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芭蕉庵再興及び素堂勸化文

2024年06月09日 09時13分31秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

** 芭蕉と素堂を結ぶ資料 **

芭蕉庵再興及び素堂勸化文

 

芭蕉庵再興の勸化文(*勧進の文章)を作りしは山口素堂にして、芭蕉の徳に服するものは普く喜んで寄進に就けり。文に曰く、

 

『(前略)廣くもとむるは其おもひやすからんとなり。甲をこのまず乙を恥ること勿れ。各志のあるこゝろに任すとしかいふ。之を清貧とせんや將た狂貧とせんや。翁みづからいふ、ただ貧なりと。貧のまた貧、許子の貧、それすら一瓢一軒のもとめあり。雨をさゝへ風を防ぐそなへなくば鳥にだも及ばず。誰か忍びざるの心なからむ。是れ草堂建立のより出る所也。天和三年秋九月竊汲願主之旨濺筆於敗荷之下、山口素堂。』

 

右は嵐蘭の姪孫九皐(上州館林の人)の家に其眞蹟を藏する由『隨齋諧話』に見えたり。其勸化簿の連名凡そ數十。重なるものは、楓興十五匁、枳風二朱、嵐雪二朱、文鱗銀一兩、嵐調銀一兩、嵐蘭破扇一柄、北鯤の大瓠一壺等なり。疑はしきは第一の施主たるべき杉風、卜尺、其角等の名見えざれども、もと僅に勸化簿の一部に過ぎずして、殘紙は悉く散逸せしなるべし。


素堂と芭蕉 野晒紀行

2024年06月09日 09時11分21秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

◇素堂43才 野晒紀行 芭蕉と素堂

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◇貞享1年 甲子 1684 素堂43才
 
俳壇 江戸の於いては二月、其角が京都に向けて出立。京都にて伏見の任口を訪ね、湖春等と表六句を巻き、仁和寺に赴く。
四月に季吟は新玉津島移住後の月次を息湖春に任せる。其角はさらに京都で千春・信徳・只丸・との五吟歌仙五巻、八吟歌仙を興行する。其角は夏秋頃去来と対面する。
八月中旬、芭蕉は千里を伴い「野ざらし紀行」の旅に出る。
冬には岸本調和が甲州市川の調實を訪ね、両吟歌仙を興行。
京都に於いては、漢詩文調が流行する。大阪では小西来山が三月、有馬に鬼貫を訪ね、百韻を満尾する。
西鶴は『古今俳諧女歌仙』を鬼貫は『有馬日書』を刊行し、
三千風は大阪にて、西鶴・来山等と百韻興行を行ない、その後長崎に向かう。
 
▽素堂、『孤松』発句二入集。尚白編。
雨の蛙こは高になるもあはれ也          素堂
寒くとも三日月見よと落葉哉            々
【尚白】慶安三年(1650)生、享保七年(1722)没。年七十三才。本名、江左大吉。近江国大津柴屋町住。医師。芭蕉が「野晒し紀行」の途次、大津に立ち寄った際に入門。『猿蓑』期の芭蕉の新風を理解できす、編著『忘梅』の千那序文をめぐって芭蕉との間に確執を生じ、以後疎遠となる。
▼芭蕉、故郷へ。
十月二十五日、江戸を出立。帰郷の途に就く。
「無何に入」
貞享四年の第二回目の行脚の時、山口素堂の送行詩に「胸次素無何有郷」と言ってあるのも、第一回目行脚の「無何に入」を再び繰り返し言ったのである。(『芭蕉全傳』山崎藤吉氏著 昭和十七年刊)
旅程…東海道を経て、伊勢に出で伊賀に帰り、吉野に遊び、美濃、尾張を経て再び伊賀に帰り越年、更に京都、奈良、大津、熱田を経て木曾路により帰途甲斐に寄る。江戸には貞享二年四月に戻る。
 
