制の確立の過程がそれにあたるのではないかと思っています。そして最初の大転換期である律令レジームの確立にあたってまごうことない中心のひとりとなったのが中臣鎌足(なかとみのかまたり)の嫡流・藤原不比等だろうということで、中臣氏~藤原氏という「新興」氏族がどのように権力を手中に納め、それを維持・拡大しながら、律令制度の確立という作業にどのように関わっていったのか、その経緯を知りたいと思っていました。

そして、2017年末に初版が出た本書こそ、まさに著作名そのままに、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化の改新(乙巳(いっし)の変)の中心人物として広く知られる中臣鎌足をその始祖とし、長年に亘り我が国の権力中枢に陣取り歴史を動かしてきたその藤原氏について、その栄枯盛衰含め幕末までの遍歴を描かれたものです。具体的には、鎌足の「活躍」により、それまで神祇を分掌するに過ぎなかった中臣(藤原)家が蘇我氏に取って代わり政治の表舞台に登場したところからはじまり、2代目の不比等が持統天皇とともに中国から輸入した律令制度による体制(上記「律令スキーム」)を完成させ、巧妙に、時として手荒な手段まで用いつつ、その一族の者が主要官職に就いたり皇室との関係を深め(姻戚関係の構築によるミウチ氏族化)ながら、不比等の4男をそれぞれの源流とする北家、南家、式家、京家の4家間、あるいはそれぞれの家内での権力闘争も経ながら、次第に藤原家全体としての権力を維持・拡大し確立していった経緯が一冊を通して記されています。

「藤原」姓は鎌足がその死の直前に天智天皇から賜った姓ということのようですが、その「中臣」氏は上述のとおり決して豪族層を代表するような地位と伝統を有していなかった。そして、それまで権力の中枢にあった蘇我氏を打倒した乙巳の変の大功労者とされる鎌足の功業とされているものも実態として不明な箇所が多く、その実子孫たちにより下駄を穿かされている、あるいは創作されている可能性も大いにある。そして、後の律令制下で藤原氏が自己の栄達の根拠としてこの鎌足の功業を大いに利用したことは間違いないとしています。それはまさに個人的な興味分野である「勝者による歴史の書き換え」の一端ということが出来ましょう。

そして、その中臣鎌足の次男だった藤原不比等は、41代持統天皇(女性)の治世に31歳にして初めて任官し、持統天皇の血を引く、孫にあたる軽王(文武天皇)の擁立に尽力するのですが、この立太子(皇太子として立てること)に成功したことにより、持統天皇と藤原不比等、およびそれぞれの子孫が皇統と輔政を継承することが決定した時点をもって「律令国家の政権構造は確定した」と著者は評価しています。ちなみに大宝律令で制度化された太政天皇制により、持統は唐制にさえ前例のなかった太政天皇=上皇の地位に就いており、著者は「その背後に不比等の協力が存在したという推定は、おそらくは正鵠を得ている」とも評価しています。

この律令国家の政権中枢に位置し、当該期の政治を領導していたのは、「私見によれば」としつつ、「ミウチ的結合によって結ばれた天皇家と藤原氏とが相互に補完、後見し合って、律令国家の支配者層のさらに中枢部分を形成した」としています。そして、一部繰り返しになりますが、「藤原氏は、天皇家と相互に姻戚関係を結ぶことによって王権とのミウチ的結合を強化し王権の側からも準皇親化を認められていた。その結果、律令官制に拘束されない立場で王権と結びついて内外の輔政にあたった権臣を生み出したのである。彼らの実質的な祖である藤原不比等は、大宝律令の制定や平城京の造営といった功績、宮子、光明子通じての天皇家との婚姻関係によって、権臣としての地位を確立したのであったが、その地位がまた、藤原氏と天皇家との新たなミウチ関係を生み出し、次の時の藤原氏官人に高い地位を約束する根拠とされた」と見立てています。実際、議政官(左右大臣、大納言+参議、中納言、内大臣)により構成される朝廷の意思決定機関「議定」の構成原理や、蔭位制という官職の位階制は藤原氏が有利に作られており、他の氏族が地盤沈下していくように仕組まれていたというのはなかなか興味深い指摘と言えましょう。

そして、その律令制下に政権中枢にあった藤原氏らによる「歴史の書き換え」であることが疑われる点が日本書紀にも存在します。その藤原氏と律令スキームを作り上げた持統天皇は702年に58歳で崩御し、天皇としては初めて火葬(仏式の埋葬)されましたが、その際に「大倭根子天之広野日女尊(やまとねこあまのひろのひめのみこと)」という和風諡号(「しごう」、貴人の死後に贈られる、生前の業績への評価に基づく名)が贈られています。しかし、この和風諡号は早い時期に「高天原広野姫天皇」に改変され、日本書紀や続日本紀ではそのように記載されています。この「高天原」というワードについて、著者は「この頃いわゆる高天原神話が成立したと考えれば、持統をその中心の天照大神に擬そうと動き」があったのではないか、と推測しています。

○日本書紀の天孫降臨神話と持統天皇以降の皇位継承の類似性
・日本書紀(高天原神話)
 天照大神-天忍穂耳尊-瓊瓊杵尊(-火通理命-鸕鶿草葺不合尊-神武天皇(初代))
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            天児屋命
             
・持統天皇以降の皇位継承
 持統天皇-草壁皇子尊-文武天皇
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            藤原不比等


