赤い彷徨 part II
★★★★☆★☆★★☆
↑次にお星さまが増えるのはいったいいつになるのでしょう…
 



前回からのつづき)

杵築城を後にし、城下町へ繰り出す。今思えば、城よりもむしろ風情のある城下町の方が杵築という街の観光ポイントだったのかもしれないくらいなのだが、しかし「坂道の城下町」と自ら名乗るだけあって確かにアップダウンが多くて夏場は心が折れる。こちらは「勘定場の坂」。



その勘定場の坂を登りきったところ。このあたりは「北台武家屋敷」と呼ばれるエリアで、ご覧のとおり路の両側に武家屋敷が立ち並んでいて中には未だ現役の住まいとして機能している建物も。ちなみに名前の由来は坂の「下」に勘定場があったことなんだとか。



こちらも坂の上にある藩校「学習館」の門(1785年築)。しかし今となっては「学習館」とはまたえらくストレートなネーミングだったんだななんて。門の向こう側には藩校の一部を再現した建物があって少々くつろぐことが出来たが、裏庭に池があるせいか物凄い勢いで蚊が飛び回っていて早々に退散。



番所の坂。番所とはいわゆる関所のようなもの。反対側には「酢屋の坂」という一番の絶景っぽい坂もあるにはあったのだが、浦和者な方々が一服しておられたため競合を避けて反対側から下ったもの。



その坂を下ったところには杵築ふるさと産業館という土産物と杵築バスターミナルがある。少々腹が減ったためふるさと産業館に併設された食堂「故郷」にて昼飯。「杵築城主名物うれしの茶漬け」はただの鯛茶漬けにしては1200円と少々お高いかな・・・。食堂内はやがてバスでやってきた韓国人観光客団体ご一行様でごった返してきたのでそそくさと退散。まるで「故郷」を「コヒャン」と読んぢまいそうな勢いだったが、杵築あたりまで観光に来ていることにはややびっくり。



再び坂を登る気力も体力もなく、とりあえず平らなところをうろうろ。「本丸御殿跡」という表示に誘われてふらふら近づいてみると何か学校の敷地内「みたいな」ところに辿り着き草ぼうぼう。何となく曰くありげな祠があり、何か映っちゃいけないものが映っちゃいそうで怖かったがパチリと1枚。大丈夫みたいだな。



どうもこれが「本丸御殿跡」らしい。どう見ても学校の脇の草むらにしか見えませんな・・・。部活後で学校に来ていたんであろう生徒さんに怪しまれながら歩いてきた甲斐もないっつーもの。



師匠と別れ、杵築バスターミナルから空港行きの路線バスに乗り込む。暑さに閉口して少々前倒しで空港へ。ひとしきりお土産を買い込んだ後は、さっき鯛茶を食べたばかりだというのに空港のレストランでだんご汁定食を喰らう。夜まで腹が減らなかったのは言うまでもない。



それにしても、

僕は・・・大分に・・・勝ちたい!(アムロ風にどうぞ)

(大分編・了)

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




前回からのつづき)

しかしお盆休み真っ只中に普通に(いやむしろ忙しい)通勤して普通にブログ更新してるってのもなぁ、などと思いながらしつこく大分編。杵築城のつづき、であります。

ご覧のとおり杵築城は海と川に囲まれた城。1394年に大友氏の流れを汲む木付(きつき)氏の4代頼直によってこの地に築城されたと言われているらしい。台地に建てられたため台山城、また台山の形状が牛の寝姿に似ていることから臥牛城といった別称がある由。



木付氏16代鎮直の時代には島津氏臣下の武将の猛攻を受けても見事持ちこたえたというエピソードもあり。しかしその数年後、朝鮮出兵の際に敵前逃亡したことで秀吉の逆鱗に触れた大友宗家が改易されるに及び、宗家に従っていた時の木付氏当主統直は帰国途中にその悲劇を嘆いて門司ノ浦にて自刃。さらにその悲報を聞いた父鎮直らも城内で自害し、300年以上に及ぶ木付氏17代の歴史が幕を閉じたということらしい。で、その後紆余曲折あって松平氏が明治維新まで統治。