▽素堂
…我友はせを老人、故郷の故きをたずねみつゐでに、行脚の心つきて、其の秋江上の庵を出で、またの年(貞享二年)のさ月ころ帰りぬ。
 
芭蕉と素堂 野ざらし讃唱
芭蕉、『野ざらし紀行』
千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享きのえね秋八月江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ寒げなり。
野ざらしをこゞろに風のしむみかな
秋十とせ却てゑとをさす故郷
關こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。
霧しぐれふじをみぬ日ぞおもしろき
何某千りと云けるは、此たび路とのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。常に莫逆の交深く、朋友に信あらかな此人。
ふかゝやはせをふじに預ゆく ちり
ふじかわのほとりをゆくに、三ツばかりなる捨子の哀げに泣あり。此川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぎにたへず、露ばかりの命まつ間と捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
猿をきく人すて子にあきのかぜいかに
いかにぞや、汝ちゝににくまれたるか、母にうちまれたるか。父はなんぢを悪ムにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯是天にして、汝が性のつたなきをなけ。大井川越る日は、終日雨降ければ、
秋の日の雨江戸に指折ん大井川眼前、
道のべの木槿は馬にくはれ鳧
二十日餘りの月かすかに見えて、山の根ぎはいとくらきに、馬上にむちをたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りてたちまち驚く。
馬に寝て残夢月遠しちやのけぶり
松葉や風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日ばかり足をとゞむ。暮て外宮に詣侍りけるに、一の鳥井の陰ほのくらく、御燈處々に見えて、また上もなき峯の松風身にしむばかり、ふかき心を起して、
みそか月なし千とせの杉を抱あらし
腰間に寸鐵を不帯、襟に一嚢を懸て、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵あり、俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、髻なきものは俘屠の属にたぐへて、神前に入をゆるさず。西行谷のふもとに流あり。をんなどもの芋あらふをみるに、
いもあらふ女西行ならば歌よまん
其日のかへさ、ある茶店に立よりけるに、てうといひけるをんな、あが名に発句せよと云て、白き絹出しけるに書付侍る。
蘭の香や蝶の翅にたきものす
閑人の茅舎をとひて
蔦植て竹四五本のあらしかな
長月の初故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事もむかしに替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てのみ云て言葉はなきに、このかみの守り袋をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱。なんぢが眉もやゝ老たり、と、しばらくなきて、
手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜
大和国に行脚して、葛下の郡竹の内と云所にいたる。此處はれいのちりが旧郷なれば、日比とゞまりて足を休む。藪よりおくに家有
わた弓や琵琶に慰む竹のおく
二上山当麻寺に詣て、庭上の松をみるに、凡千とせもへたるならん。大いさ牛をかくすともいふべけん。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬがれたるぞ幸にしてたっとし。
僧朝顔幾死かへる法の松
獨よし野のおくにたどりけるに、まことに山深く、白雲峯に重なり、烟雨谷を埋ンで、山賤の家處々にちいさく、西に木を伐ル音東にひびき、院々の鐘の聲の心の底にこたふ。むかしより此山に入て世をわすれたる人の、おほくは詩にのがれ歌にかくる。いでや、唐土の廬山といはむもまたむべならずや。ある坊に一夜をかりて
碪打てわれにきかせよ坊が妻
西上人の草のいをりのあとは、奥の院より右の方二町ばかりわけ入程、柴人のかよふ道のみわずかに有て、さがしき谷をへだてる。いとたふとし。彼とくくの清水はむかしにかはらずと見えて、今もとくとくと雫落ける。
露とくく心見にうき世すゝがばや
若是扶桑に伯夷あらばかならず口をすゝがん。もしこれ許由に告ば耳をあらはむ。山を登り坂を下るに、秋の日既ニ斜になれば、名のある處々見残して、先ず、後醍醐帝の美陵を拜む。
御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草
大和より山城を経て、近江路に入て、美濃にいたるに、います・山中を過ぎて、いひしへの常盤の塚あり。伊勢の守武がいへるに、よしとも殿に似たる秋風 とは、いづれの處かにたりけん。我もまた、
義朝の心に似たりあきの風
不破
秋風や藪も畠も不破の関
大垣に泊りけるに夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野出し時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、
死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ
桑名本當寺にて
冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす
草のまくらに寝あきて、まだほの暗き中に濱のかたへ出て、
あけぼのやしら魚白き事一寸
熱田の詣ヅ。社頭大イニ破れ、築地たはふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえて其神と名のる。よもぎ・しのぶ心のまゝに生たるぞ、なかくに目出度よりも心とまりける。
しのぶさへ枯て餅かふやどり哉
名護屋に入ル道の程諷吟ス
狂句凩の身は竹斎に似たるかな
草まくら犬もしぐるゝか夜の聲
ゆき見ありきて
市人よこの笠うらう雪の傘
旅人を見る
馬をさへながむる雪の旦かな
海邊に日暮して
海くれて鴨の聲ほのかに白し
爰にわらぢをとき、かしこに杖をすてゝ旅寝ながらに年の暮ければ、年くれぬ笠きてわらぢはきながらといひくも山家にとしを越て
誰が壻ぞ齒朶に餅おふ牛の年
奈良に出る道のほど
春になれや名もなき山の朝霧
二月堂に籠りて
水取リや氷の僧の沓の音
京に登りて、三井秋風が鳴滝の山家をとふ。
梅白し昨日や鶴をぬすまれし
樫の木花にかまはぬすがたかな
伏見西岸寺任口上人にあふて
我衣にふしみの桃の雫せよ
大津に出る道、山路を越て
やま路来てなにやらゆかしすみれ草
湖水眺望
辛崎の松は花よりおぼろにて
晝の休らひとて旅店に腰を懸て
つゝじいけて其陰に干鱈さく女
吟行
菜畑に花見皃なる雀哉
水口にて廿年を経て故人あふ
命二ツ中に活きたるさくらかな
伊豆の國蛭が小島の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに、我名をきゝて、草の枕の道づれにもと、尾張の國まで跡をしたふ来たりければ、
いざともに穂麥くらはんくさまくら

