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桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説(4) 篠原昭二 氏著 若菜(わかな)上~終り

2024年06月09日 08時55分02秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説(4)

篠原昭二 氏著

若菜(わかな)上

 

花が雪のように舞う春のタ暮れ,六条院の人々は蹴鞠(けまり)に興じていた。階 (きざはし)に腰をドろして一休みする柏木(かしわぎ)が女三の宮のいる辺りに目をやると,折しも描が飛び出し,付け紐で持ち土げられた簾の端から、内部が見通された。几帳の際に立つ小味(こうちき)姿の女はまさしく女モの宮である。小柄で髪のふさやかな,いい知れぬほど高貴で愛らしい姿に柏木は胸もつぶれる思いだったが,わが身のみ立つ場を思い,かわいげに鳴く猫を招き寄せてやるぜなさを慰めるしかなかった。

京都国立博物館

 

若菜(わかな)下

 

柏木は手を回して女三の宮の飼い猫を手に入れ,日も夜もそれを愛撫して時を過ごす。ようやく馴れた描は,恋の病に悄然として臥す柏木に身をすり寄せて,にょうにょうと鳴き声をたてるのだったが,柏木にはそれが「寝よう寝よう」と言っているように聞こえた。恋しい人の形見であるお前がなんで恋い患うわたしに寝ようなどと言うのかと描に問えば,描はますますかわい気に鳴くのだった。

京都国立博物館

 

柏木 (かしわぎ)

 

花のころ、夕霧は落葉のK宮を見舞った。柏本のいまはの際(きわ)に宮の後見(うしろみ)の委嘱を受けていたからである。応待に出た母御息所(みやすどころ)は彼の親切に感謝しながら朱雀(すざく)院や人出の意向に従って宮を結婚させたことを悔み,いずれにしても不幸を招くのだったら,何故強く反対しなかったのかと,激しく意に任せぬ世を嘆いた。宮と柏木との結婚生活は決して幸福なものではなかったが、それだけにかえって,庭の桜の昔通りに美しく咲く姿がもの哀しさをさそった。

東京都・徳川黎明会

 

横笛(よこぶえ)

 

朱雀院から女三の宮のえとへ山寺の辺りで採れた筒(たけのこ)などが贈られてきた。院は落葉の宮が人聞きの悪い境遇にあり、また三女の宮も出家生活を送っていることが不満であったが,今はただ現世を諦めて来世に望みを託す道を姫宮たちと共に歩きたいと,こうして折につけて見舞いがあるのだった。しかし来あわせた光源氏には、明日知れぬ命のほどに対面のままならない嘆きを記す文面から、女三の宮に対する院の情愛が立ち昇るように思われて,心苦しかった。

東京都・徳川黎明会

 

鈴虫(すずむし)

 

女三の宮は念仏三昧に日々を送っていたが、光源氏はこの庭を野の風情にしつらえて虫を放し,風の涼しい夕暮れなどに訪れては,なお末練の思いを訴えたりしていた。八月十五夜、今宵も宮のもとで琴(きん)を弾じていると,螢宮や夕霧をけじめ殿ll人たちが月の宴を期待して訪れ,そのまま管絃の遊びになった。月光と虫の音にはやされて興がたかまっていった乱 光源氏には亡き柏木(かしわぎ)が慕わしく思い出されて、涙がこぼれた。

東京都・徳川黎明会

 

夕霧(ゆうぎり)

 

母御息所(みやすどころ)の薨去によって,落葉の宮の心は固く閉ざされ、夕霧の弔問にも全く応ぜず小野に一生を埋めようと決意した。焦燥の思いも深く,タ霖は忌明けも待たずに訪れた。本枯らしの吹き払う晩秋の山里,鹿の鳴く声にまじってかすかに読経の声が聞こえる。堪え難いもの哀しさにふと立ち止まり,ほんのりとさした夕日を,扇をかぎして眺めわたす夕霧の姿には女も及ばない美しさがあった。しかし宮の心は解けず,彼は空しく帰って行くのだった。

京都国立博物館

 

御法(みのり)

 

出家を許されない紫の上は,せめてのことに,長年書写してきた法華経千部の供養の法会(ほうえ)を催した。光源氏,帝,東宮らから供物の料が捧げられ、花散里や明石の方も参会してこの上なく盛大な法会は、3月花の盛り極楽もかくやと思われるほどで,念仏の声と管絃の斥け夜を徹して響き,明け行く空の霞の間より浮かび出た花の影からは,笛の斤に負けずに鳥がさえずった。それは存を愛した紫の上の最後を飾るにふさわしい情景であった。   

京都国立博物館

 

幻 (まぼろし)

 

光源氏は紫の上を失った悲しみに惑乱する心を鎮(しず)め鎮めして1年を過ごし,ようやく出家を果たせる心境をえたのだったが,少しずつ身辺整理をするうちに,須磨の流誦時代に届いた紫の上の書簡をみつけて心の平静を失い,とめどなく流れる涙は,いま書いたように新しい紫の上の水茎の跡を濡らした。彼は女々しい心を女房たちに隠すように,よくも見ずに,見てもかいのない形見よ,主と同じ煙になれと,紫の上の細やかな言葉の傍らに書きつけて火に投じた。

京都国立博物館

 

匂宮(におうみや)

 

賭弓(のりゆみ)の還饗(かえりあるし)に,夕霧は親王方を招く準備をしていた。例年通りに左方の勝ちに終わると,彼は自分の車に匂宮のほか常陸(ひたち)の宮と信服の五の宮を同乗させて退出した。薫(かおる)も敗け方でひっそりと帰るところだったが呼びとめられ,夕霧家の君達(きんだち)やその他の上達部(かんだちめ)たちに一緒になって誘いたてられ,六条院に同行した。夕霧は何気な<典侍(ないしのすけ)服の六の君を匂宮や薫に見せて,縁談を進めようとしていたのである。春の初め,雪の散る夕暮れだった。

京都国立博物館 

 

紅梅(こいうばい)

 

 紅梅の大納言は後妻に迎えた真木柱(まきばしら)が蛍宮との間に設けていた宮の君の高貴な風情に惹かれていた。紅梅の盛り、大納言は、若君に笛を吹かせ宮の琴を聞いたが、それは光源氏の弾く音色を思わせた。彼は中の君の婿に臨む匂宮に紅梅の一枝を賜るように若君に命じたが、今の若君が匂宮に慣れ親しむように自分が光源氏に仕えた昔が恋しく,光源氏に比べれば世間の特別扱いする匂宮とて遠く及ばないと思うと,おのずから胸がふさがるのを覚えた。