城内はご多分にもれず町の資料館という感じ。しかし中津城に比べると代々の支配者の武具や生活用品が展示されており、なかなか興味深い。入口の案内のおばさんがいやに親切で、うちわを貸してくれたり、解説してくれたり、槍を持たせてくれたりしてちょっと戸惑ったほどだが悪い気のしようはずがない。ついにおばさんは連れの極太うぃあーさんに甲冑の試着まで勧め始める。そしてその極太さんもまんざらでもないご様子で・・・。


「彼氏が甲冑(よろい)にきがえたら」来夏公開予定

天守からは、中津城同様に海(別府湾でいいのかな?)に川が流れ込む様子を望むことができる。河口というより干拓地みたいな印象が強いのではあるが。左下に見えるのが入城前に上った展望台。バズーカ砲みたいなカメラを携えた方を小さく捉えている。



(つづく)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回からのつづき)

ソニックで中津から大分に到着、ホテルにチェックインして九州石油ドームへ。その砂場のような場所で何やら酷いエンターテイメントを見せられたおぼろげな記憶が。しかし、小学生を動員してピッチの補修をさせるというのは何か無邪気な彼らを利用しているようにしか見えなかったが・・・。



砂遊びの後は打ちひしがれたまま大分駅周辺を彷徨う。散々な試合の後でもやっぱり浦和者がうろうろしていて店探しにやや難儀したが、無事「りゅうきゅう」の食べられる居酒屋を何とか見つけ出して入店。メガジョッキ(だったかな)で生ビールを流し込むなどひとしきり飲み食いし、勢いで閉店30分前のカラオケ屋に突入した上で2時くらい?にホテルに帰還。贅沢を言えば鴨すいも食べたかったが。



それでも翌朝はしっかり7時半には起床。大分駅前から路線バスに乗ってゆうに1時間以上かけて国東半島にある街・杵築(きつき)へと向かう。バスの中でぐったりしながら10時半前には杵築に到着、いきなり案内板に「坂道の城下町」と書いてあってちょびっとだけげんなり・・・。とにもかくにも、とりあえず杵築城へ向かって階段を登り始める。



前日訪れた中津が慶應義塾の創設者福澤諭吉を輩出した街なら、こちら杵築は法政大学の前身・東京法学社の設立者である伊藤修と金丸鉄を輩出した街らしく、城址にある城山公園には2人の記念碑があった。六大学のうち2つの創設者を輩出とは大分恐るべし(2つ以上かもしれないけど)。



夥しい数の石塔(でいいのかな?お城のパンフでは「石造文化財」「城山公園石造物群」とされていた。)が建てられていたのが印象的だったのだが、歴史的背景はよくわからず。



中津城と同じくこちらも模擬天守、昭和45年に再建されたもので少々小ぶりな印象。せっかく城に行ったのに肝心の天守の写真がこれしか残っていなかったのは、城そのものに深い感銘を受けなかったからかもしれない。てなことをいいながら次回も杵築城ネタを引っ張る気マンマンなのだが。



天守入口の傍にあるちょっとした展望台。バズーカ砲みたいなカメラを持った紳士が気合入れて恋した・・・いや気合入れて写真撮影に勤しんでおられた。



(つづく)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




だいぶ前の話だが、7月23日(木)の仕事帰りに何となくとんこつの匂いが恋しくなって21時前に訪問。大分遠征の疲れもあってやや風邪気味だったためネギを注入すべく、初めてバリネギラーメン(800円)をチョイス。マイルド過ぎない程度にマイルドなとんこつスープと定番の極細麺だが、大量投入された葱が食べ終わるまでずっと両者のリエゾンとなって作用し続けてくれるので、葱好きな方なら気に入る味なんだろうと思う。

住所:東京都港区赤坂2-17-58 福住ビル1F
電話番号:03-5545-9488
営業時間:(月~金)12:00~翌1:00(土)12:00~23:00
定休日:日祝