甲斐駒ケ岳 (2966メートル) 『日本百名山』深田久弥著より 

2024年06月09日 09時08分44秒 | 南アルプス駒ケ岳 日向山 尾白川
甲斐駒ケ岳 (2966メートル)
『日本百名山』深田久弥著より 一部加筆
 
 東京から山の国甲斐を貫いて信州に行く中央線。私たち山岳宗徒にとって最も親しみ深いこの線路は、一たん甲府盆地に.馳せ下った後、今度は釜無川の谷を左手に見おろしながら、信州の方へ喘ぎながら上って行く。さっきまで遠かった南アルブスが、今やすぐ車窓の外に迫ってくる。
甲斐駒ケ岳の金字塔が、怪異な岩峰摩利支天を片翼にして、私たちの眼をおどろかすのもその時である。汽車旅行でこれほど私たちに肉薄してくる山もないだろう。釜無川を隔てて仰ぐその山は、河床から一気に二千数百メートルも突きあげているのである。
 日本アルプスで一番代表的なピラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ヶ岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧ヶ峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨峰群が重畳している中に、この端正た三角錐はその仲間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値する威と品をそなえた山容である。
 日本アルプスで一番奇麗な頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望の豊かなことは言うまでもないとして、花崗岩の白砂を敷きつめた頂上の美しさを推したいのである。
信州ではこの山を白崩山と呼んでいたが、その名の通り、遠くからは白砂の峰に見えるのである。
私が最初にこの略に立った時は、信州側の北沢小屋から仙水峠を経、駒津峰を越えて行った。六方石と称する大きな山石の傍を過ぎると、甲斐駒の広大な胸にとりつくが、一面に裏白な砂礫で目映いくらいであった。九月下旬のことでその純白のカーペットの上に、所どころ真紅に紅葉したクマコケモモが色彩をほどこしていて、さらに美しさを添えていた。ザクザクと白い砂を踏んで、頂上と摩利支天の鞍部へ通じる道を登って行くのだが、あまりにその白砂が奇麗なので、踏むのがもったいないくらいであった。南アルプス中で、花崗岩の砂礫で美しいのは、この甲斐駒とお隣の鳳凰山だけである。
  頂上に花崗石の玉垣をめぐらした両のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰のあつかった山であることが察しられる。祭神は大己貴命で、昔は白衣の信者が登山道に続いたものだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ケ原あるいは柳沢から登るもので、両登山口はそれぞれ駒ヶ岳神社がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に、鳥居や仏像や石碑が点綴されている。
 日本アルプスで一番つらい登りは、この甲斐駒ケ岳の表参道かもしれない。何しろ600メートルくらいの山麓から、3000メートルに近い頂上まで、殆んど登りづくめである。わが国の山で、その足許からてっぺんまで2400メートルの高度差を持っているのは、富士山以外にはあるまい。木曽駒ヶ岳は、木曽からも伊那側からも、それに近い高度差を持っているが、登山道は緩く長くつけられている。甲斐駒ほど一途に頂上を目がけてはいない。
 甲斐駒の表参道は、途中の黒戸山あたりの弛みを除けば、あとは急坂の連続である。上へ行くにつれて傾斜は激しくなり、険しくなり、梯子や鉄の鎖や針金などが次々とあらわれる。山麓から一日で頂上へ達するのは普通不可能であって、五合目あるいは七合目の小屋で一泊しなければならない。
 わが国には駒ヶ岳と名のつく山が多いが、その筆頭は甲斐駒であろう。西にある木曽駒ヶ岳と区別するために、以前は東駒ヶ岳と呼ばれたが、今は甲斐駒で通っている。山名の由来は、甲州に巨摩郡、駒城村などの地名のあるところから推しても、かつて山麓地方に馬を産する牧場が多かったので、それに因んだものと思われる。
 甲斐駒ケ岳は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私ほこの山を落さないだろう。苦から言い伝えられ崇められてきたのも当然である。この山を讃えた古い漢詩を一つ最後にあげておこう。「駒ヶ岳ヲ望ム」と超し、僧海量の作である。
 