京都国立博物館

 

竹河(たけかわ)

 

玉鬘(たまかずら)の大君(おおいぎみ)は多くの求婚者を捨てて、結局冷泉(れいぜい)院に参上した。蔵人(くろうど)の少将などは狂わんばかりに嘆いたのだが、薫も表面はそれほどに見えなかったが、内心では未練を捨てきれないで、冷泉家に参るといつも大君の居る辺りが気にかかるのだった。ある夕暮れ,御方近くの五葉の松に藤が美しく咲きかかっていたが,大君の弟の侍従と連れだって苔をむしろにそれを眺めていた薫の口からは,思うにまかせぬ世を恨む言葉がこぼれ出た。

京都国立博物館

 

橋姫(はしひめ)

 

秋の末,有明の月の輝く夜半,薫は思い立って宇治を訪れた。木の下゙露のこぼれかかるわびしい山道を行くと,遠くから琴(きん)の音が絶え絶えに聞こえたが,山荘に着いて透垣を押し開けてのぞくと姫君たちが折から秋の風情を愛でて琴に興じていた。雲間から急に射した月光に,琵琶を前にした1人が撥(ばち)をかざして

「扇ならで,これしても月は招きつべかりけり」

と言うと,琴にもたれたもう1人は変わった思いつきだと笑った。薫は,昔物語にでも聞くような情景だと思った。  

京都国立博物館

 

浮舟(うきふね)

 

匂宮は中の君のもとにいた浮舟の愛らしい人柄が忘れられず,その行方を探し求めていた。正月ののどかな昼下がり,若君を相手に遊んでいると,女童(めのわらわ)が針金細工の小松に付けた髯箭(ひげこ),緑の薄ように包んだ文,立文(たてぶみ)などを中の君に届けにきた。中の君が困惑の体(てい)で取り隠させようとするので,匂宮は薫からの文ではと疑ったが,開けてみると浮舟が若君のために卯槌(うづち)を献上する文だった。中の君は薫のため,浮舟の居場所を秘していたのであった。

東京都・徳川黎明会

 

蜻蛉(かげろう)

 

浮舟を失った衝撃も次第に癒えて,薫にはものうい日常が返ってきた。あるときは女一の宮に憧れ,妻(女二の宮)に彼女と同じく薄物を着せて水遊びをさせてみたり,あるときはまた女二の宮のもとに出仕した蜻蛉の宮の姫君の境遇に同情して関心を寄せたりしていた。そして今日は六条院の東の渡殿(わたどの)に集う中宮方の女房たちの手習いの仲間に入り,彼を迎えて色めき立つ弁のおもとらと軽口を叩き合うのだった。しかし実はそういう薫の胸には中の君を得られぬ嘆きが重くわだかまっていた。

東京都徳川黎明会

 

手習(てならい)

 

9月になって尼君たちは長谷詣りに出かけて行った。浮舟は気分が悪いのを口実に残ったが,実は母や乳母と共にした参詣が何のかいもなく,命さえわが思いのままにならぬ今の境遇を思えば,到底回行する気持になれなかったのだ。とはいえ留守は心細く,わが人生を思えば気分はめいるばかりである。少将は見かねて碁に誘い,冗談を言って碁の強さをほめたりしてくれたが,浮舟にはかえってわずらわしく,もの思いに沈むばかりだった。

東京都・徳川黎明会

 

夢浮橋(ゆめのうきはし)

 

薫は,明石の中宮より浮舟の消息を知らされて,まだ匂宮などが知らないことを確かめた上で,横川(よかわ)に僧都(そうず)を訪ねた。僧都は薫の並々ならぬ態度に浮舟の素姓を察知して驚愕し,こと細かに受戒させるまでの事情を語ったが,薫は浮舟の身の上を問う僧都にはおぼめかして詳しくは答えず,自分は浮舟が出家していると聞いて安心したと言って,母親の心配にこと寄せて僧都の尽力を乞うた。彼は浮舟に深入りして恥をかくことを恐れたのである。

東京都・徳川黎明会

 

 

 

土佐光吉と光則の『源氏物語画帖』

 

 源氏絵の永い歴史のなかで,古代~中世の伝統を近世につなぐ重要な役割を演じたのは土佐光吉(久翌(きゅうよく),1539~1613)である。各帖からの画面選択法や構図の原則には伝統を巧みに継承しながら,桃山時代の華麗な感覚を生かし,精緻な技法による細密画の源氏絵色紙のシリーズをつくり上げた。これは名流の筆になる詞書の色紙と組み合わされ豪華な画帖に仕立てられて大いに時流に投じた。絵の裏面に「久翌」墨印をもつ彼の源氏絵は幾種類も伝存しているが,代表的なものは京都国立博物館所蔵の色紙画帖2帖である6詞と絵を対ページに貼り,両帖の表裏合わせて見開き54面(色紙1枚は各縦25. 7cm, 横22. 6cm)。

しかし五十四帖を完結させず,「桐壷」から順次進んで(48)の 「早蕨」で終わり,最後の6面には「夕顔」「若紫」「末梢花」 「賢木」「花散里」「蓬生」がもう一図ずつ繰り返されるという特異な構成をとる。しかも最近修理の際裏面を検すると,「桐壷」の図から(36)の「柏木」までが「久翌」印を押されて光吉自筆と思われ,「横笛」以下「早蕨」までは印がなくて画風も異なり,最後の6図もこれと似た繊細だが構成の弱い筆致で,裏に「長次郎」という註記がある。各段の詞は後陽成天皇(1571~1617)はじめ貴紳23人の寄合書(よりあいがき)になるが,その年代から推すと,光吉としては最晩年の製作と思われるので,恐らく光吉自身は「柏木」までで絵筆がとれなくなり,後を側近の画家を指図して描かせ,さらに光吉の他界後長次郎と名のる後継者の1人が注文主の好みに合わせて繰り返しの6段を選び,図様に多少の変化を加えながら補い描いたものと推察される。

 光吉の子とも弟子ともいわれ,土佐家を継いだ光則(1583~1638)は彩色密画の方向をさらに進めて,極限に近い微細で精巧な画面をつくり上げた。尾張徳川家に伝わった『源氏物語絵詞』と題する1帖は,全60丁に絵と詞の色紙各60枚を貼り合わせたもの。色紙も縦15. 3cm, 横14. 1cmと前者より一段と小さく,しかも図様は複雑で,戸外の自然景や襖絵などにも充分な詩情を盛っている。   


桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説(2) 篠原昭二 氏著 松風(まつかぜ)~若菜(わかな)下

2024年06月09日 08時51分19秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説(2)

篠原昭二 氏著

 

松風(まつかぜ)

 

光源氏は父人道の計らいで上京し,大堰(おおい)の山荘に入った明石の君母子を見舞った。それは嵯峨の御堂とか桂の院とかさまざまに口実を設けてやっと叶った訪問であったが,女には男の誠意はそれとして,行動の不自由な男の身分と自分との違いが絶望的に思われる。人々にせかされてのあわただしい出発,乳母に抱かれて見送る姫君の愛らしさに彼は胸が一杯になって,思い乱れて几帳(きちょう)の陰に嘆きふす女に,姫君を二条院に引き取るとはついに言えなかった。

東京都・徳川黎明会

 

薄雲(うすぐも)

 

姫君を二条院へ引き取って後,光源氏は明石の君のことをつねに気にしながらも、天変地異や藤壷女院,大政大臣等の死去など公の多忙のために訪れは絶えていた。女が何故もっと気楽に東院にも住まないのかと,その誇り高い態度を身分不相応に生意気だとは思うものの,やはり人気違い山肌のわびしい暮らしには同情されて,初秋のある日,例の嵯峨の御堂の常念仏にことよせて見舞いに赴いた。明石の浦に通う大堰川の水辺の情景に,彼ら2人の不思議な因縁が思われるのだった。

京都国立博物館

 

朝顔(あさがお)

 

光源氏は父宮の薨去によって斎院より退下した朝顔の姫君を桃園の宮に訪問したが,人づての対面のみで,全く冷たい応接であった。打ちひしがれしおれて帰宅し,もの思いに寝覚めがちの一夜が明けると,朝霧の中に枯れ枯れの花にまじって朝顔の花がはかなく咲いていた。昔を知る恋しい人々が次々に亡くなって行く中で,それはかけがえのない朝顔の君を象徴しているかのようであった。彼は花につけて,せめて自分の長年の思いを哀れとは思ってくれるだろうかと,いい送った。

東京都・徳川黎明会

 

少女(おとめ)

 

四季折々の趣向をこらした六条院が完成した秋,秋好(あきこのむ)中宮はわが住む所を誇って,いろいろの花紅葉を箱の蓋に載せ,着飾った女童(めのわらわ)に持たせて,紫の上に贈った。消息には,

春を待つあなたはせめてわたしの所の紅葉を風の伝(つて)に見てください

とあった。風情あるもてなしに人々は感動し,紫の上は作り物の五葉の松にかけてなお春を待つ心を中宮に誓ったのだったが,光源氏は春の花の盛りにきっとこの返礼をと薦めたのである。人々相和す六条院の一日だった。

京都国立博物館

 

玉鬘(たまかずら)

 

年の暮れ,光源氏はあ方々に新春の晴れ着を贈るべく調えられてきた衣類を、紫の上を相手に選んでいた。紫の上は着る人によく似合うものを差し上げるように助言するのだったが,玉鬘には鮮かな赤色の衣に山吹色の細長を取り揃えて選ぶのを横目に見て,まだ見ぬその姿を想像し,父内大臣の華麗で美しくはあるがしっとりとした感じにはいささか欠けた様子に似ているのだろうかと思ってみた。光源氏は紫の上のただならぬ風情に,容貌に合ったものというのはむずかしいと言って,とりつくろった。

京都国立博物館

 

「初音」(はつね)

 

新春,光源氏が明石の姫君のもとへ年賀に赴くと,そこには明石の方(かた)から正月の祝いが届けられていて,ただ姫君の成長だけを楽しみにひっそりと暮らすわたくしに鶯の初音のようなあなたの便りが欲しいという意味の消息が添えられていた。実際,明け暮れを共にする人でさえ可変らしくて仕方のないこの姫君を,実の母として対面もかなわずに過ごすのはどんなに辛かろうと思うと,彼はわが罪の程が思いやられて心苦しく,思わず涙がこぼれそうになった。

京都国立博物館

 

胡蝶(こちょう)

 

3月20日過ぎ,春の盛りを迎えた春の町では折しも新造の龍頭鷁首(りょうとうげきす)の舟を浮かべて舟遊びが行われた。秋の町の中宮方の女房が招待され舟に乗せられた。舟は梶取りの童(わらわ)にみな角髪(みずら)を結わせるなど,すべて唐(から)風に装われて大きな池に曹ぎ出したから,慣れない女房などは異国に来たように思った。参会の貴族たちも夜更けまで歓を尽くし,仕える下人(しもびと)たちまでも,生けるかいありと思ったのだった。    

京都国立博物館

 

「螢 (ほたる)

 

募る恋心をもてあまして訪れた蛍官に,玉鬘(たまかずら)は光源氏の強いすすめで気の進まないままにやっと対面したのだったが,そこへおびただしい蛍が放たれた。にわかに明るい蛍の光に驚き,彼女は扇で顔をさし隠したが,その横顔はまことに美しい。光源氏は蛍宮に玉鬘の真の美しさを見せて,その恋心をいやが上にも惑わせてやろうと,こんなことをしたのだったが、彼女が実の娘だったらするはずのない,すきずきしいたずらであった。

京都国立博物館

 

常夏(とこなつ)

 

真夏の一日、釣殿(つりどの)に出て夕霧や彼を訪ねてきた内大臣家の君達(きんだち)と鮎などを食して暑さをしのいだ光源氏は,夕暮れ,彼らに送られて玉鬘の西の対(にしのたい)にやってきた。前栽(せんざい)には丹念に植えられた撫子が見事に咲き乱れて,彼女を実の兄嫁と知らない君達は御簾(みす)の中の女主人に,心を燃やしたが,光源氏は彼らの姿を玉鬘に見せながら,内大臣は何故夕霧をいとうのかと愚痴をこぼしていた。玉鬘には,それで光源氏と実父の不仲が知られて嘆きが加わるのだった。

東京都・徳川黎明会

 

篇火(かがりび)

 

光源氏は玉鬘(たまかずら)への執心に忍び難く,共に過ごす時間はおのずから多くなっでった.風の音もようやく秋らしい一夜,光源氏は今日も人の不審を恐れ玉鬘うながされて重たい腰をやっと上げたが,東の対に夕霧たちの楽の音を聞いて立ち止まり、重たい腰をやっと上げたが,東の対に夕霧たちの楽の音を聞いて(立ち止まり,彼らを呼び寄せ,音楽に一時を送ることにした。夕霧は盤渉(ばんしき)調に笛を調べ、弁(べんの)少将は拍子,柏木(かしわぎ)は光源氏に譲られて琴(きん)を弾じた。玉鬘は兄弟たちの演奏、と心をとめたが,彼女に懸想(けそう)する柏木は平静ではいられなかった。

