桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説(4)
篠原昭二 氏著
若菜(わかな)上
花が雪のように舞う春のタ暮れ,六条院の人々は蹴鞠(けまり)に興じていた。階 (きざはし)に腰をドろして一休みする柏木(かしわぎ)が女三の宮のいる辺りに目をやると,折しも描が飛び出し,付け紐で持ち土げられた簾の端から、内部が見通された。几帳の際に立つ小味(こうちき)姿の女はまさしく女モの宮である。小柄で髪のふさやかな,いい知れぬほど高貴で愛らしい姿に柏木は胸もつぶれる思いだったが,わが身のみ立つ場を思い,かわいげに鳴く猫を招き寄せてやるぜなさを慰めるしかなかった。
京都国立博物館
若菜(わかな)下
柏木は手を回して女三の宮の飼い猫を手に入れ,日も夜もそれを愛撫して時を過ごす。ようやく馴れた描は,恋の病に悄然として臥す柏木に身をすり寄せて,にょうにょうと鳴き声をたてるのだったが,柏木にはそれが「寝よう寝よう」と言っているように聞こえた。恋しい人の形見であるお前がなんで恋い患うわたしに寝ようなどと言うのかと描に問えば,描はますますかわい気に鳴くのだった。
京都国立博物館
柏木 (かしわぎ)
花のころ、夕霧は落葉のK宮を見舞った。柏本のいまはの際(きわ)に宮の後見(うしろみ)の委嘱を受けていたからである。応待に出た母御息所(みやすどころ)は彼の親切に感謝しながら朱雀(すざく)院や人出の意向に従って宮を結婚させたことを悔み,いずれにしても不幸を招くのだったら,何故強く反対しなかったのかと,激しく意に任せぬ世を嘆いた。宮と柏木との結婚生活は決して幸福なものではなかったが、それだけにかえって,庭の桜の昔通りに美しく咲く姿がもの哀しさをさそった。
東京都・徳川黎明会
横笛(よこぶえ)
朱雀院から女三の宮のえとへ山寺の辺りで採れた筒(たけのこ)などが贈られてきた。院は落葉の宮が人聞きの悪い境遇にあり、また三女の宮も出家生活を送っていることが不満であったが,今はただ現世を諦めて来世に望みを託す道を姫宮たちと共に歩きたいと,こうして折につけて見舞いがあるのだった。しかし来あわせた光源氏には、明日知れぬ命のほどに対面のままならない嘆きを記す文面から、女三の宮に対する院の情愛が立ち昇るように思われて,心苦しかった。
東京都・徳川黎明会
鈴虫(すずむし)
女三の宮は念仏三昧に日々を送っていたが、光源氏はこの庭を野の風情にしつらえて虫を放し,風の涼しい夕暮れなどに訪れては,なお末練の思いを訴えたりしていた。八月十五夜、今宵も宮のもとで琴(きん)を弾じていると,螢宮や夕霧をけじめ殿ll人たちが月の宴を期待して訪れ,そのまま管絃の遊びになった。月光と虫の音にはやされて興がたかまっていった乱 光源氏には亡き柏木(かしわぎ)が慕わしく思い出されて、涙がこぼれた。
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夕霧(ゆうぎり)
母御息所(みやすどころ)の薨去によって,落葉の宮の心は固く閉ざされ、夕霧の弔問にも全く応ぜず小野に一生を埋めようと決意した。焦燥の思いも深く,タ霖は忌明けも待たずに訪れた。本枯らしの吹き払う晩秋の山里,鹿の鳴く声にまじってかすかに読経の声が聞こえる。堪え難いもの哀しさにふと立ち止まり,ほんのりとさした夕日を,扇をかぎして眺めわたす夕霧の姿には女も及ばない美しさがあった。しかし宮の心は解けず,彼は空しく帰って行くのだった。
京都国立博物館
御法(みのり)
出家を許されない紫の上は,せめてのことに,長年書写してきた法華経千部の供養の法会(ほうえ)を催した。光源氏,帝,東宮らから供物の料が捧げられ、花散里や明石の方も参会してこの上なく盛大な法会は、3月花の盛り極楽もかくやと思われるほどで,念仏の声と管絃の斥け夜を徹して響き,明け行く空の霞の間より浮かび出た花の影からは,笛の斤に負けずに鳥がさえずった。それは存を愛した紫の上の最後を飾るにふさわしい情景であった。