  甲峡ニ連綿トシテ丘壑重ナル
  雲間独リ秀ズ鉄驪ノ峰
  五月雪消エテ絶頂ヲ窺へバ
  青天ニ削出ス碧芙蓉
 
 言うまでもなく鉄驪ノ峰とは甲斐駒のことである。これは甲州側から映じたのだが、信州側からすれば、碧芙蓉でなく白英蓉ということになろうか。

間違いが多い 内田魯庵『芭蕉庵桃青傳』による山口素堂

2024年06月09日 09時03分22秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

内田魯庵『芭蕉庵桃青傳』による山口素堂

山口素堂

山口素堂が、東叡山下より葛飾の阿武に居を移せしも亦天和年中なり。素堂は季吟門にして芭蕉が親友なり。名は信章、字は子晋、通稱官兵衞といふ。甲斐巨摩郡教來石村字山口の人なり。代々山口に住するに依て山口氏と稱す。山口市右衞門の長男にして寛永十九年五月五日に生る。幼名を重五郎と云ひ、長じて父が家を繼ぎ家名市右衞門と改む。其後甲府魚町に移り、酒折の宮に仕へ頗る富めるをもて郷人尊稱して山口殿と呼べり。幼時より四方に志ありて、屡々江戸に遊び林春齋の門に入て經學を受け、のち京都に遊歴して書を持明院家に、和歌をを清水谷家に學び、連歌は北村季吟を師として宗房即ち桃青、信徳及び宗因を友とし俳諧に遊び、來雪又信章齋と號し、茶道を今日庵宗丹の門に學んで終に嗣號して今日庵三世となる。斯る異材多能の士なれば、早くより家を弟に讓りて市右衞門と稱せしめ、自ら官兵衞に改めて仕を辭し、江戸に來りて東叡山下に住し、素堂と號して儒學を諸藩に講じ以て業となし、傍ら人見竹洞、松尾桃青等諸同人と往來して詩歌聯俳を應酬唱和し、點茶香道を樂み、琵琶を彈じ琴を調べ、又寶生流の謠曲を能くしければ、素仙堂の名は風流を擅にしたりき。(以上『葛飾正統系圖』に據る。)

桃青はもと同門の友たれば、東下以來『江戸三百韻』を初めとして、文字の交際尋常ならざりしが、殊に素堂が葛飾阿武に移居せし後は、偶々六間堀の假寓と近接したれば、小名木川を上下して互に往來し愈々親しく語らひける。素堂の號は此頃より名乘りしものにて、庭前に一泓(*淵)の池を穿ちて白蓮を植ゑ、自ら蓮池の翁と號し、晋の惠遠が蓮社(*慧遠・謝霊運等の白蓮社)に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、「浮葉卷葉この蓮風情過ぎたらん」の句を作りて隱然一方の俳宗たり。一説に芭蕉は儒學を素堂に學びたりと云へど、其眞否は精しく知るを得ず。されど當時の俳人を案ずるに、季吟の古典學者たるを除くの外は連歌に精しき者の隨一流の識者として、素堂程の學識ある者は殆ど其比を見ず。芭蕉は稀世の天才にして且つ季吟が國典に於ける衣鉢を繼ぎたれ共、素堂如き才藝博通の士に對しては勢ひ席を讓らざるを得ざるべし。且つ縱令師事せざるも文詩の友を結んで益を得たるは、恐らく失當の推測にあらざるべし。芭蕉の遺文を案ずるに、其角丈と云ひ杉風樣と呼ぶ中に、獨り素堂先生と尊稱するを見るも亦、尋常同輩視せざりしを知るに足る。されば枯枝の吟に於ける口傳茶話の如き、蓑蟲の贈答の如き、『三日月日記』に漢和の格を定めたる如き、若くは其日庵に傳ふる芭蕉・素堂二翁、志を同うし力を協して、所謂葛飾正風を創開せしといふ説の如き、或は『續猿蓑』の「川上とこの川しもや月の友」を以て素堂を寄懷せるものとなす如き、皆素堂と芭蕉との淺からぬ關係を證するものにして、芭蕉が俳想の發展は蓋し素堂の力に得たるもの多かりしなるべし。素堂傳に芭蕉と隣壁すとあれども、素堂は阿武に住し芭蕉は六間堀に寓したれば、隣家といふも恐らくは數町を距てしなるべし。當時深川は猶葛飾と稱し、人家疎らなる僻地なれば、茫々たる草原に數町を距てゝ二草舍の相列びしものならん乎。云々