東京都・徳川黎明会

 

野分(のわけ)

 

 夕霧は荒々しかった野分の翌朝,見舞いに歩く光源氏の供をして方々を巡った。玉鬘(たまかずら)の所ではねんごろな言葉に待つ時間も延びたものかと, 夕霧が簾(すだれ)をそっと引きあげてみると、そこには光源氏と彼女との、父娘間柄とは思えない馴れ馴れしくしどけない姿があった。不快ではあったが,夕暮れの中にしっとりと咲き乱れた八重山吹,といった女の風情に,夕霧は心をひかれた。見てはならぬものを見た恐ろしさに,思わず逃げ腰になる彼の背後に光源氏の女にささやく声がきこえた。

東京都・徳川黎明会

 

行幸(みゆき)

 

12月、大原野に鷹狩り行幸(みゆき)があって,大臣以下廷臣は残らず随行し,大路は見物人であふれたが,玉鬘も見物に出て,帝の立派な姿に強く心をひかれた。物忌(ものいみ)のため不参の光源氏は狩りの場に酒肴を贈ったが,帝からは蔵人(くろうど)の左衛門尉を使として,唯子(きじ)が木の枝につけられて届けられ,故事に習って太政大臣のあなたも同行してほしかったという意の歌が添えられていた。恐縮した光源氏は,昔の野の行幸にも今日ほどの盛儀ではなかったでしょうと御代をことほいだ。

京都国立博物館

 

.藤袴(ふじばかま)

 

大宮(おおみや)が死去して玉鬘は薄い鈍(にび)色の喪服を着ているが,それでかえって美しい容貌が際立つってみえる。そこへ同じく喪服の夕霧が光源氏の使で尚侍(ないしのかみ)の勅旨が下ったことを伝えに訪れた。彼は野分(のわき)の折の長髪の姿が忘れられないでいたが,血のつながる姉弟でないとわかって,わが胸の内を伝えたいと願っていた。彼は,父からの伝言を口実に,藤袴の花を贈るとみせて,簾の内に差し出した于で彼女の拍を引き熱心にかき口説いたが,彼女には急に恋人と思えるはずもなかった。

京都国立博物館

 

真木柱(まきばしら)

 

玉響(たまかずら)が髭黒(ひげくろ)のもとへ去ってから半年近くが過ぎていった。3月になり,藤や山吹の美しい風情を見るにつけ、光源氏には玉響(たまかずら)が思い出されて,主のいない西の対(たい)に1人坐って彼女を恋い忍ぶのだったが,もとより慰むはずもなかった。彼は堪え難い思いを贈り物に託し,父親らしい言葉を連ねて彼女に贈ったが,聚黒もそれを見て,妻となった女には実父とて気ままには会えないのに,なぜこの大臣は諦めずに言い寄るのかと,憎々しく討うのだった。

東京都・徳川黎明会

 

梅枝(うめがえ)

 

六条院は明石の姫君の裳着,そしてそれに続く入内(じゅだい)のため大わらわであった。光源氏は一人娘のために全霊を打ち込んでいた。2月10日,紅梅が咲き匂い少々の雨にしっとりと落ち着いた日,螢宮(ほたるのみや)が訪れてきて花をめで,開方山話に興じているところへ,朝顔の宮から優雅に取りつくろって薫(たき)物が届けられた。文には自分の老いを卑下して姫君を祝福してあったが、このような折の趣味の高さはなお当代第一の人で,光源氏は彼女に,特に調合を依頼してあったのである。

東京都・徳川黎明会

 

藤裏葉(ふじのうらば)

 

内大臣邸に催された藤花の宴の夜、招かれて出席したタ霧は,晴れて雲居雅(くもいのかり)と結ばれて得意の絶頂にあった。それは積年の恋人を得たことだけではなく,内大臣らに対する己れの忍片の勝利をも意味していたからである。しかし後朝(きぬぎぬ)の文には,彼は作法通りに打ち解けぬ女の態度を怨む体(てい)に書き記したので,待ちかねて娘と其にそれを見た内大臣も満足の微笑をしたが,そこには彼らの結婚を妨げていた昔日の面影の名残りはなかった。

東京都・徳川黎明会

 

若菜(わかな)上

 

花が雪のように舞う春のタ暮れ,六条院の人々は蹴鞠(けまり)に興じていた。階 (きざはし)に腰をドろして一休みする柏木(かしわぎ)が女三の宮のいる辺りに目をやると,折しも描が飛び出し,付け紐で持ち土げられた簾の端から、内部が見通された。几帳の際に立つ小味(こうちき)姿の女はまさしく女モの宮である。小柄で髪のふさやかな,いい知れぬほど高貴で愛らしい姿に柏木は胸もつぶれる思いだったが,わが身のみ立つ場を思い,かわいげに鳴く猫を招き寄せてやるぜなさを慰めるしかなかった。

京都国立博物館

 

若菜(わかな)下

 

柏木は手を回して女三の宮の飼い猫を手に入れ,日も夜もそれを愛撫して時を過ごす。ようやく馴れた描は,恋の病に悄然として臥す柏木に身をすり寄せて,にょうにょうと鳴き声をたてるのだったが,柏木にはそれが「寝よう寝よう」と言っているように聞こえた。恋しい人の形見であるお前がなんで恋い患うわたしに寝ようなどと言うのかと描に問えば,描はますますかわい気に鳴くのだった。

京都国立博物館

 


桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説 篠原昭二 氏著 光源氏の出発~朝顔

2024年06月09日 08時49分31秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説

篠原昭二 氏著

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

光源氏の出発

 

光の出現

 

ある帝(みかど)の御代……後宮に仕える多くの妃たちのなかに、低い身分ながら際だって帝の深寵愛を蒙る更衣(こうい)がいた。身分の高い女御たち、また同輩の更衣たちの憎悪と嫉妬とが集中するのは当然であろう。更衣は心労の絶えぬ日々を過ごしていた。しかし宿世の因縁というべきか、更衣はこの世のものとは思えぬ玉のごとくに美しい皇子を生んだ。この物語の主人公、光る君である。

