俳諧誌上の人々 榎本其角 えのもときかく
『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著
昭和7年11月発行 俳書堂
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
草庵に樋梗あり
門人に其角、嵐雪あり
と師の芭蕉から鍾愛された其角は、寛文元年(1667)丑七月十七日、江戸日本橋堀江町に生れた。
父、東順は竹下氏近江堅田の人、堅田の榎本氏の女を娶り、榎本氏を冒すに至つたと云へば、養子したものではあるまいか。医を業として本多下野守から扶持せられ、安穏な生活をしてゐたのであるが、何れり年か江戸に移り堀江町にト居した。この堀江町の寓居に其角が生れたのである。
其角の門人淡々が、其角十七回忌に上梓した「十七囘」には、其角の自伝が収録されて居る、
傅記的文献として最も精確なものであるから、それに準拠して此の小傅を立てる事とする。
其角の父も母も文雅の嗜みがあった、この父母の雅懐に養はれた渠は、九歳り時、
馬なればいかほど跳ねん丑の年
さてもはねたり寛ン文ン元ン年シ
と口吟した。この歌は略年譜の九歳の條に記入してあるが、『ト養狂歌集拾位』にある歌であるから、其角角が何気なく手録しておいたものを、『みゝな草』の著者などは其角の自詠であると云って居るのであらうとの説もある。
「十歳入学大圓寺、十四歳於堀江町本草綱目寫、修治、主治、発明」とある。
十歳から大圓寺に寺小屋生活をなし、十四歳のには父の業を継ぐべく、医書を勉強しかけたものである。
「本草綱目」は明の李時珍の著薬物学の書で五十巻ある。「五元集」に
父が医師師なれば
鰒(ふぐ)汁に又本草のはなしかな
とあるのは、此頃の回想であろう。
十五歳、内経素本、易経素本寫。
蒲生五郎兵衛需にて伊勢物所書之、右表紙出来、
本多下野守殿へ献之、右之御褒美として刀申請候
とある、「内経」は支那古代の医書、易経などと共に、その白文を筆寫したものらしい。また、渠は俳壇
屈指の能筆家であるが、十五歳の頃既に能書の名が聞えて居たものである。
十六歳、草刈三越講筵、服部平助撰述。
十七歳、桃青廿歌仙。
三越は医学者で通称永伯。平助字は紹卿、将軍家宜の侍講を勤めた儒者、それらの講義を聞き、尚この時代に圓覺寺の大嶺和尚に詩や易を學んで居る。「桃青門弟獨吟二十歌仙」の版行されたのは延宝八年(1680)であるが、その歌仙の巻かれたのは、其角十七歳の延賓五年(1677)である事が知られる。渠の作は地の巻第四番目にあり。
脈を東籬の下にとって本草に對すと美子か薬もいまたうつけを治せず
月花ニ医ス閑素幽栖の野巫の子有
と冒頭にあって、当時早くも自分の生活な詠んで居るようである。「桃青門弟廿歌仙」より一年前の延宝七年に梓行された、才麿の「俳諧板東太郎」に
朝鮮の妹や摘らん紫人參
なら茶の詩さこそ廬同も雪のはて
雁虎蟲とばかり思ふて暮けり暮
など入集して居る、板本に見える渠の作の最初のものかと思はれる。いったいはいっ芭蕉の門に入ったかといふに、芭蕉がはじめて江戸に来たのが寛文十二年、種々の文獣によれば延宝二年十四歳で入門したらしい。元禄十四年まで年譜を自ら認めて、芭蕉に入門した年を記録してゐないのは、後の研究者には物足りない気がする。
天和元年(1681)年 二十一歳には桃青、其角、才麿、揚水の四人で著した「次韻」、言水の「東日記」等が上梓された。当時既に俳人として書家として、一家をなして居たらしく、「東日記」二巻は其角の筆蹟をそのままに用い、渠の発句は廿八句入集して居る。天和三年には堀江町から、芝の金地院前に移り、「虚栗」「新二百韻」等の編著があった。