俳諧誌上の人々 榎本其角 えのもときかく  高木蒼悟 氏著 

2024年06月09日 08時59分07秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

俳諧誌上の人々 榎本其角 えのもときかく

『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著 

昭和7年11月発行 俳書堂

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

草庵に樋梗あり

    門人に其角、嵐雪あり

 

と師の芭蕉から鍾愛された其角は、寛文元年(1667)丑七月十七日、江戸日本橋堀江町に生れた。

父、東順は竹下氏近江堅田の人、堅田の榎本氏の女を娶り、榎本氏を冒すに至つたと云へば、養子したものではあるまいか。医を業として本多下野守から扶持せられ、安穏な生活をしてゐたのであるが、何れり年か江戸に移り堀江町にト居した。この堀江町の寓居に其角が生れたのである。

 

其角の門人淡々が、其角十七回忌に上梓した「十七囘」には、其角の自伝が収録されて居る、

傅記的文献として最も精確なものであるから、それに準拠して此の小傅を立てる事とする。

其角の父も母も文雅の嗜みがあった、この父母の雅懐に養はれた渠は、九歳り時、

 

    馬なればいかほど跳ねん丑の年

      さてもはねたり寛

 

と口吟した。この歌は略年譜の九歳の條に記入してあるが、『ト養狂歌集拾位』にある歌であるから、其角角が何気なく手録しておいたものを、『みゝな草』の著者などは其角の自詠であると云って居るのであらうとの説もある。

「十歳入学大圓寺、十四歳於堀江町本草綱目寫、修治、主治、発明」とある。

十歳から大圓寺に寺小屋生活をなし、十四歳のには父の業を継ぐべく、医書を勉強しかけたものである。

「本草綱目」は明の李時珍の著薬物学の書で五十巻ある。「五元集」に

      父が医師師なれば

    鰒(ふぐ)汁に又本草のはなしかな

 

とあるのは、此頃の回想であろう。

 

  十五歳、内経素本、易経素本寫。

  蒲生五郎兵衛需にて伊勢物所書之、右表紙出来、

本多下野守殿へ献之、右之御褒美として刀申請候

 

とある、「内経」は支那古代の医書、易経などと共に、その白文を筆寫したものらしい。また、渠は俳壇

屈指の能筆家であるが、十五歳の頃既に能書の名が聞えて居たものである。

 

  十六歳、草刈三越講筵、服部平助撰述。

十七歳、桃青廿歌仙。

 

三越は医学者で通称永伯。平助字は紹卿、将軍家宜の侍講を勤めた儒者、それらの講義を聞き、尚この時代に圓覺寺の大嶺和尚に詩や易を學んで居る。「桃青門弟獨吟二十歌仙」の版行されたのは延宝八年(1680)であるが、その歌仙の巻かれたのは、其角十七歳の延賓五年(1677)である事が知られる。渠の作は地の巻第四番目にあり。

 

  脈を東籬の下にとって本草に對すと美子か薬もいまたうつけを治せず

    月花閑素幽栖の野巫の子有

 

と冒頭にあって、当時早くも自分の生活な詠んで居るようである。「桃青門弟廿歌仙」より一年前の延宝七年に梓行された、才麿の「俳諧板東太郎」に

 

    朝鮮の妹や摘らん紫人參

    なら茶の詩さこそ廬同も雪のはて

    雁虎蟲とばかり思ふて暮けり暮

 

など入集して居る、板本に見える渠の作の最初のものかと思はれる。いったいはいっ芭蕉の門に入ったかといふに、芭蕉がはじめて江戸に来たのが寛文十二年、種々の文獣によれば延宝二年十四歳で入門したらしい。元禄十四年まで年譜を自ら認めて、芭蕉に入門した年を記録してゐないのは、後の研究者には物足りない気がする。

 