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




仕事の都合上まとまった休みがどうしてもここしか取れないということで、予定もないのに金曜から3営業日休暇中であります。そんなわけで、行けないと思っていたこのイベントも冷静に考えれば行けるじゃんということで、顔を出してきた。「語る会」的なイベントに顔を出すのは実は初めて。全2時間、前半は橋本代表による現状報告20分、残りは清尾さん司会で、橋本代表及び信藤TDに対して事前に送られてきた質問をぶつけて両氏が回答。後半は大住さんがフィンケ監督にインタビューしていく形式。

記憶に残っている限りのポイントや目新しい発言は以下のとおり。2部のフィンケ監督の発言は既にオフィシャルで公開されている内容の焼き直しがほとんど。

○クラブの方向性 他
(代表)フィンケ監督をサポートしていく。クラブとしてフィンケ監督に数値的なノルマは課していない。第一目標は「レッズスタイル」の構築、もちろん一試合一試合勝利を目指す。→数値的ノルマが課されていないことについては、監督も当事の経営陣(藤口さん?)に同趣旨のことを言われたと発言。
(代表)アウェイサポ歓迎については、山形の歓迎は素晴らしかったが浦和と山形では環境や条件が異なる。例えばアウェイサポが強い日差しをしのぐための施設を設置するなど、保安上安全上の「もてなし」はやっていくということ。

○強化関係
(代表)強化費は前年並みの額を確保しており、金庫の扉は開いている状態。
(信藤)補強については監督と相談している。単発的な補強はしない。次に補強に繋がるような補強をしたい。左SBについて、平川も復帰したし、永田も、ユーティリティな細貝もいる。補強は検討はしている。しかし、(報道されたように)アレックス放出後に慌てて左SB補強に動いているということはない。
(監督)欧州の一流選手の補強は金銭的に不可能。実はモスクワでプレーしている欧州レベルでの経験が豊富な選手と交渉していたが、浦和の財政的制約に比してサラリーが高すぎて不調に終わった。
(監督)(欧州からの補強が難しいので、)今後は比較的安価なアジアから補強していけたらよい。また、提携関係にある欧州のクラブ(バイエルン?)から18~22才の選手を期限付きで借りてくることができればそこから来る選手、日本の選手双方に取って得るものがあると思う。

以上、主観や誤った認識がある可能性もありますのでご了承ください。何せイベント後に浦和で飲んだくれていたもので・・・。あと、阿部が当日の練習を途中離脱したそう。韓国から帰った時点で足に張りがあったとかなんとか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回からのつづき)

中津城を後にし、次に向かったのは福澤諭吉旧居。慶應義塾の創始者にして「学問ノススメ」などの著者、そして何より壱万円札に刻まれていることで有名な人物。その福澤は旧中津藩の下級藩士として生を受けた。名前の由来は儒学を嗜んでいた彼の父が『上諭条例』という入手困難だった中国の書物をを手に入れた日に誕生したことによるんだとか。



生家そのものはご覧のような感じで今となっては何の変哲もないもの。しかし隣に建てられた2階建ての福澤記念館の展示、まあ誠に堅苦しいものだったのだが、福澤がどんなものやどんな人物に影響を受け、逆にどんな人物と関わりどんな人物に影響を与えたのかがそれなりに詳しく説明してあって興味深かった。「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」という、昔の本で読んで何となく記憶していた彼の言葉は、自らの父が下級藩士だったこととも関係あったのかななんて思った。



そんなこんなで、幕末の人物の中ではどちらかと言うと「いけすかないヤツ」という印象を持っていた福澤がちょびっとだけ身近に感じられた。学生時代に一度読んだきりの「学問ノススメ」やら「福翁自伝」やら、もう1度読み返してみようかなあなどといい歳して柄にもなく思ってみたりして。ちなみに中津城から歩いてすぐの距離にあります。