 皇子の母となった更衣に対する帝の愛はますます深く、ために周囲の迫害も異常の度を加えた。更衣の局(つぼね)の桐壷(きりつぼ)は清涼殿(せいりょうでん)からは遠く、参上する道々、さまざまの陰湿ないやがらせが待ち受けていたので、彼女は堪えがたい屈辱と脅えに惟悴(しょうすい)した。これをいたわる帝は、その局を近くの後涼殿(こうりょうでん)に移したりしたが、それがまた他の夫人たちの恨みを倍加させたのである。

 

桐壺 きりつぼ

 

「桐壷」(きりつぼ)……帝は7歳になって学問を始める。神才ぶりを発揮する光源氏を高麗(こま)から訪れた高名な人相見に会わせるために,鴻櫨館(こうろかん・外国使臣を接待するための施設)に遣わした。相人(そうにん)は頭を傾けながら光源氏の数奇な運命を予言し,たまさかに彼のような運勢を持つ人間に会いえた喜びと,そしてすぐに別れなくてはならない悲しみとを詩に歌った。光源氏もまた感興深く感じて,詩を作って和した。

東京都国立博物館

 

帯木 ははきぎ

 

「帚木」(ははきぎ)……五月雨のしとしとと降る夜,桐壷に宿直(とのい)する光源氏のもとに親友で義兄にもあたる頭(とうの)中将が訪ねてくる。好色者(すきもの)の彼は厨子(ずし)棚からさまざまな女手の消息を取り出し,これはあの人,などとあて推量に言うので光源氏は取り隠し,君の所に届いているものも見せるならこれも見せよう,などといって2人の話題が女性談義に移っていくころ、折よく左馬頭と藤式部丞が参上してきた。

東京都・徳川黎明会

 

★この『源氏物語画帖』は,

京都国立博物館蔵のものが土佐光吉ほか筆、徳川黎明会蔵のものが土佐光則筆である。

 

空蝉 からせみ

 

「空蝉」(うつせみ)……心を許さない空蝉に業(ごう)をにやした光源氏は弟の小君に手引きさせて、その寝所に忍び込もうと,中川辺りの邸にやってきた。のぞくと2人の女が熱心に碁を打っている。横を向いた方が空蝉で,そそとした風情に慎ましい動作,いかにもたしなみのほどがうかがわれる。真正面を向いた相手の女は暑さに小袿(こうちき)を形ばかり着て腰紐の辺りまで胸もあらわである。目鼻立ちのはっきりした大柄の美人であるが,彼にはこのにぎやかな美人よりは,はれぼったい目をしたやや地味な空蝉の方が好もしく思われた。

京都国政博物館

 

「夕顔」(ゆうがお)

 

光源氏はやっとの思いで六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)をわがものとしたのだったが,その後はさほどご執心とは見えなかった。たまさかに訪れた秋の後朝(きぬぎぬ),帰っていく彼を御息所はわずかに頭をあげて見守るのだったが,咲き乱れた前栽(せんざい)の草花の風情に足を止めた彼の目には,見送りに出た中将の御許(おもと)の析にあった紫苑色の羅(うすもの)の裳を着けた腰つきのなまめかしさが見過ごし難く,隅の勾欄(こうらん)に引きすえて恋の思いを訴えた。庭には朝霧の晴れ間を待たぬ朝顔が咲いていた。

京都国立博物館

 

「若紫」(わかむらさき)

 

北山の僧庵。昼間見た由緒ありげなたたずまいにひかれて,光源氏は夕暮れの霞に紛れて立ちのぞき,心に聯も忘れることのない藤壷女御(ふじつぼのにょうご)に酷似する10歳ほどの少女を発見した。ともに遊ぶ子だちとは似るべくもなく,成長した姿の美しさが思いやられて,かわいらしい顔立ちであった。

京都国立博物館

 

末摘花 すえつむはな

 

十六夜(いざよい)の月の明るい早春の一夜,光源氏はかねて大輔の命婦(みょうぶ)に吹きこまれていた常陸官(ひたちのみや)の姫君のうわさにつられて官邸を訪れた。しかし姫君の琴(きん)の音ばかりはわずかに干引きの命婦の機転で耳にすることができたが,もの深い宮家の姫君にそれ以上近づくことはかなわなかった。少しでも気配をうかがおうと透垣(すいがい)のもとに立ち寄るとそこには先客があった。一緒に宮中を出たはずの頭(とうの)中将である。彼はいたずら心から光源氏の恋の現場を押さえようとしてぃたのである。

京都国府専物館

 

「紅葉賀|(もみじのが)

 

光源氏は藤壷へのかなわぬ思いを二条院に引き取った紫の上によってわずかに慰めていたが,乳母(めのと)の少納言はそうした彼の手厚い待遇を受ける幸運を仏の加護かとさえ思った。しかし当の紫の上は幼く無邪気なばかりで、雛(ひいな)遊びなどに夢中で,正月,朝拝のために参内する光源氏を彼女は見送ると早速,雛の中に光源氏を見立てて参内させたりして遊んでいる。少納言は夫を持つ人はもっと大人にならなければ,などと意見したが、紫の上にはそれがどういうことなのか,まだわからなかった。

東京都・徳川黎明会

 

「花宴」(はなのえん)

 

2月20日ごろ、紫宸殿(ししんでん)に桜花の宴が催され,光源氏は人々の新望により「春鶯囀」(しゅんおうてん)の一節を舞った。月光のもと,宴の名残の尽きない宮廷を彼は藤壺中宮を求めてさまよい歩くうち,弘徽殿(こきでん)の細殿(ほそどの)に紛れこんだ。すると若く趣があって,とても並みの人とは思えない声で「朧月夜に似るものぞなき」と吟誦しながらやって来る女に出会った。一夜の契り交わした2人は,扇を記念に取り交わして別れたが、女は東宮妃に予定された右大臣家の姫君だった。

京都国立博物館

 

「葵」(あおい)

 

光源氏に憧れて集まり寄った祭の群衆の雑踏の中にあって,その光源氏との愛に悩みながら六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は慎ましく人目を避けて,一目でも男の晴れ姿を見ようと行列を待っている。そこへ左大臣家の威光を笠に着た葵の上こ一行がやってきて,たちまちに修羅場が現出する。わめき叫ぶ男達の声は身分や教養の故に自らの真実を胸中深く隠さざるをえない女主人の内面の悲鳴であると聞くこともできる。

京都国立博物館

 

「賢木」(さかき)

 

あわれ深い晩秋の野営(ののみや)に光源氏は伊勢下向を句日にひかえた六条御息所を見舞った。生害事件の後,男の態度にその冷えきった心を知って,女はわが執着を断つためにもと別離を決意したのであったが、男を目前にしてしみじみとしたやさしい言葉に接すると,さすがに心はあやしく揺れた。男も薄情であると恨みを買ったまま別れるに忍びず,女を慰めるために訪れたのだったが,深い教養によって洗練された女に接してみると,過ぎた月日を取り戻したいと思うのだった。

京都国立博物館

 

[花散里」(はなちるさと)

 

弘徽殿人后に(こきでんのおおぎさき)方の圧迫がますます露骨になって行き,光源氏は世の中の何もかもが厭になったが,また昔を恋うる気持も抑えがたく湧きおこって,五月雨の晴れ間,花散里を訪れた。姉は桐壷院の女御(にょうご)で姉は彼の愛人であるが、光源氏の援助によってひっそりと暮らしていた。彼にとっては心を開いて語り合えるわずかに残った人達である。二十日の月がれるほど,「昔の人の袖の香ぞする」と歌われた橘が香り,ほととぎすが喝いて渡った。

東京都・徳川黎明会

 

 

須磨 (すま)

 

須磨退居を前に、光源氏は別れの挨拶のために人目を忍びつつ左大臣や藤壷女院を訪れたが、彼の援助によってようやく暮らしを立てている花散里の心細げな様子も気の毒で、いま一度会うこともなく旅立ってしまったら悲しみも大きかろうと、多忙な特をさいて訪れた。しみじみとした月光のもと、たとえようもない光源氏の訪問を、花散里は少し端近くいざり出て迎えたが,ともに月を眺めるうちにはかなく明方近くなってしまった。別れを惜しむことさえままにならず,涙顔の花散里に対して、かえって光源氏が慰めの言葉をかけるのだった。

  東京都・徳川黎明会

 

「明石」(あかし)

 

 初夏ののどかな夕月夜、明石の浦のの住居から見渡される海面に、光源氏は都のわが邸の池が思われて言いようもなく恋しく,久しく手にしなかった琴(きん)を取り出して奏した。悲涙をしぼる琴の音を遠く耳にした明石の人道も堪えられずに、勤行もそこそこに訪れてきた。2人は互いに琵琶や筝(そう)の琴を奏して心を慰め、音楽談義に夜は更けていったが、醍醐天皇より伝えたという人道の手(演奏)より上手という娘の噂に、彼は心をひかれた。       

東京都国立専物館

 

澪標(みおつくし)

 

光源氏は願果たしのために住吉明神に詣でた。折しも例によって詣でた明石の君は松原の深緑の中に花紅葉を散らしたかに見える一行の華麗な栄えある様子に、取るに足りないわが身のほどを思い知らされることになった。かしずきたてられた夕霧に比して,光源氏の子ともまだ認められないわが腹の子を思うと、女は,言いようもなく悲しく,一行を避けて,参詣も延引したのだった

京都国立博物館

 

蓬生(よもぎう)

 

 光源氏が流滴(るたく)生活を送る間、頼る人のない水滴花(すえつむはな)の生活は困窮の一途をたどっていた,それでも彼女は光源氏を信じて待っていたのだが、彼は帰京しても彼女を訪れることはなかった。忘れていたのである。帰京した翌年の四月,花里散邸へ赴く途中、彼は見覚えのある邸宅の前を通りかかり,供の惟兄(これみつ)に問わせると、荒れきった邸内に末摘花が咲いていたのだった。兄源氏はわが心の情なさが思い知られて、生い茂った草の露もいとわず中に入って女を慰めた。

京都国立博物館

 

関屋(せきや)

 

空蝉(うっせみ)は夫に伴われ,任国常陸(ひたち)におり,光源氏との音信も長く途絶えたままになっていた。彼らが任果てて上京の途次,逢坂山を越えるころ偶然に石山詣に赴く光源氏の一行に出会った。

秋も末,さまざまに紅葉した樹々の間に車を立てて道をさける空蝉の一行を,光源氏は深い感慨をもって見たが,人前のこととて意を伝えるすべもなかった。女も昔のことを忘れずにいたから,御簾(みす)に隠れて前を渡る彼の姿に,人知れず懐旧の涙に頬をぬらすのだった。

京都国立博物館

 

絵合(えあわせ)

 

3月下句、清涼殿におぃて絵合が催された。左方は光源氏の後見する斎宮女御 (さいぐうのにょうど),右方は権(ごん)中納言の後見する弘徽殿(こきでんの)女御で,判者は螢宮(ほたるのみや)である。藤壷女院も出席して,双方趣向をこらしたこの盛儀は光源氏の流滴(るたく)生活を描いた絵日記によって左方の勝ちとなった。当代の栄えが結局は彼の,自分を犠牲にした忍苦によってもたらされたものである限り,光源氏方の人々の感涙は当然のこと,相手方の中納言も認めざるをえなかったのである。

京都国立博物館

 

松風(まつかぜ)

 

光源氏は父人道の計らいで上京し,大堰(おおい)の山荘に入った明石の君母子を見舞った。それは嵯峨の御堂とか桂の院とかさまざまに口実を設けてやっと叶った訪問であったが,女には男の誠意はそれとして,行動の不自由な男の身分と自分との違いが絶望的に思われる。人々にせかされてのあわただしい出発,乳母に抱かれて見送る姫君の愛らしさに彼は胸が一杯になって,思い乱れて几帳(きちょう)の陰に嘆きふす女に,姫君を二条院に引き取るとはついに言えなかった。

東京都・徳川黎明会

 

薄雲(うすぐも)

 

姫君を二条院へ引き取って後,光源氏は明石の君のことをつねに気にしながらも、天変地異や藤壷女院,大政大臣等の死去など公の多忙のために訪れは絶えていた。女が何故もっと気楽に東院にも住まないのかと,その誇り高い態度を身分不相応に生意気だとは思うものの,やはり人気違い山肌のわびしい暮らしには同情されて,初秋のある日,例の嵯峨の御堂の常念仏にことよせて見舞いに赴いた。明石の浦に通う大堰川の水辺の情景に,彼ら2人の不思議な因縁が思われるのだった。

京都国立博物館

 

朝顔(あさがお)

 

光源氏は父宮の薨去によって斎院より退下した朝顔の姫君を桃園の宮に訪問したが,人づての対面のみで,全く冷たい応接であった。打ちひしがれしおれて帰宅し,もの思いに寝覚めがちの一夜が明けると,朝霧の中に枯れ枯れの花にまじって朝顔の花がはかなく咲いていた。昔を知る恋しい人々が次々に亡くなって行く中で,それはかけがえのない朝顔の君を象徴しているかのようであった。彼は花につけて,せめて自分の長年の思いを哀れとは思ってくれるだろうかと,いい送った。