天和元年(1681)年 二十一歳には桃青、其角、才麿、揚水の四人で著した「次韻」、言水の「東日記」等が上梓された。当時既に俳人として書家として、一家をなして居たらしく、「東日記」二巻は其角の筆蹟をそのままに用い、渠の発句は廿八句入集して居る。天和三年には堀江町から、芝の金地院前に移り、「虚栗」「新二百韻」等の編著があった。

父の東順は六十歳限り、医業を脱して文筆に親しんだといふ、東順の六十歳は天和二年に當る、其角は医名を順哲と呼んでゐたが、果して医業に携ったものか、明らかでない。想ふに、東順 其角の父子は天和二年の頃、百味箪笥を抛(ほお)り出し、其角は俳諧専門家として立つ事になり、芝へ移ったものではあるまいか。天馬行空的の渠の性格はこの頃から発揮し、酒を被り高楼に放吟するなど、いよいよ磊落(らいらく)放縦な生活は、渠をして短命に終らしめたかの感がある、仔細らしく坊主頭を傾けて、医業に邁進していたら、或は長命したであろうが、榎本順哲老で医人伝の一頁を占め得るや否や覚束ない。

「無窮の壽を保たん事を要す、著者須らく書に托すべし」

といふ古人の言が思い出される。

 

芭蕉は其角の大酒を戒めるため、飲酒一枚起請の寫しを渠に附贈った事がある。

 

右飲酒一枚起請は、尊重親王御作の由承候、

さる人の許には鰐筆にて懸物にして、

床に掛り在候餘り/\面白き御作故、

ちよと寫し来候、貴丈常に大酒をせられ候故、

此御文句を心して、大酒は御無用に存候、仍一句

     朝顔に我は飯くふ男かな    はせを

 

 元禄時代の或る一面は、紀伊国屋文左衛門、奈良茂、其角、一蝶、佐々木文山、柏筵等が代表するやの観がある。記文、奈良茂は豪富の商人、遊里に驕りて金銭を土芥の如く消費した。其角。文山、一蝶等に顕門富豪に夤祿(いんろく)して、花柳の巷に放浪し風騒を助けた。柏菰(市川団十郎)は荒事師の本家、また文事あって其角に相親しみ多くの俳優の中に蔪然頭角をあらはしていた。

而して豪遊一世を驚かした紀文は、俳諧に千山と號し、其角の門人、また其角の保護者にして且つ遊び仲間であった、渠は一蝶と共に常に其の宴席に侍してゐたようである。

   

 暁の反吐はとなりかほとゝきす

    大酒に起てものうき袷かな

      酔登二階

    酒の瀑布冷麦の九天より落るらん

 

 酒仙其角の面目を髣髴(ほうふつ)たしめる句は多くある、又、嗜好としては鮓好であった事が、渠の

僕にして俳句をやり、後医道に入った是橘が

     

  わが檀那鮓をこのみてくはれければ

    しらせばや蓼くふ蟲にすしの味

 

といふ句な作りて居る事によって知られる。渠はまた泥を一蝶に學んだ。一蝶は狩野安信の門人であるが、才気煥発、師家の規矩を守る事をなさず、安信の門な斥けられ、自ら一流を開かんとしたものである。

 其角は性格豪放、その俳諧には江戸兒気象の顕れたものがすくなくない。また鬼面人を嚇(おど)すようなもの、難解のものも少なくないが、画は俳諧矛ほど豪勁(ごうけい)で至極落ち着いた作を見せている。

    お汁粉を還城楽のたもと哉

饅頭で人をたづねよ山桜

      意馬心猿の解

立馬の日は猿の華心

いさよひや龍眼肉のから衣

軍兵を炭團でまつや雲礫

      前書略

    土手の馬くはんを無下に菜つみ哉

      接木を畫て

    来ませる申継とや見えつらん

 

これ等は謎の句、難解の句と称される側のものである。

 

    鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春

    猫の子のくんずほくれつ胡蝶哉

雛のさま宮腹/\にまし/\ける

明星や櫻さだめん山かつら

    子規一二の橋の夜明かな

    越後屋にきぬさく音や子規

うの花やいつれの御所の加茂桜

 笋(たけのこ)や丈山などの鎗の鞘

鎌倉やむかしの角の蝸牛(かたつむり)

水うてや蝶も雀もぬるゝ程

鶏頭や松にならびの清閑寺

秋の空尾上の杉をはなれたり

背面達摩の贅

    武帝には留守と答へよ秋の風

    むら時雨三輪の近路たづねけり

    からびたる三井の仁王や冬木立

    鹽擔子(しおくみ)や投てたゆたふ磯鵆

 