中津駅まで戻る道すがらには寺社仏閣が集結したような通りが。そこで一際目を引いたのがこの「合元寺」。秀吉に疎まれ、彼の命を受けた黒田官兵衛によって謀殺された戦国武将がいて、彼の家臣団が中津城に出向いた主を待っていたのがこのお寺。そこで家臣団は主が中津城で騙され殺害されたことを知り、勝てぬ戦を挑み散り、その血しぶきがこの寺の壁に飛び散った。そしてその血しぶきが何度洗っても何度洗っても落ちなかったためやむなく赤く塗りつぶすに至ったという伝説があるらしい。というわけで、「赤壁」ということで思わず反応してしまったが、赤といってもこれは茨城方面の赤であると結論付けた。てか、これペン(ry



連れの中にはネオンで光合成するような人物がいるもので、図らずも吸い寄せられるように通りがかってしまった中津の歓楽街(でも昼間ですのでご安心ください)。街の規模の割りに歓楽街の規模が大きいような印象を受けたのだがこれ如何に。そこで一番笑えた看板がこれ。今後はロシアのお姉ちゃんが加わってG8となり、やがてBRICsなどの新興国がオブザーバー参加して・・・、みたいな展開なんでしょうか。



大分に向かうソニックを捕まえようと中津駅のホームに戻るとこんな長いベンチが鎮座。中津はからあげと、ハモ料理が名物だったらしいのだが、今回はラーメンを食っちまったためさすがにこれ以上腹にぶちこむわけにはいかず残念でした。また機会があれば。いや次回がいつになるのかはあれですが・・・。



到着したソニックは見事に撮影失敗。JR九州日豊本線を走り、博多-大分駅間を結ぶ特急列車。JR九州の列車のデザインはこのソニックに限らず前衛的なものが多く、きっと議論は多いんだろうけど、個人的にはいつも目を楽しませてもらっている。



外観のみならず車内のデザインもこれまた非常にユニーク。特にこの椅子は足は乗せられるし、頭が安定するしで重宝します。乗り込んだソニックがえらく混雑していたのは浦和者だけのせいじゃないと思いたいのですが果たして真相や如何に。博多から乗り込んできたっぽい大分サポの姿も見られたが。



(つづく)

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




花火を見んがために親戚が集まるということで実家に緊急招集されてサポート業務に従事。そんなわけで雨のぱらつく中、久々に熊谷花火大会へ。2週連続の花火鑑賞と相成ったわけだが、手前味噌ながらやはり熊谷の花火は迫力が違う。先週の戸田橋もよかったけど熊谷に比べると正直ヌルいなと。花火の規模もさることながら、至近距離から見られるため花火そのものがドデカいのは勿論のこと、親戚のおばさん曰く「雷が落ちたような」衝撃が腹に響く臨場感が凄い。生まれて初めて傘を差しながらの花火鑑賞、しかも途中で雨脚が強まってハイライトともいえる八木橋百貨店提供の花火がゆっくり見られなかった点は非常に残念だったが満足した。中学生の頃にヤンキーの先輩にジュース分捕られたこととか、同級生の女の子の浴衣に痺れたこととか、人生最初で最後の逆ナンの思い出とか、ホロ苦かったり、甘酸っぱかったりする花火の記憶も同時に思い出された。




しかし我が故郷熊谷よ、これには正直ガッカリだ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




前回からのつづき)

今日も「自称」新聞記者がお元気みたいで何よりです。

さて続き。

中津駅から歩くこと15分ほどだったろうか、リバーサイドに佇む中津城に到着。それなりの暑さと晴天の中15分は普通は結構きつい方なんだと思うけど、普段から走ったり歩いたりして慣れているので個人的にはさほどでもなかった。ご覧のとおり何となく天守が石垣からハミ出しているように見えるのがなんとも印象的。かといって「ハミ城」と呼ばれるわけでは無論なく、河口にあり「水城」と分類される向きもあるよう。



少々近づいてみると、階段らしきものの上に昔使っていたであろう出入口らしきものが見えたのだが、なんとも場末のスナックチックな押し引きするタイプのガラス戸・・・。お城の入口にあれはないわなと。いきなり生々しい黒歴史をみせつけられてしまったような気がした。ま、図らずも裏口から入ってしまったオレたちが悪いんでしょう。