京都国立博物館
幻 (まぼろし)
光源氏は紫の上を失った悲しみに惑乱する心を鎮(しず)め鎮めして1年を過ごし,ようやく出家を果たせる心境をえたのだったが,少しずつ身辺整理をするうちに,須磨の流誦時代に届いた紫の上の書簡をみつけて心の平静を失い,とめどなく流れる涙は,いま書いたように新しい紫の上の水茎の跡を濡らした。彼は女々しい心を女房たちに隠すように,よくも見ずに,見てもかいのない形見よ,主と同じ煙になれと,紫の上の細やかな言葉の傍らに書きつけて火に投じた。
京都国立博物館
匂宮(におうみや)
賭弓(のりゆみ)の還饗(かえりあるし)に,夕霧は親王方を招く準備をしていた。例年通りに左方の勝ちに終わると,彼は自分の車に匂宮のほか常陸(ひたち)の宮と信服の五の宮を同乗させて退出した。薫(かおる)も敗け方でひっそりと帰るところだったが呼びとめられ,夕霧家の君達(きんだち)やその他の上達部(かんだちめ)たちに一緒になって誘いたてられ,六条院に同行した。夕霧は何気な<典侍(ないしのすけ)服の六の君を匂宮や薫に見せて,縁談を進めようとしていたのである。春の初め,雪の散る夕暮れだった。
京都国立博物館
紅梅(こいうばい)
紅梅の大納言は後妻に迎えた真木柱(まきばしら)が蛍宮との間に設けていた宮の君の高貴な風情に惹かれていた。紅梅の盛り、大納言は、若君に笛を吹かせ宮の琴を聞いたが、それは光源氏の弾く音色を思わせた。彼は中の君の婿に臨む匂宮に紅梅の一枝を賜るように若君に命じたが、今の若君が匂宮に慣れ親しむように自分が光源氏に仕えた昔が恋しく,光源氏に比べれば世間の特別扱いする匂宮とて遠く及ばないと思うと,おのずから胸がふさがるのを覚えた。
京都国立博物館
竹河(たけかわ)
玉鬘(たまかずら)の大君(おおいぎみ)は多くの求婚者を捨てて、結局冷泉(れいぜい)院に参上した。蔵人(くろうど)の少将などは狂わんばかりに嘆いたのだが、薫も表面はそれほどに見えなかったが、内心では未練を捨てきれないで、冷泉家に参るといつも大君の居る辺りが気にかかるのだった。ある夕暮れ,御方近くの五葉の松に藤が美しく咲きかかっていたが,大君の弟の侍従と連れだって苔をむしろにそれを眺めていた薫の口からは,思うにまかせぬ世を恨む言葉がこぼれ出た。
京都国立博物館
橋姫(はしひめ)
秋の末,有明の月の輝く夜半,薫は思い立って宇治を訪れた。木の下゙露のこぼれかかるわびしい山道を行くと,遠くから琴(きん)の音が絶え絶えに聞こえたが,山荘に着いて透垣を押し開けてのぞくと姫君たちが折から秋の風情を愛でて琴に興じていた。雲間から急に射した月光に,琵琶を前にした1人が撥(ばち)をかざして
「扇ならで,これしても月は招きつべかりけり」
と言うと,琴にもたれたもう1人は変わった思いつきだと笑った。薫は,昔物語にでも聞くような情景だと思った。
京都国立博物館
浮舟(うきふね)
匂宮は中の君のもとにいた浮舟の愛らしい人柄が忘れられず,その行方を探し求めていた。正月ののどかな昼下がり,若君を相手に遊んでいると,女童(めのわらわ)が針金細工の小松に付けた髯箭(ひげこ),緑の薄ように包んだ文,立文(たてぶみ)などを中の君に届けにきた。中の君が困惑の体(てい)で取り隠させようとするので,匂宮は薫からの文ではと疑ったが,開けてみると浮舟が若君のために卯槌(うづち)を献上する文だった。中の君は薫のため,浮舟の居場所を秘していたのであった。
東京都・徳川黎明会
蜻蛉(かげろう)