これらの句は、一読清新り感にうたれ、人をして豁達(かったつ)ならしむるものがある。

 

其角の逸話として最著名ものは、「雨乞い」と「赤穂義士」に関するものであろう。

 

「五元集」に

       牛島三遶の神前にて雨乞いする者にかはりて

    夕立や田を見めぐりの神ならは

 

圍の句がある、そして句の次に「翌日雨降る」と書いて居る。「近世奇跡考]によれば、

 

元禄六年午六月廿八日、渠が隅田川に舟遊びせし行、

三圍社頭に雨乞する者の請にまかせて詠んだところ、

翌日雨が降つたといふ。

 

義士闘係の逸話は、両国橋上、煤竹売りの子葉(大高源吾)との邂逅は桃中軒に任せておく事とし、討入の晩、吉良家の隣の土屋邸に居て、てこれまた子葉との邂逅、君時の状況を秋田の文鮮へ報じた書簡は、百歳の下尚儒夫を起たしむるほど痛快な光景を、目のあたり見るやうな文章である。

 

  歳暮の為御壽例の如く遠来の處、酒量一封、

蕗漬一桶被贈下、御厚志の程幾久敷致受納候、

御序御家内はじめ御社中にも宜敷御傳可被下候

   しかれば去十四日、本所都文公に於て忘年の一興御催有

嵐雪、杉風予等も出店にて、折柄雪雨白く降出し、風情手にとる如く、

庭中の松杉はゆきをいただき、雪間の月は暗を照し、風興今は難捨と、

夜いたく更ゆくまゝもはや丑みつ頃に成行き、犬さへ吠えず打しづまり、

文臺料紙もおしかたよせ、四五人あつまりて蒲団をかつぎ、

夢の浮世といふ間もあらせす、はげしく門をたゝくものあり、玄闘に案内し、

予等は浅野家の浪人堀部彌兵衛、大高源吾にて、

今夕御隣家吉良上野介屋敷へおしよせ、亡君年来の遺恨を果さんとして、

大石内蔵之助をはじめ都合四十七人門前に進み、唯今吉良氏を討亡し候處、

御近隣の好み武士の情、

萬一御加勢も下され候はば末代の仰恨稀代の御不畳と奉存候、

願くば門戸をきびしく御防、火の元御用心被下候はば忝く存候とて

いひもはたさず忽ち出づる其の聲神妙なることいふべくもあらす。

今は俳友も是迄なりとて、其角幸い爰にあり、生涯の名残見んとて、

門前に走り出ければ、各吉良家に忍ひ入りしほどに

      わが雪とかもへば軽し笠のうへ

   と高々と呼ばり、門戸を閉て内を守り塀越に提灯を高くし始終を窺ふところ、

そのあはれさ骨身にしみ入、女人の叫び、童子の泣聲、風諷々と吹さそふて、

僥天に至りては本懐既に達したりとて、

   大石主税、大高源吾、穏便に謝義を述べたるは、武士の誉といふべきなり

      日の恩や忽ちくだく厚氷

   と申捨たる源吾の精紳、いまだ眼前に忘れがたし、

其公年来熟懇故、具に認申候、早春は彼是御彼是御指繰御出府も候はば、

彼落着も承り無餘義及伏劒候はゞ窃かに追善も相榮申度候、

先は餘日も無之書餘期貴面時候、恐惶謹言。

    十二月二十日。

 

 吉良邸討入は云う迄もなく元禄十五年である、而して上の文中にある「わが雲と」の句は、元禄四年出版の「雑談集」に「笠重呉天雪」と前書して出て居り、享保五年版の「綾錦」には「東坡賛」と前書きして出て居る。「綾錦」は兎も角とするも、此際、十年餘前の偽作を思ひ出して「高々と呼ば」はつたであらうか、また同一書簡が数通現はれたとやらで、眉唾物のように説くく者もある。

 

赤穂の士人には俳句を嗜む者少なからず、大高源吾(子葉)の他、茅野三平(涓泉)、富森助右衛門(春帆(神崎輿五郎(竹平)、吉田忠左衛門(白砂)、岡野金右衛門(放水)等は沾徳門の俳人にして、其角の門にも出入したものであった。文涜に燈ったといふ書簡は。よし贋物なりとするも、其角の句集を読めば、侠骨稜々たる渠の面目躍如たるものがある。