中津城の歴史は1587年に秀吉による島津征伐の際に戦功のあった軍師・黒田官兵衛(孝高)が豊前16万石を拝領して築城しました的な展開がそもそもの始まりとなるらしい。その後、関ヶ原に勝利した東軍徳川方の細川忠興が豊前豊後32万石を与えられ入城する。忠興は小倉城を築城して自らはそちらに移り息子の忠利にこの城を譲るものの、老後は小倉を息子に任せて老後は再びこの中津城ですごした由。そんないきさつもあり黒田の石垣と細川の石垣がくっきり分かれているところもあったのだが撮影失念。



この細川氏というのはあの細川元総理のご先祖様、つまり程なく加藤清正の息子が改易になった熊本に転封となる(1617年)。そしてこの中津を引き継いだのが小笠原氏、しかしその小笠原氏も断絶となり奥平氏が入り以降歴代城主を務めたという経緯らしい。てなわけで敷地内には「奥平神社」。からくり人形がおみくじを運んできてくれるユニークなおみくじが印象に残った。傍らに見られるのは櫓だが、天守共々昭和39年に再建されたもの(つまり天守は模擬天守。だから石垣とアンバランスな感じなのだろうか・・・建築は詳しくないのでわからんが)。



奥平神社の隣には中津大神宮。天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)などを祀った明治時代からの神社のよう。倉敷の神社でも見かけた砲弾は日露戦争の際に奉納されたものなのかしら。



最上層からは山国川(中津川)の河口とその先に広がる周防灘を望むことができる。昭和30年代に建てられただけあって、城内は何となく昔の公立図書館を思わせるようなある種懐かしいつくりになっており、展示はお城の歴史よりもむしろ地元中津の輩出した英雄、それも主に軍人に関する展示が多かったような。ちなみに城内は灰皿が置いてあって喫煙可能で、城内で喫煙OKってのは初めてのことでかなり衝撃的。いや自分は吸わないんでどうでもいいのだが、大丈夫なんかね?w



最後の「殿様」奥平氏の家紋は軍配っぽいデザイン。現在も建物は奥平氏の経営する会社の所有物なのだが、維持費が大変で売却したがっているなんて世知辛い話もあるようです。ちなみにこの天守はそもそも往時ホントに存在したかどうかさえ定かじゃないみたいだが・・・。



(つづく)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




オフ前 フィンケ監督コメント(浦和公式)

昨日うちの監督がこんなプレスカンファレンスを開いて上記リンクのような内容の話をしたらしい。

そして、その会見に出席して同じ話を聞いたはずの記者さんたちは翌日になってこんな記事を世の中に披露。

内部分裂…フィンケ監督 「闘莉王発言」に反論(スポニチ)
浦和・フィンケ監督が“白旗”宣言(サンスポ)
浦和フィンケ監督「悪く書かないでくれ」(ニッカン)

さすが、厳しい競争を勝ち抜いてマスコミに就職された優秀な人材だけあって、話を聞いてただそのまま記事にするような真似はされない。「逆ギレ」とか「白旗」とか、たくさんの刺激的な言葉が宝石のように散りばめてあって、その上記者自身の自分なりの深い解釈や自分なりのプライオリティ付けというスパイスまでこれでもかという位まぶしてあって、いや、これがいわゆる「付加価値」をつけた仕事ってヤツなんですね。感心しました。

でも、マスメディアの皆さんが付加価値をつけたお仕事をされていることはスポーツ紙のみならず一般紙の仕事ぶりなどを見ても明らかなので今更の話。今回何より凄いと思ったのは、一字一句起こした議事録がオフィシャルサイトに掲載されることを知った上で、それでもしっかりと自分なりの付加価値をつけた話を堂々と公にし、自分なりの解釈で世に問題提起する記者の皆さんの勇気と心意気なのだ。いや大いに頭が下がる、さすがペンで飯を喰っているプロの仕事ですね。