浮舟を失った衝撃も次第に癒えて,薫にはものうい日常が返ってきた。あるときは女一の宮に憧れ,妻(女二の宮)に彼女と同じく薄物を着せて水遊びをさせてみたり,あるときはまた女二の宮のもとに出仕した蜻蛉の宮の姫君の境遇に同情して関心を寄せたりしていた。そして今日は六条院の東の渡殿(わたどの)に集う中宮方の女房たちの手習いの仲間に入り,彼を迎えて色めき立つ弁のおもとらと軽口を叩き合うのだった。しかし実はそういう薫の胸には中の君を得られぬ嘆きが重くわだかまっていた。
東京都徳川黎明会
手習(てならい)
9月になって尼君たちは長谷詣りに出かけて行った。浮舟は気分が悪いのを口実に残ったが,実は母や乳母と共にした参詣が何のかいもなく,命さえわが思いのままにならぬ今の境遇を思えば,到底回行する気持になれなかったのだ。とはいえ留守は心細く,わが人生を思えば気分はめいるばかりである。少将は見かねて碁に誘い,冗談を言って碁の強さをほめたりしてくれたが,浮舟にはかえってわずらわしく,もの思いに沈むばかりだった。
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夢浮橋(ゆめのうきはし)
薫は,明石の中宮より浮舟の消息を知らされて,まだ匂宮などが知らないことを確かめた上で,横川(よかわ)に僧都(そうず)を訪ねた。僧都は薫の並々ならぬ態度に浮舟の素姓を察知して驚愕し,こと細かに受戒させるまでの事情を語ったが,薫は浮舟の身の上を問う僧都にはおぼめかして詳しくは答えず,自分は浮舟が出家していると聞いて安心したと言って,母親の心配にこと寄せて僧都の尽力を乞うた。彼は浮舟に深入りして恥をかくことを恐れたのである。
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土佐光吉と光則の『源氏物語画帖』
源氏絵の永い歴史のなかで,古代~中世の伝統を近世につなぐ重要な役割を演じたのは土佐光吉(久翌(きゅうよく),1539~1613)である。各帖からの画面選択法や構図の原則には伝統を巧みに継承しながら,桃山時代の華麗な感覚を生かし,精緻な技法による細密画の源氏絵色紙のシリーズをつくり上げた。これは名流の筆になる詞書の色紙と組み合わされ豪華な画帖に仕立てられて大いに時流に投じた。絵の裏面に「久翌」墨印をもつ彼の源氏絵は幾種類も伝存しているが,代表的なものは京都国立博物館所蔵の色紙画帖2帖である6詞と絵を対ページに貼り,両帖の表裏合わせて見開き54面(色紙1枚は各縦25. 7cm, 横22. 6cm)。
しかし五十四帖を完結させず,「桐壷」から順次進んで(48)の 「早蕨」で終わり,最後の6面には「夕顔」「若紫」「末梢花」 「賢木」「花散里」「蓬生」がもう一図ずつ繰り返されるという特異な構成をとる。しかも最近修理の際裏面を検すると,「桐壷」の図から(36)の「柏木」までが「久翌」印を押されて光吉自筆と思われ,「横笛」以下「早蕨」までは印がなくて画風も異なり,最後の6図もこれと似た繊細だが構成の弱い筆致で,裏に「長次郎」という註記がある。各段の詞は後陽成天皇(1571~1617)はじめ貴紳23人の寄合書(よりあいがき)になるが,その年代から推すと,光吉としては最晩年の製作と思われるので,恐らく光吉自身は「柏木」までで絵筆がとれなくなり,後を側近の画家を指図して描かせ,さらに光吉の他界後長次郎と名のる後継者の1人が注文主の好みに合わせて繰り返しの6段を選び,図様に多少の変化を加えながら補い描いたものと推察される。
光吉の子とも弟子ともいわれ,土佐家を継いだ光則(1583~1638)は彩色密画の方向をさらに進めて,極限に近い微細で精巧な画面をつくり上げた。尾張徳川家に伝わった『源氏物語絵詞』と題する1帖は,全60丁に絵と詞の色紙各60枚を貼り合わせたもの。色紙も縦15. 3cm, 横14. 1cmと前者より一段と小さく,しかも図様は複雑で,戸外の自然景や襖絵などにも充分な詩情を盛っている。