父の東順は六十歳限り、医業を脱して文筆に親しんだといふ、東順の六十歳は天和二年に當る、其角は医名を順哲と呼んでゐたが、果して医業に携ったものか、明らかでない。想ふに、東順 其角の父子は天和二年の頃、百味箪笥を抛(ほお)り出し、其角は俳諧専門家として立つ事になり、芝へ移ったものではあるまいか。天馬行空的の渠の性格はこの頃から発揮し、酒を被り高楼に放吟するなど、いよいよ磊落(らいらく)放縦な生活は、渠をして短命に終らしめたかの感がある、仔細らしく坊主頭を傾けて、医業に邁進していたら、或は長命したであろうが、榎本順哲老で医人伝の一頁を占め得るや否や覚束ない。
「無窮の壽を保たん事を要す、著者須らく書に托すべし」
といふ古人の言が思い出される。
芭蕉は其角の大酒を戒めるため、飲酒一枚起請の寫しを渠に附贈った事がある。
右飲酒一枚起請は、尊重親王御作の由承候、
さる人の許には鰐筆にて懸物にして、
床に掛り在候餘り/\面白き御作故、
ちよと寫し来候、貴丈常に大酒をせられ候故、
此御文句を心して、大酒は御無用に存候、仍一句
朝顔に我は飯くふ男かな はせを
元禄時代の或る一面は、紀伊国屋文左衛門、奈良茂、其角、一蝶、佐々木文山、柏筵等が代表するやの観がある。記文、奈良茂は豪富の商人、遊里に驕りて金銭を土芥の如く消費した。其角。文山、一蝶等に顕門富豪に夤祿(いんろく)して、花柳の巷に放浪し風騒を助けた。柏菰(市川団十郎)は荒事師の本家、また文事あって其角に相親しみ多くの俳優の中に蔪然頭角をあらはしていた。
而して豪遊一世を驚かした紀文は、俳諧に千山と號し、其角の門人、また其角の保護者にして且つ遊び仲間であった、渠は一蝶と共に常に其の宴席に侍してゐたようである。
暁の反吐はとなりかほとゝきす
大酒に起てものうき袷かな
酔登二階
酒の瀑布冷麦の九天より落るらん
酒仙其角の面目を髣髴(ほうふつ)たしめる句は多くある、又、嗜好としては鮓好であった事が、渠の
僕にして俳句をやり、後医道に入った是橘が
わが檀那鮓をこのみてくはれければ
しらせばや蓼くふ蟲にすしの味
といふ句な作りて居る事によって知られる。渠はまた泥を一蝶に學んだ。一蝶は狩野安信の門人であるが、才気煥発、師家の規矩を守る事をなさず、安信の門な斥けられ、自ら一流を開かんとしたものである。
其角は性格豪放、その俳諧には江戸兒気象の顕れたものがすくなくない。また鬼面人を嚇(おど)すようなもの、難解のものも少なくないが、画は俳諧矛ほど豪勁(ごうけい)で至極落ち着いた作を見せている。
お汁粉を還城楽のたもと哉
饅頭で人をたづねよ山桜
意馬心猿の解
立馬の日は猿の華心
いさよひや龍眼肉のから衣
軍兵を炭團でまつや雲礫
前書略
土手の馬くはんを無下に菜つみ哉
接木を畫て
来ませる申継とや見えつらん
これ等は謎の句、難解の句と称される側のものである。
鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春
猫の子のくんずほくれつ胡蝶哉
雛のさま宮腹/\にまし/\ける
明星や櫻さだめん山かつら
子規一二の橋の夜明かな
越後屋にきぬさく音や子規
うの花やいつれの御所の加茂桜
笋(たけのこ)や丈山などの鎗の鞘
鎌倉やむかしの角の蝸牛(かたつむり)
水うてや蝶も雀もぬるゝ程
鶏頭や松にならびの清閑寺
秋の空尾上の杉をはなれたり
背面達摩の贅
武帝には留守と答へよ秋の風
むら時雨三輪の近路たづねけり
からびたる三井の仁王や冬木立
鹽擔子(しおくみ)や投てたゆたふ磯鵆
これらの句は、一読清新り感にうたれ、人をして豁達(かったつ)ならしむるものがある。
其角の逸話として最著名ものは、「雨乞い」と「赤穂義士」に関するものであろう。
「五元集」に
牛島三遶の神前にて雨乞いする者にかはりて
夕立や田を見めぐりの神ならは
圍の句がある、そして句の次に「翌日雨降る」と書いて居る。「近世奇跡考]によれば、
元禄六年午六月廿八日、渠が隅田川に舟遊びせし行、
三圍社頭に雨乞する者の請にまかせて詠んだところ、
翌日雨が降つたといふ。
義士闘係の逸話は、両国橋上、煤竹売りの子葉(大高源吾)との邂逅は桃中軒に任せておく事とし、討入の晩、吉良家の隣の土屋邸に居て、てこれまた子葉との邂逅、君時の状況を秋田の文鮮へ報じた書簡は、百歳の下尚儒夫を起たしむるほど痛快な光景を、目のあたり見るやうな文章である。
歳暮の為御壽例の如く遠来の處、酒量一封、
蕗漬一桶被贈下、御厚志の程幾久敷致受納候、
御序御家内はじめ御社中にも宜敷御傳可被下候
しかれば去十四日、本所都文公に於て忘年の一興御催有
嵐雪、杉風予等も出店にて、折柄雪雨白く降出し、風情手にとる如く、
庭中の松杉はゆきをいただき、雪間の月は暗を照し、風興今は難捨と、
夜いたく更ゆくまゝもはや丑みつ頃に成行き、犬さへ吠えず打しづまり、
文臺料紙もおしかたよせ、四五人あつまりて蒲団をかつぎ、
夢の浮世といふ間もあらせす、はげしく門をたゝくものあり、玄闘に案内し、
予等は浅野家の浪人堀部彌兵衛、大高源吾にて、
今夕御隣家吉良上野介屋敷へおしよせ、亡君年来の遺恨を果さんとして、
大石内蔵之助をはじめ都合四十七人門前に進み、唯今吉良氏を討亡し候處、
御近隣の好み武士の情、
萬一御加勢も下され候はば末代の仰恨稀代の御不畳と奉存候、
願くば門戸をきびしく御防、火の元御用心被下候はば忝く存候とて
いひもはたさず忽ち出づる其の聲神妙なることいふべくもあらす。
今は俳友も是迄なりとて、其角幸い爰にあり、生涯の名残見んとて、
門前に走り出ければ、各吉良家に忍ひ入りしほどに
わが雪とかもへば軽し笠のうへ
と高々と呼ばり、門戸を閉て内を守り塀越に提灯を高くし始終を窺ふところ、
そのあはれさ骨身にしみ入、女人の叫び、童子の泣聲、風諷々と吹さそふて、
僥天に至りては本懐既に達したりとて、
大石主税、大高源吾、穏便に謝義を述べたるは、武士の誉といふべきなり
日の恩や忽ちくだく厚氷
と申捨たる源吾の精紳、いまだ眼前に忘れがたし、
其公年来熟懇故、具に認申候、早春は彼是御彼是御指繰御出府も候はば、
彼落着も承り無餘義及伏劒候はゞ窃かに追善も相榮申度候、
先は餘日も無之書餘期貴面時候、恐惶謹言。
十二月二十日。
吉良邸討入は云う迄もなく元禄十五年である、而して上の文中にある「わが雲と」の句は、元禄四年出版の「雑談集」に「笠重呉天雪」と前書して出て居り、享保五年版の「綾錦」には「東坡賛」と前書きして出て居る。「綾錦」は兎も角とするも、此際、十年餘前の偽作を思ひ出して「高々と呼ば」はつたであらうか、また同一書簡が数通現はれたとやらで、眉唾物のように説くく者もある。
赤穂の士人には俳句を嗜む者少なからず、大高源吾(子葉)の他、茅野三平(涓泉)、富森助右衛門(春帆(神崎輿五郎(竹平)、吉田忠左衛門(白砂)、岡野金右衛門(放水)等は沾徳門の俳人にして、其角の門にも出入したものであった。文涜に燈ったといふ書簡は。よし贋物なりとするも、其角の句集を読めば、侠骨稜々たる渠の面目躍如たるものがある。
「五元集」には
故赤穂城主浅野少府監侵長矩奮臣大石内蔵之助等四十六人、
同志異體報亡君之讐(むくい)、今茲二月四日官裁下令一時伏刄斉屍
萬世のさえづり黄舌をひるがへし肺肝をつらぬく
うくひすに此芥子酢はなみだ哉
富光春帆、大高子葉ご岬崎竹乎これらが名は
焦尾琴にも残り聞えける也
など見える。義士の応分は時の大問題であったが、其角等が横議を挿むべくもない、元締十六年二月屠腹の事行はれ、追善供養は素より、墓参をすら許されなかったのであるが、熱情漢の彼は同人を會して追善り句会を開いた。
萬世のさえづり血行を韓し黄舌をひるがへす
鳶にこの芥子酢は涙かな 晋 子
ちる約束や名残ある梅 應 三
船頭の喧嘩は霞むまでにして 沾 徳
物書捨しあみ笠のうら 澁 斎
隼の祭見る間や峯の月 周 東
無地には染ぬ千丈の蔦 貞 佐
(以下略)
元禄十六年七月十三日 泉岳寺に亡友の墓を望見し、烈士の鬼に手向けた一文を渠の文集「類柑子」
から披く事としよう。
文月十三日、上行寺の墓にまふでてのかへるさに、いさらごの坂をくだり、
泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとむもふより、
子葉、春帆、竹平等が悌まのあたり来りむかへるやうに覚えて、
そぞろに心頭にかゝれば、花水とりてとおもへど墓所参詣をゆるさず、
草の丈けおひかくして、かず/\ならびたるも、それだに見えねば、
心にこめたる事を手向草になして、
亡魂、聖霊、ゆゝしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。
几人聞のあだなることを観ずれば、我々が腹の中に屎と慾との外の物なし
五九輪五體は人の體何にへだてのあるべきやと、披傀儡にうたひけん、
公卿、太夫、士庶人、土民、百姓、工商乃至三界萬霊等、この屎慾をおほはんとて、冠を正し、太刀はき、上下知着て馬にめす、
法衣法服の其の品まち/\也といへども、生前の蝸名蠅利成り
たらちねに借賤乞はなかりけり
人間生路のいとなみ、一朝一タを貪る事ことはり也、いきてなき人何のこたへかあるべき、
それに一口の棚経よんで、家々をありくは何事やらんとあやし、
是かのなき玉のために奏者取次とおもへば、墓をならぶる而々其名暗からず、
地獄にて馳走せらるべしとこそ
かへらすにかのなき王の夕べかた
微書記が生きてかへりしよりも、死をいさぎよくせし兵。
ふるさとに思ひのこす事露なかるべし
皮肉と詼謔をつきまぜたこの手向草には、地下の鬼雄も莞爾として得度した事であらう。
「黒双紙」に……師(芭蕉)の目、其角は同席に建るに一座の興にいる句をいひ出て、人々をいつとて感す、師は一座その事なし、後に人のいへ名句はある事も有となり……と、句合の席上などにて、喝采を博する句を作るのは、芭蕉よりは多かったであらうと思はれる。
許六曰く
「諸集の中目立つ句有候は大かた晋子なり、彼に及ぶ門弟も見えず」
と、また曰く
「晋子其角が器極めてよし、人のとりはやするも、生得活景むもてに上手をあらはせし故に、諸人の耳目を驚かす」と。
初め螺合、麒角、後に其角と改む、米元章の用ひたる硯を三弄子から附られ、その硯の裏に■(不明)りたる寶晋斎の文字より寶井晋子。寶晋斎と號するに至った、
狂雷堂等の別號もあった、宝永四年(1707)二月廿日三日。青流が其角の病床を訪ねて、
鶯の眺寒しきり/\す 其 角
筧の野老髭むすぶ 同
青流、第三を附け両吟を試みたるに、裏の三句目に至り「晋子ねぶたきけしき」にて分れたるに、これを最後の吟詠として、同廿九日茅場町の草庵に歿した。
年四十五。芝二本復上行寺に葬る、法號 喜覚居士。
著書は虚栗、新山家、花摘、雑談集、枯尾花、わか葉合、末若葉、焦尾琴等約三十種に及ぶ。
渠の門人中、巴人、淡々、貞佐、湖十、秋色等は錚々たるものである。
而して所謂「江戸風」の沿革に就ては、山口黒露の「俳論」その他に種々の説あり、其角以前に不角によって起りしものとの説もあれど、江戸座の俳諧が其角によって勃興したものなるは争はれない所である。