っだらね

オフィシャルの情報だけじゃそれこそ偏った情報になると思ってスポーツ紙の報道にも一応目を通してはいるけど・・・ここまで来るとある種の「悪意」があるとしか思えないよな。そりゃオフィシャルの情報にまったくバイアスがないとは言えないけど、比較論で言えば今回より信頼に足るのはオフィシャルの情報だとオレは思う。

まあ、アレについてのくだりはさすがに正直ちょっと言い訳がましい気はするけどさw

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




もはや遠い昔の出来事のように感じられるのだが、リーグも中断ということで大分遠征についてぼちぼちと。いや、遠い昔と言っても4連敗の始まりだったんだからそう遠くもないのかな・・・。今回はロジ隊長の極太うぃあーさんの判断で割高な大分便を避け、スターフライヤーで北九州空港から九州入り。機体も真っ黒なら、座席まで黒い革張りと、なんてーのかな、ラグジュアリー感(笑)っていうの?束の間そんなものを感じた。まあ勘違いも甚だしいのだが。そういえば、荷物検査の際にICカード的な感じでチケットをかざすってのは初体験でちょっとどきどきした。



SFJ75便で午前中に北九州空港に到着。北九州空港は人工島の上に位置する新しい空港で、2006年に開港したばかり。ゆえに空港施設は非常に新しく清潔な印象だった。とりあえず大分方面に向かうため日豊本線にアクセスする必要があり、早速エアポートバスに乗り込む。天気が良かったせいもあって、空港と九州本土?を結ぶ長い橋は実に眺めが良く、またインフラ好きにはたまらない光景でもあり。そして大阪からやってきた師匠と行橋(ゆきはし)駅で合流、一路大分方面へ。



大分方面に向かう道中、中津駅で途中下車。中津は大分県内で人口では大分市、別府市に次ぐ規模を誇る、福岡県と大分県の県境にある街。そんなわけで大分県に入ったという実感を強く覚えることもなく・・・。その中津を訪れた主な目的は(1)らーめん(宝来軒、紹介済み)、(2)中津城、(3)福沢諭吉の生家の3つ。中津駅前にはその福沢諭吉像が凛とした姿を見せる。中津藩の下級藩士の息子として生まれた人物で、言わずと知れた慶應義塾の創始者。



昼飯にらーめんを食べて腹ごしらえを終え、早速山国川河口にある中津城へ向かう。天気予報ではさほどよくなかったはずなのだが、この日は(も?)カンカン照り。地方都市というのは幹線道路を徒歩で異動する人はほとんどおらず、この日も中津城までの道中3人で浮きまくり。それでも額に汗しながら歩を進めていくと、ようやく前方川沿いに天守の姿が見えてきた。



(つづく)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




フロント&監督に不満!浦和・闘莉王が爆発(サンスポ)
闘莉王激怒「うちのフロントは大丈夫かっ」(スポニチ)
闘莉王フロントに激怒!三都主放出に疑問…浦和(報知)

いやいや久しぶりに派手に来たなとw

闘莉王の発言内容が事実と仮定すれば、ひとえに浦和というクラブとそのチームメートに対する愛情のほとばしりみたいなものと解釈できる。てか、いい加減クラブ内で処理しろよとは思うものの、そもそももう慣れたよというか・・・。他方、スポーツ紙なんて売れる記事になれば何でもいいというスタンスだから好き勝手に書くもんだと思ってはいるのだが、それにしてもこうして並べてみると特定の社の記事における悪意による味付けっぷりが際立っていてその点はなかなか興味深い。果たして例の事件と関係あったりするのかな?

