いわゆる「文明論」。全世界を砂、石、泥の3つの文明に分類して、歴史や現状を捉えてみようというもの。大雑把に言えば砂:中東・北アフリカ、石:欧米、泥:アジアということになる。 「文明」と「文化」は異なるとする立場。文化は、例えば、各国料理や、より具体的にはスコットランド人にとってのバグパイプなど、民族がアイデンティティを感じるようなものであるのに対し、文明は「文明の利器」などと言うように、リベラルな民主主義といった制度的なものから自動車という物質的なものまで、世界的に普遍性のあるものと定義する。その記述の中で、数多の「文化」を内包するアメリカという「文明」は、常に外に「文明の敵」を作ることによって内部的な結束を図ろうとしている、というくだりは非常に納得感があった。アメリカは文明か、確かに「アメリカ料理」なんて言われてもピンと来ない。そして3つの文明については以下のとおり。
「石の文明」、その発祥であるヨーロッパの多くの地域では、岩盤の上に浅い表土があるのみであり、決して自然に恵まれているわけではなく、主たる産業は牧畜となる。一方で、家畜を育てていくにはかなりの量の牧草が必要で、そうした中で生活水準を上げるためにはテリトリーを広げていく他ない。この、外へ外へ拡大していく精神、外に進出する力。ひいてはアメリカの「フロンティア・スピリット」にも受け継がれているのだが、これが帝国主義の世を現出せしめたという。また、自然に恵まれていれば、自然=全てを生み出してくれるという発想も出てくるのだが、そういうわけでヨーロッパではそうした発想は生まれず、土地や自然の開発=人間の労働が富をもたらすという発想はそこに立脚しているんだとか。交通、輸送、通信、兵器、法律など、外に進出するに当たって必要なツールが発達したと。
そして「砂の文明」。砂漠は不毛、ゆえに農耕はおろか、牧畜さえもできず定住も不可能。従い砂漠の民はラクダとともに砂漠の中を移動して暮らしていかざるを得ない。生活水準を上げていくには、らくだを率いて砂漠の中を縦横無尽に移動して交易に従事していく他ない。交易による利益を最大化するのは、例えばどこの港で何を売れば高く売れるといった「情報」が必須。その際に必要となるネットワークを各部族が構築してきた。ゆえに、少なくとも石油が発見されて欧米諸国が入ってくるまで国境、そして建物やインフラなど構築物は大した意味を成さないものとか。
「泥の文明」は、泥土が多くのものを生み出すという前提から成り立っている。ゆえに、大なり小なり自然崇拝のようなものを持っていて、また、定住も可能。泥、アジアの農耕社会は三千年来隣の民族、隣の村落と山川を隔てて共存せざるを得ず、外への進出は困難。同じ土地に長期間住み続けるなかで生活水準を上げていくためには品種改良、品質管理、工程上の改善・管理を続けて「歩留まり」を上げていくしかない。文中では「内に蓄積する力」と表現していた。ここでは日本、インド、東南アジア、中国の南部あたりが「泥の文明」に該当するとしていたが、そういえば自分がインドに出張した際に、腹を壊して散々な思いをしつつもどことなく妙な親近感を覚えたことはそのあたりに起因するものなのかなんて思ってみたりして。
とにもかくにも、世界の動きの捉え方のひとつを教えてもらったような気がしてなかなか興味深い本だった。繰り返し呼んでみたい類のものだ。
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