東京都・徳川黎明会


素堂の教養

2024年06月09日 08時40分47秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

   乾坤の外家もがな冬ごもり   (『六百番発句合』)

この句は、「壷中ノ天地ハ乾坤ノ外夢ノ裡ノ身名ハ旦暮ノ間」(『和漢朗詠集』)によっている。

仙人壷公の壷の中にひらけた神仙の世界は、人間を超えた別世界だし、かの邯鄲(かんたん)で盧生が見た夢のように人間の栄華も名声も、まことに朝に夕を待ちえないはかないものだ、というのが、詩句の意味である。素堂は

「自分の住んでいるこの俗塵にまみれた世界の外に家が得られればよいがな----、折から冬籠りのことだし、その家に閑じ寵って閑静な自適な生活をしたいものだ」と吟じたのである。これだけでも一応の句意の理解はできるであろうが『荘子』に心を傾けていた延宝五年ごろの吟であるから、その「大宗師篇」で孔子が道家の道を知っている人たちを批評している言葉を重ね合わせると、発句も充実して理解できるように思う。すなわち彼等は世俗の礼教規範の外に生活する者だ。

……天地創造の絶対者を友とし、一切万物がそれにて生滅変化する宇宙的原質----に乗って宇宙をゆったりと

歩くような人物だ。……一切の人間な思慮分別を捨てて、ただ無念で俗塵の世の外にさまよい、あるがままの自然に身を任せてとらわれない自由を逍遥するのだ。」という生き方を願っている素堂を想像するのである。こうした思想が長崎旅行後彼を不忍池のほとりに隠居させたと考えるのである。

 

素堂の『荘子』受容は、それと内的なかかわりをもって営まれた閑静と隠逸の生活に惨み込み、その生活に即して作品が作られるのである。談林俳諧はの寓言説は、句の表現の奇抜さが目立ち、延宝八年の『桃青門弟独吟二十歌仙』も寓言の表現方法の中に内止まったのに対し、

素堂の場合は、老荘思想が人生態度として、内面化し、風詠の対象を実感を捉えて描写しているその点で芭蕉よりも前進していたと認めることができる。

 

素堂の高野幽山の『俳枕』序文

 

素堂は延宝八年(一六八〇)に、高野幽山の『俳枕』に序文を記しているが、それは素堂の文芸精神を理解する上に欠かせない資料である。

 

つたへ聞くに司馬遷は史記の構想を立てるために三度五岳に登ったという。杜甫や李白たちも遠く廬山に遊んだり洞庭湖にさまよったりした。その外日本の昔の円位法師、中頃の宗祇・肖柏も朝顔の庵や牡丹の園にとどまることなく、野山に暮して鴨の声をめで、尺八をあわれんだ。これらの行為は皆この道の精神なのだ。(口語訳)

 

 右の文章から二つの点を指摘できよう。その一つは司馬遷・杜甫・李白・西行・宗祇・肖柏らが旅することによって自然に直接ふれ、その感動が漢詩・和歌・連歌などを生んだのであるという指摘である。その二は、漢詩も和歌も連歌をも「この道」ということばで概括している点である。素堂の序文は司馬遷を入れることやその叙述に精密さを欠く弱点はあるが、貞享四年(一六八七)から翌年にわたる旅の後、芭蕉が記した『笈の小文』の次の一節に比べると、芭蕉の先駆をしていると言えるではないだろうか。

 

芭蕉『笈の小文』 

 

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫通する物は一な

り。しかも風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす。

(口語訳)

西行が和歌の道でしたこと、宗祇が連歌の道でしたこと、雪舟が絵の道でしたこと、利休が茶の道でしたこ 

と、それぞれの携わった道は違うが、それらの人々の芸道の根底を貫いているものは同一である。ところで、 

俳諧というものは天地自然に則って(のっとって)、春夏秋冬の移り変わりを友とするものである。

 

芭蕉は四人の芸術家の歩んだ道から、それらの根底を貫いている「造化にしたがい四時を友とする」という生き方を学び、それを旅することによって身につけ、蕉風俳諧として確立したのである。

 

素堂の『誹枕』の序においての第一声が芭蕉の俳諧観の上に具体化したように思われる。

            

『虚栗』・『続虚栗』に於ける素堂

素堂の其角編の『虚栗』(天和三年刊)同『続虚栗』(貞享四年刊)は、俳壇の苦悩をつぶさに背負っていた。『虚栗』には素堂の「荷興十唱」があり、『続虚栗』には素堂の序が寄せられている。特に素堂の序は俳壇に大きな影響を与えたと思われる。まず、素堂の漢詩調の句を見るために、「荷興十唱」の最初の句を挙げてみよう。             

   浮葉巻葉此の蓮風情過ぎたらむ                                                    

素堂の教えを受けた山口黒露は、素堂が不忍池のほとりに隠居したのは、蓮の君子に比べらられのを愛した故であると述べている。(略)兵貞享二年夏を過ぎて葛飾の阿武に移り住んだが、庭に池を掘って白蓮を憶えた。彼の蓮に対する愛情には、清きもの・静かなもの・純なるものに対する好みが本質的にあったようである。この句にも漢詩漢文的な調べと高踏的な趣味が漂っている。談林俳諧の行詰った句風を一新した功は少なくない。

また、「続虚栗」の序においては、当時の俳諧が、ただ対象を写しているだけで、作者の感情がこめられている作品か少ないと批判し、景情の融合の重要さを力説している。

古人いへることあり、景の中に情をふくむと。から歌にていはば、「花を穿つ蛺蝶深々として見え水に点する

蜻蛺款々(せいていくわんくわん)として飛ぶ。」これこてふとかげろふは所を得たれども、老杜は他国にあ

りてやすからぬ心となり。まこと景の中に情を含むものかな。やまとうたかくぞあるべき。

 

引用されている漢詩は杜甫の「曲江二首」の第二の詩の二行である。峡蝶はあげは蝶、蜻峡ほとんぼうであると今はされている。

素堂は花弁に深々と頭を入れて蜜を吸ふ蝶や水面を尻でたたきながらとんぼうがゆるやかに飛んでいる景色を、平和な春たけなわな世界とし、それにもかかわらず戦乱のため杜甫は他国に流浪し、家族とも連絡し得ない不安な心境であることを余情とし感じ取っているのである。景色を表現しつつ、それが作者の生命の感情を含んでいてこそ、詩でありやまと歌であり、また俳諧でなければならないと説いているのである。漢学に通じた上、漢詩人でもあった素堂の詩観の確立している点を理解することができる。右の詩の素材に関連した芭蕉の発句をあげると次のような句がある。

牡丹蘂(しべ)ふかく分出る蜂の名残哉(『甲子吟行』)芭蕉が執州田の門人桐葉の許に宿り、江戸に向けて帰ろうとする折の別れの句である。厚いもてなしに感謝する情が十分に表されている。

蜻蛺(とんぼう)やとりつきかねし草の上(『瓜畑集』)

とんぼうの草にとまろうとする瞬間のこまやかな動きを捉えた繊細な写生の奥に、何とも言えない重大なものがこめられているのを感じる。このように見ると、景情融合の主張が蕉風確立に大きく寄与していることが推定されるであろう。

素堂は、『続虚栗』の序文では、この景情一致の外、「終(つい)の花」つまり不易の美を求めるべきことを論じ、結びとして次のように述べている。

われ、わかかりしころ、狂句をこのみて今猶折にふれてわすれぬものゆゑ、そぞろに弁をつひやす。君みずや、

漆園の書、「いふものはしらず。」と。我知らざるによりいふならし。

 

漆園の書は『荘子』のことで、その『荘子』にある「いふものはしらず。」というのは、荘子の説く無為自然の道はことばではとらえることができないので「本当に道を知っている人はことばで説明しょうとはしない、それだのにことばであれこれ、と言うものは、本当こ道を知っていないからである。」という意味である。荘子の道に徹して来た素堂は、自分の俳諧観を反省し若き日の作為よりも自然のままの美に眼を開けてきて、そこに景情一致の世界を創り出すに至った。単なる奇抜さを追うことから真実の美----不易の美を求めるようになった。理論だけでなく実作に、次のような格調の高い作品が生まれている。

 市に入てしばし心を師走かな      (『歳旦帖』)

 雨の蛙声高になるも哀哉        (『蛙合』)

春もはや山吹白苣(ちさ)苦(にが)し (『続虚粟』)

芭蕉いづれ根笹に霜の花盛          々

年の一夜王子の狐見にゆかん         々

これらの句は、芭蕉の当時の句にも決して劣らない。貞享末年ごろは蕉風形成の時代で芭蕉が学識が高く、俳歴も長く声望もある素堂の支援を得たことは、芭蕉に蕉風俳諧への自信とと勇気を与えたこと甚大であった。

ところで芭蕉は俳諧に対し強烈な情熱を持ち、俳諧のためには路傍に死んでもという打ち込み方で、旅から旅へと新しさを求め、宗匠として生き通した。素堂は穏士として閑寂を愛し、俳諧も一余技として執着を持たなかった。そこに二人の作品の相違が現れる。


素堂と俳諧 季吟 宗因

2024年06月09日 08時37分10秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

さて、素堂が俳諧に進出する素地は林門に有った。この中には俳諧の流れがあり、和漢聯句が盛んであった。また素堂が内藤風虎と接触するのは、玄札・未得・加友等との接触に並行するものと考えられる。つまり、素堂が俳諧に手を染めるのは廿六才辺り、これ以前を想定するには、季吟・垂頼の集や玄札・未得・立圃等の集に登場しなければならない。内藤風虎関係の俳人は上記五人の外に宗因・西武等が居り、何れの句集にも素堂の初号信章は出て来ない。して見ると前出七人と接触は無かったと見る事も出来るし、接触はあったが、投句はなかったとも言える。

素堂の親しき友人、芭蕉が宗房として登場するのが、寛文四年の重頼の『佐夜中山集』(九月廿六日奥)からで、蝉吟(芭蕉の上司)・一笑(窪田六兵衛、商人)と入集。蝉吟・一笑と季吟との関係は寛文四年以降の事である。これは季吟・重頼のパトロン競争もあり、確実なところは寛文五年十一月十三日の蝉吟主催『貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧」であろう。宗房と季吟は大方の研究で寛文六年五月以降である。

寛文六年の風虎撰「夜の錦」への入集であるが、宗房の場合は季吟より重頼の推薦が強かったと考えられる。それは風虎の周辺を見れば理解できる。風虎と垂頼・季吟との関係は寛文以前に始まり、宗因も招請により寛文二年の磐城訪問、四年二月の再訪と続き、この時宗因の門人松山玖也(延宝四年没)が代役として「夜の錦」の編纂を助け、引き続き寛文八年から廷宝二年の「桜川」編纂にも携わった。重頼の場合は寛文五年秋の訪問と、手紙による応答と続き、延宝二年には風虎に「俳諧会法」を著述するなど密接であった。

宗房(芭蕉)と季吟の関係が成立するのは、寛文七年の潮春(季吟の子息)撰『続山井』(十月十八日奥)頃からで、この撰集より少し前に季吟に師事したと思われる。勿論、浪人してと云う事ではない。それ以前となると流動的で、重頼とも関わりが有ったとも見られる。

信章(素堂)の場合は、『夜の錦』に入集が無いと云う事であり、俳諧の面から見ると寛文七年に、季吟とも繋がりを持つ加友撰「伊勢踊」に、江戸山口信章で登場する事は前に述べた。以後石田末琢(未得の息)の『一本草』(九年)(未得はこの年没)立儀の「女夫草」(十三年)そして突然に、延宝二年十一月廿三日に季吟との句会が京都で行われたのである。

西山宗因とは年次不詳だが、難波において句会を持っており、延宝三年の江戸での『宗因歓迎百韻』以外にも宗因と会っており、その仲介として考えられるのは、「桜川集」編纂

で江戸に来ていた松山玖也が浮かぶ。つまり風虎の溜池葵橋のサロンと云う事になる。この面から見れば『夜の錦集』に山口信章で人集していなくても不自然では無く、信章名でサロン入りした年次は、寛文八・九年頃とすれば安定するのである。以後の素堂は勤めの傍ら、俳諧に熱中して行くが、その行動パダーンを見て行くと、毎年あるいは隔年で江戸と上方を往来しており、延宝二年の次は三年の夏から冬、四年夏、五年、六年の夏から七年の初夏。そして秋には致任して、上野への退隠と云う経過を辿っている。これから見ると素堂の行動は、勤めを疎かにせず、その余暇を十二分に利用しながら俳諧の世界に浸っていたものと見られる。