闘莉王が焦る気持ちもわかるが、個人的には今季は強固な土台を構築するためのシーズンと思っていて、賞金圏内なら御の字、ACL圏内なら万々歳、最後のところは降格さえしなきゃまあいいかくらいなスタンスなので、まあもう少し我慢しようやというところ(かといって補強などけしからん、とまでは思わないけど)。ただ、「TDがアレ放出の結果として補強の必要性を感じている」というのが事実とすれば、闘莉王も指摘するとおり遅きに失した感がありのだが。監督から繰り返される「クラブの補強資金がない」という点と合わせ、今度の語る会?で是非説明を聞いてみたい(行けないけど)。


アレックスが行っちゃったのはオレも寂しいけどさ・・・。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




先週土曜は数年ぶりの戸田橋花火大会。正攻法で真正面から埼京線で戸田公園駅へ乗り込んだところ激コミで阿鼻叫喚状態でもみくちゃ。ようやく戸田公園駅に着いたものの、駅からのルートもまた人だらけで辟易しながらようやく会場へ。しかし辿り着いた会場も当然混んでいて、しかも一般席は奥の方にあって到達できず、通路にへばりつきながらやっとの思い出花火を見上げる。しかし苦労した甲斐あって、花火そのものはなかなかのもので、花火にはうるさい熊谷出身のオレでも十分満足。


まなんつーか、つまりは「苦労すればしただけいいもんが見られる」っつーことを言いたいわけです。そう思っておきますです。





・・・いやでもさすがに「三年」は長いなw

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


時代  


J-league Div.1 - 2009 season 20th sec.
Urawa 0 x 1 Shimizu@Saitama stadium 2oo2, SAITAMA(HOME)

♪まわる~ ま~わ~る~よボールは回る~


得意の「いいこと探し」をすれば、平川は思った以上にやれそうということと、過去数試合に比べれば攻撃面で改善が見られ幾許かの可能性を感じさせてくれたこと。せっかくの中断があるので、存分にネガってからまた切り替えていきたいと思います。


そしてさよなら、アレックス。

アレックス、名古屋グランパスに完全移籍(浦和公式)

J1第20節 浦和0×1清水@埼スタ

J.League 20th sec. vs Shimizu S-Pulse result (Urawa official)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回からのつづき)

まだまだ続くクラゲのオンパレード。つい先月山形に行ったことがもう随分と昔のように感じられてしまうのはまあ、あれなんでしょうな・・・。以降、バラエティに富んだクラゲの行進についていちいちコメントできるのほどボキャブラリーをもっているわけではありませんので、しばし写真のみでお楽しみください(苦手な人はすいません)。



「手の空いている者は左舷を見ろ」とか呟きたくなる光景ではあります。



↓なんか蛍光っぽい光を発していたような・・・。



これ↓は恐らくエチゼンクラゲ。刺されたらすげえ痛そう・・・。毎年大量の発生して漁業への影響甚大とのことだった。





下のクラゲが怪しく光っているのはさすがに照明による効果なので誤解なきよう。












以降は確かパラオのクラゲ。



パラオのサカサクラゲ。「余り動きません」との解説が付してあったが、確かにほぼ動かず。逆さになっていることもあり、くらげというよりは一見海草にしか見えない。



こうしてクラゲをガン見しているところを連れに背後から盗撮されてしまった。そろそろ少し人生について考え直した方がいいのだろうか。



そんなこんなでクラゲ鑑賞を堪能(見つけてくれた連れには感謝)し、路線バスで鶴岡に戻り、再び特急いなほ(羽越本線)で今度は新潟方面に向かう。ここまで来たら新潟まで出て上越新幹線で帰京した方が早いとの判断だったのだが、帰路の「いなほ」では、JRの駅のポスターでよくみかける「きらきら うえつ」という言葉の意味がようやくわかった。日本海沿いを走る羽越本線では、沈み行く太陽の光が海原に反射してキラキラと光っていて、眩いまでの光景が延々と続くのである。

と、いくら詩的に語ってみても隣に座っていたのは野郎なんですけど(涙)



「逆天地人ルート」もなかなか乙でした。

以上、山形編ようやく完結。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




岡野雅行選手(TSWペガサス)移籍加入のお知らせ(鳥取公式)

久々に浦和がらみで明るい話題。素直にうれしいし、頑張って欲しい。越境留学だろうけど一応出身校が松江なわけだから、ある意味凱旋帰国ともいえるのかな。しかし、どうも生、媒体経由問わず実際に試合を見られる機会というのはなかなか得られないようだが・・・。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »