去る週末、北海道近代美術館の「アイヌの美しき手仕事」展を拝見してきた。戦中戦後の民藝運動の指導者、柳宗悦と芹沢銈介の収集したアイヌの生活用品が見られるいい展示だった。
アイヌ文様のシンメトリー
アイヌの衣装や首飾り(タマサイ)を見ていて、すぐに気づくのがシンメトリー(左右対称)だ。特にアイヌの衣装にステッチされている渦巻き文(モレウ)はほとんど全てがシンメトリーをなしている。よく見るとアシンメトリック(左右非対称)な文様もところどころに見て取れなくはないが、アクセントの領域を出ない。あくまで基本はシンメトリーである。
https://www.furusato-pr.jp/images/hokkaido/ainu-2_img_04.jpg
アイヌのシンメトリックな世界観
さて、シンメトリーは古今東西あらゆるデザイン、装飾、美術にみられる表現方法であり、それ自体をアイヌ「特有」とするのは明らかな誤謬である。ただ面白いのはアイヌの世界観がこれらの文様と呼応するようなシンメトリーを形成していることなのだ。
キリスト教の世界観(対比のために)
わかりやすく対比するために、キリスト教の世界観を俯瞰しよう。(なお、キリスト教宗派間、ユダヤ教の解釈のズレは一旦脇に置く)
キリスト今日の世界観では人は唯一絶対の「神」に似せた被造物であり、愚かにも「知恵の樹の果実」を食してエデンを追放された不完全な存在(原罪)である。死者は「最後の審判」を待って天国と地獄へ振り分けられる。つまり、キリスト教には神の住まう「天国」、不完全な存在である人間の生きる「現世」、罪人と悪魔が永遠に苦悩するよう定められた「地獄」という3つの世界があり、明確な上下関係をなしている(システィナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」がその象徴と言えよう)。
アイヌの世界観
それに対して、アイヌの世界観はこうだ。アイヌは死後、人間は皆、「神(カムイ)」となり「カムイ・モシリ」という死後の世界に向かう。ただし、人間は「カムイ・モシリ」でもこの世と全く同じ形をし、全く同じ生活を送る。その証拠にアイヌ民族は埋葬時に故人の服から刀、煙草入れまで生活に必要なものを一緒に埋葬する。
この世とあの世の違いはと言えば、「双方ともに容易に行き来はできない(運よく行き来できても透明になってしまうので互いに認識はできない)」「この世とあの世は昼夜があべこべである」「時間の流れが異なり、あの世の数時間はこの世の数週間に相当する」(浦島太郎のようである)「あの世では死んだ人々は、天井にとまるハエのように、足をさかさまにして歩く」(ホラー映画のようだ)。といった具合。あの世だからと言ってこの世より優れた上位の世界というわけではない。あの世とこの世で言わば「鏡」のような対称的な関係性が成り立っているのである。
一つ注釈を付けくわえねばならないのは「神(カムイ)」の概念だろう。アイヌの神話にも古事記のような様々な「神」が登場するのだが、キリスト教における「GOD」や天照大御神のような超越的な存在ではない。どちらかと言うと自分たちの生活圏に存在する自然(山、雪)や動物(熊、オオカミ)たちを擬人化、抽象化している側面が強い。伝承内での振る舞いも人間的である。なにせ皆が皆「神」になるわけだから、超越もなにもない。
そもそも「神」という概念自体、比較的後世に本州から輸入、影響を受けたものであることが最近の研究で判明してきているので、今後の調査に期待したい。
このようなアイヌ独特の世界観を山田孝子は「相補二元的宇宙観」(*)と命名しているが、私個人の意見としては「鏡像的並行世界観」としたほうがアイヌのイメージに近いのではないかと思われる。自然を擬人化した多神教は世界中に存在するが(ギリシャ神話やエジプト神話、古事記)、この鏡像的な世界観はあまりお目にかかったことがない。神話というより物理の多元宇宙論に近い印象すら受ける。前述の通り、アイヌの世界観は本州やロシアの影響を当然受けているので、その変遷を明らかにすることによって、善悪二元論や天国現世地獄の3階層といった暗黙の世界観に新しい可能性を投げかけてくれるかもしれない。
*アイヌの世界観 講談社学術文庫 山田孝子著
アイヌ文様のシンメトリー
アイヌの衣装や首飾り(タマサイ)を見ていて、すぐに気づくのがシンメトリー(左右対称)だ。特にアイヌの衣装にステッチされている渦巻き文(モレウ)はほとんど全てがシンメトリーをなしている。よく見るとアシンメトリック(左右非対称)な文様もところどころに見て取れなくはないが、アクセントの領域を出ない。あくまで基本はシンメトリーである。
https://www.furusato-pr.jp/images/hokkaido/ainu-2_img_04.jpg
アイヌのシンメトリックな世界観
さて、シンメトリーは古今東西あらゆるデザイン、装飾、美術にみられる表現方法であり、それ自体をアイヌ「特有」とするのは明らかな誤謬である。ただ面白いのはアイヌの世界観がこれらの文様と呼応するようなシンメトリーを形成していることなのだ。
キリスト教の世界観(対比のために)
わかりやすく対比するために、キリスト教の世界観を俯瞰しよう。(なお、キリスト教宗派間、ユダヤ教の解釈のズレは一旦脇に置く)
キリスト今日の世界観では人は唯一絶対の「神」に似せた被造物であり、愚かにも「知恵の樹の果実」を食してエデンを追放された不完全な存在(原罪)である。死者は「最後の審判」を待って天国と地獄へ振り分けられる。つまり、キリスト教には神の住まう「天国」、不完全な存在である人間の生きる「現世」、罪人と悪魔が永遠に苦悩するよう定められた「地獄」という3つの世界があり、明確な上下関係をなしている(システィナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」がその象徴と言えよう)。
アイヌの世界観
それに対して、アイヌの世界観はこうだ。アイヌは死後、人間は皆、「神(カムイ)」となり「カムイ・モシリ」という死後の世界に向かう。ただし、人間は「カムイ・モシリ」でもこの世と全く同じ形をし、全く同じ生活を送る。その証拠にアイヌ民族は埋葬時に故人の服から刀、煙草入れまで生活に必要なものを一緒に埋葬する。
この世とあの世の違いはと言えば、「双方ともに容易に行き来はできない(運よく行き来できても透明になってしまうので互いに認識はできない)」「この世とあの世は昼夜があべこべである」「時間の流れが異なり、あの世の数時間はこの世の数週間に相当する」(浦島太郎のようである)「あの世では死んだ人々は、天井にとまるハエのように、足をさかさまにして歩く」(ホラー映画のようだ)。といった具合。あの世だからと言ってこの世より優れた上位の世界というわけではない。あの世とこの世で言わば「鏡」のような対称的な関係性が成り立っているのである。
一つ注釈を付けくわえねばならないのは「神(カムイ)」の概念だろう。アイヌの神話にも古事記のような様々な「神」が登場するのだが、キリスト教における「GOD」や天照大御神のような超越的な存在ではない。どちらかと言うと自分たちの生活圏に存在する自然(山、雪)や動物(熊、オオカミ)たちを擬人化、抽象化している側面が強い。伝承内での振る舞いも人間的である。なにせ皆が皆「神」になるわけだから、超越もなにもない。
そもそも「神」という概念自体、比較的後世に本州から輸入、影響を受けたものであることが最近の研究で判明してきているので、今後の調査に期待したい。
このようなアイヌ独特の世界観を山田孝子は「相補二元的宇宙観」(*)と命名しているが、私個人の意見としては「鏡像的並行世界観」としたほうがアイヌのイメージに近いのではないかと思われる。自然を擬人化した多神教は世界中に存在するが(ギリシャ神話やエジプト神話、古事記)、この鏡像的な世界観はあまりお目にかかったことがない。神話というより物理の多元宇宙論に近い印象すら受ける。前述の通り、アイヌの世界観は本州やロシアの影響を当然受けているので、その変遷を明らかにすることによって、善悪二元論や天国現世地獄の3階層といった暗黙の世界観に新しい可能性を投げかけてくれるかもしれない。
*アイヌの世界観 講談社学術文庫 山田孝子著