長かった・・・しかし廃炉・収束作業は続く・・・
3.11事故から7年、県民の総意でもあった東電福島第二原発の“廃炉”を6月14日、東電社長が表明した。それを聞いて「ホッとした!」が正直な気持ちである。
[資料1 富岡町毛萱地区と東電第二原発の位置]
第一原発の着工が前年に始まった1968年(昭和43年)1月、当時の木村知事が年頭記者会見で「富岡・浪江両地点に東電第二原発4基誘致!」「小高・浪江両地点に東北電力原発2基誘致!」を発表した。
突然、一方的に“誘致”を発表された地権者は激怒し「補償は一時…土地は末代!」のスローガンのもと毛萱地区(富岡町側地権者)33戸が古老を中心に「原発反対期成同盟」を立ち上げた。県は企業局長が張り付き、山田町長始め土建業者と有力者の多くが「原発促進協議会」「富岡町の明日を開く会」などを結成し、毛萱地区を孤立させる戦術を取った。
全町の反対署名活動の中心を担った私たちは「署名は出来ない」でなく「保留」が圧倒的に多かったことを今も鮮明に覚えている。
原発反対期成同盟は1970年7月「土地収用法」の3回目の学習会を開く直前に条件付き賛成者が生まれ、大詰めを迎える事になった。
最後まで闘った人物もいたが終わりを余儀なくされた。
(資料1)にあるように同原発は敷地が異様に狭く、炉心から毛萱地区まで700㍍を切る状態だった。
[資料2 1982年当時の富岡町中心部と排気筒]
(資料2)は町の中心部から南を見れば排気筒がすぐそこにニョキリと見えた。
とにかく第一・第二原発10基とも事故がひっきりなしに起きた。特に1989年1月1日の第二原発3号機「再循環ポンプ破損事故」は衝撃的であった。「運転再開の是非を問う住民投票」の町条例制定運動も提起し闘った。苦い思い出は尽きることはない。
原発が存在すれば必ず「原発を動かそう!」とする人物が現れる。
“ホッとした”の思いはそこから生まれている。