「五元集」には

    故赤穂城主浅野少府監侵長矩奮臣大石内蔵之助等四十六人、

同志異體報亡君之讐(むくい)、今茲二月四日官裁下令一時伏刄斉屍

          萬世のさえづり黄舌をひるがへし肺肝をつらぬく

       うくひすに此芥子酢はなみだ哉

          富光春帆、大高子葉ご岬崎竹乎これらが名は

          焦尾琴にも残り聞えける也

 

など見える。義士の応分は時の大問題であったが、其角等が横議を挿むべくもない、元締十六年二月屠腹の事行はれ、追善供養は素より、墓参をすら許されなかったのであるが、熱情漢の彼は同人を會して追善り句会を開いた。

 

  萬世のさえづり血行を韓し黄舌をひるがへす

    鳶にこの芥子酢は涙かな     晋 子

      ちる約束や名残ある梅    應 三

    船頭の喧嘩は霞むまでにして   沾 徳

      物書捨しあみ笠のうら    澁 斎

    隼の祭見る間や峯の月      周 東

      無地には染ぬ千丈の蔦    貞 佐

                                (以下略)

 

元禄十六年七月十三日 泉岳寺に亡友の墓を望見し、烈士の鬼に手向けた一文を渠の文集「類柑子」

から披く事としよう。

  

文月十三日、上行寺の墓にまふでてのかへるさに、いさらごの坂をくだり、

泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとむもふより、

子葉、春帆、竹平等が悌まのあたり来りむかへるやうに覚えて、

そぞろに心頭にかゝれば、花水とりてとおもへど墓所参詣をゆるさず、

   草の丈けおひかくして、かず/\ならびたるも、それだに見えねば、

心にこめたる事を手向草になして、

亡魂、聖霊、ゆゝしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。

几人聞のあだなることを観ずれば、我々が腹の中に屎と慾との外の物なし

五九輪五體は人の體何にへだてのあるべきやと、披傀儡にうたひけん、

公卿、太夫、士庶人、土民、百姓、工商乃至三界萬霊等、この屎慾をおほはんとて、冠を正し、太刀はき、上下知着て馬にめす、

法衣法服の其の品まち/\也といへども、生前の蝸名蠅利成り

     たらちねに借賤乞はなかりけり

 

 人間生路のいとなみ、一朝一タを貪る事ことはり也、いきてなき人何のこたへかあるべき、

 それに一口の棚経よんで、家々をありくは何事やらんとあやし、

是かのなき玉のために奏者取次とおもへば、墓をならぶる而々其名暗からず、

地獄にて馳走せらるべしとこそ

      かへらすにかのなき王の夕べかた

    微書記が生きてかへりしよりも、死をいさぎよくせし兵。

ふるさとに思ひのこす事露なかるべし

 

 皮肉と詼謔をつきまぜたこの手向草には、地下の鬼雄も莞爾として得度した事であらう。

「黒双紙」に……師(芭蕉)の目、其角は同席に建るに一座の興にいる句をいひ出て、人々をいつとて感す、師は一座その事なし、後に人のいへ名句はある事も有となり……と、句合の席上などにて、喝采を博する句を作るのは、芭蕉よりは多かったであらうと思はれる。

許六曰く

「諸集の中目立つ句有候は大かた晋子なり、彼に及ぶ門弟も見えず」

と、また曰く

「晋子其角が器極めてよし、人のとりはやするも、生得活景むもてに上手をあらはせし故に、諸人の耳目を驚かす」と。

 

 初め螺合、麒角、後に其角と改む、米元章の用ひたる硯を三弄子から附られ、その硯の裏に■(不明)りたる寶晋斎の文字より寶井晋子。寶晋斎と號するに至った、

狂雷堂等の別號もあった、宝永四年(1707)二月廿日三日。青流が其角の病床を訪ねて、

 

    鶯の眺寒しきり/\す     其 角

      筧の野老髭むすぶ     同

 

青流、第三を附け両吟を試みたるに、裏の三句目に至り「晋子ねぶたきけしき」にて分れたるに、これを最後の吟詠として、同廿九日茅場町の草庵に歿した。

年四十五。芝二本復上行寺に葬る、法號 喜覚居士。

著書は虚栗、新山家、花摘、雑談集、枯尾花、わか葉合、末若葉、焦尾琴等約三十種に及ぶ。

 渠の門人中、巴人、淡々、貞佐、湖十、秋色等は錚々たるものである。

而して所謂「江戸風」の沿革に就ては、山口黒露の「俳論」その他に種々の説あり、其角以前に不角によって起りしものとの説もあれど、江戸座の俳諧が其角によって勃興したものなるは争はれない所である。