加えて、「いわゆる天孫降臨の神話において、天照大神が、子の天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)を地上に降臨させようとしたものの、その拒否によって果たせず、天忍穂耳尊と万幡豊秋津師比売命(よろずはたあきづしひめのみこと)との間に生まれた天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を降臨させ、それを天児屋命(あめのこやねのみこと、藤原(中臣)家の源流とされる神)が五伴緒(いつとものお)をひきいて随伴するという構造は、持統が、子の草壁皇子尊を即位させようとしたものの、その夭折によって果たせず、草壁皇子と阿倍皇女(後の元明天皇)との間に生まれた孫の文武を即位させ、それを藤原不比等が百官を率いて輔弼するとうい構造と同じものである。」、「さらに言えば、文武の夭折を承けて、自らの孫である首(おびと)皇子を即位させようとする元明天皇にも重なるものであり、『日本書紀』が完成したのが元明の時代であることを思うとき、これは単なる偶然では済まされない問題であろう」という指摘はまさに「勝者による歴史の書き換え」という観点から示唆に富む指摘と言えましょう(また、同じく日本書紀では乙巳の変について「皇位簒奪を企てた逆臣蘇我氏」と「それを誅殺した偉大な中大兄皇子とそれを助けた忠臣中臣鎌足という構図で描かれていますが、これも後世の解釈によるところ少なからずでは、と指摘しています。)。

一方で、少なくとも律令スキームと明治スキームの転換期に共通する時代背景として、その内外情勢から早急な権力集中の要に迫られていた点を挙げることが出来ます。中大兄皇子と鎌足の時代である663年には白村江の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗を喫し、その後も高句麗滅亡後の唐と新羅の対立に巻き込まれるなど北東アジアを中心にした国際情勢は風雲急を告げていたという見方が有力なようです。明治を迎えた日本をとりまく国際情勢についてはもはや言うに及ばずでしょう。

また、持統天皇を継いだ孫の文武天皇ですが上記のとおりやはり夭逝したため、これを受けて即位したのがその文武天皇の母である元明天皇で、そしてその元明天皇が皇位を譲るべき孫の首皇太子がまだ幼少であったため自らの娘、つまり先代文武天皇の同母姉である氷高内親王に皇位を譲る(元正天皇)といった経緯があり、この時代かなり綱渡りの皇位継承が続いていたようで、こうした事情から自らの権力の正統性を「擬制」する必要性に迫られたことも、「歴史の書き換え」が行われたであろう背景にはあったのではないでしょうか。本書では言及はありませんが、女性神とされる天照大神が本来は男性であったものが、持統天皇に準えてこの「神話」から女性とされたという説(些かオカルトの領域になるかもしれませんが)との関係も気になるところです。

ちなみに、この不比等による律令スキームの確立以降、上述のとおり不比等の4男(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が南家、北家、京家、式家の4家に分かれてそれぞれ覇権を争い、最終的に北家が勝ち残りいわゆる摂関政治がはじまり、そこから歴史の教科書にも登場する道長や頼通が「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」の歌に象徴される栄華を極めることになります。その後は院政により摂関家の権力に陰りが見えるようなこともありつつ、藤原氏は嫡流の摂関家の他に清華家、大臣家、羽林家、名家、半家といった家ごとの格付けが固定化し、そうした主流から外れた家も中御門流(そこからさらに持明院家、坊門家)、中関白家、閑院流、小野宮流、勧修寺流、日野家などにどんどん分かれていき、限られた中央政府での官職を前に増えゆく藤原氏との中にはとうとう中央で官職を得られなくなった者も現れ、ある家は地方へ進出し、またある家は武家に転じていったりと、天下の藤原氏といえどもそれなりに厳しく、時として世知辛い思いをしながらバトンを繋いで行った様子も事細かに描かれており、とても覚えきれるものではありませんが、こちらもなかなか興味深いものがありました。

そうして鎌倉時代には摂関家が主に近衛家と九条家に分かれ、さらに鷹司、二条、一条が分かれいわゆる「五摂家」となり、以降室町、戦国を経て江戸、そしていわゆる幕末時代まで摂関には基本的には五摂家が交代で就くこととなり、いずれにせよそうした、時には動乱の時代を細々とでありますが生き抜いたということのようです。この他にも本書では藤原氏が時代を経る毎に分派していった数々の「苗字」が列挙されています。ここにはとても全ては書ききれませんが、個人的には西園寺、徳大寺、綾小路、藪、日野、中御門、高倉、錦織、土御門、安倍、錦小路などの姓が、深掘りしてみたらなかなか面白そうだな、と思えました。

なお、興味深い、という意味では、天武天皇の皇后だった持統天皇が即位したのは持統元年ではなく持統4年だったという事実で、まさに今迫り来る譲位に思いを馳せるならば大変示唆的です。これは前任の天武天皇までは仏式の火葬ではなく、崩御した天武天皇を弔う殯(もがり)という儀式が当時行われていたためでしょう。殯とは、一般的には「死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること」などとされていますが、皇位継承にあたりこの殯に代表される数々の儀式が行われていたために生じたタイムラグと思われます。これを持統天皇以降幕末の孝明天皇までは仏教式の火葬を行い埋葬されていましたが、「廃仏毀釈」を推進した明治政府が仏式けしからずということなのか、この殯を復活させたという経緯があるようです。そして、まもなく譲位される今上天皇はこの「重い殯」で社会に諸々の負担をかけるのは本意ではない、といった趣旨のことを過去に発言しておられますので、その点からしても掘り下げてみたい論点ではあります。

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