『触れる】ということについてもう少し真剣に考えねばならない。
甘い匂いに触れたいという願望が僕の中にあるのかもしれないが
その問いの存立の起源はさておき、
触れるということがなんなのか、もう一度考え直さねばいけない時期に来ていると思う。
触れるということについて、
僕自身は何の答えも持ち合わせていないが
一応感覚器官の話として、チャンネルのひとつとして、
ここでは僕なりに考えている
反論を待っているのかもしれないし
押しつけを回避したいのかもしれないし
構えをほどく為の最初の一歩なのかもしれないが、
いずれにせよ、僕にとって命題のひとつになりつつある事は確かだと思う。
要するに、「何に触れているのか?」ということ。
視覚では光を見ている
聴覚では音を聞いている
嗅覚ではニオイを嗅いでいる
味覚では味を感じている
と、ここで気付いている事についてメモするのだけど
味という感覚は、嗅覚と触覚の中間にあるような感じがする。
味わうというのは何を味わっているのだろう。
味をあじわうというのは、つまりどういうことなのだろう
要するに、ここでも空間とチャンネルの概念から逃れられないのだけど
脳でイメージを感じるというのは
それは大きさに関する概念が言語感覚として
ある程度チャンネルとして独立できる可能性を示唆しているわけで
語彙が豊富な人は交友範囲が広く、
つまり人間としてのネットワークがでかいんじゃないかという、
そういう事を予感するわけで。
人と人の橋渡しをするネットワーク、あるいは境界そのものが
人間なんじゃないかという問いそのものについても関係あるのだろうけど
空間に対する感受性というのは
ある種、それぞれの人の中で歪な個性を発しているものだと思う。
例えば絵を描くという行為において、
光の屈折したスペクトラムは歪みがあってこそ、
その分化が行われ、色は色としてのまがまがしさを発揮する。
虹が何色に見えるか、という問いは
空の蒼さと、天気の孤独を表す上で、
重大な指標となりうるという僕の予感があるのだけど
基本的には文化圏によって色の表現要素は種種様様にわかれているのだと思う。
灰色の虹を、見たことがあるだろうか?
僕は、どことなく見たことがあるような気がするのだけど
それはたぶん、夢の中で見えているようなもので
例え赤く燃える太陽であっても、真っ直ぐ見つめれば白くなるように
虹も空も見る場所によって色は違う。
味わう、という話に戻すと
虹の色を味わう文化というのは、
それ自身が虹への手触りに憧れるからこそ虹について言及するのであって
その事を詳しく調べれば調べるほど、色は複雑な要素にわかれ、
ますます触れる事からは遠ざかり、
私たる文化は何を味わっているのかよくわからなくなる
すなわちもってして、
なればこそ、
触れるという言葉において
その媒介たる他者、あるいは物、あるいは世界、
それ自体がふくむ わからなさ というのは、
むしろ内部について言及することによって近づくものだと、
僕は一人で考える。
主観を超える超主観ではなく、主観に達するほどの主観
純粋な主観、透明な主観、何色でもない目、透明な観測、
それらを含んでいてそれ自身であるもの、
そういうものを僕は目指さねばならない。
自分に出会うというのは他者の破壊ではなく
自分へと成長するという漸近線の概念に、かぎりなく、かぎりなく近づくものではないかと
心でなにかが問いかけるような
そんな感覚によって
僕は触れることを失う
もう一度、僕は問いをここで、この場所で立て直す
「なんにふれているのか?」
気持ちに?
空気に?
熱に?
心に?
硬さに?
形に?
痛みに、触れている自分に驚く。
言葉が、胸の痛みに触れている事を観測してしまう。
その事を、痛烈に僕自身によって批判するならば、
僕は僕自身の破壊者であることによってしか、
僕は自分に触れられない
錯覚を楽しむだけでいいのなら…
僕の人生は夢ばかり見ているような幻の気配だけであったと
僕はここに固く永遠に記す。
けれど、僕はたぶん違う。
ずっと触れられない何か、
それに触れることによって死ぬと思う。
そういう予感がいつも僕の中にあって
それだけが、僕を殺し続けると思う。
いつも怖い。
誰かに殺されるのが。
僕の皮膚感覚は、いつも誰かに殺される事に怯えている。
問いを立て直さねばならない。
何に触れているのか?
なにがふれているのか
なぜ、ふれようとするのか。
甘い匂いに触れたいという願望が僕の中にあるのかもしれないが
その問いの存立の起源はさておき、
触れるということがなんなのか、もう一度考え直さねばいけない時期に来ていると思う。
触れるということについて、
僕自身は何の答えも持ち合わせていないが
一応感覚器官の話として、チャンネルのひとつとして、
ここでは僕なりに考えている
反論を待っているのかもしれないし
押しつけを回避したいのかもしれないし
構えをほどく為の最初の一歩なのかもしれないが、
いずれにせよ、僕にとって命題のひとつになりつつある事は確かだと思う。
要するに、「何に触れているのか?」ということ。
視覚では光を見ている
聴覚では音を聞いている
嗅覚ではニオイを嗅いでいる
味覚では味を感じている
と、ここで気付いている事についてメモするのだけど
味という感覚は、嗅覚と触覚の中間にあるような感じがする。
味わうというのは何を味わっているのだろう。
味をあじわうというのは、つまりどういうことなのだろう
要するに、ここでも空間とチャンネルの概念から逃れられないのだけど
脳でイメージを感じるというのは
それは大きさに関する概念が言語感覚として
ある程度チャンネルとして独立できる可能性を示唆しているわけで
語彙が豊富な人は交友範囲が広く、
つまり人間としてのネットワークがでかいんじゃないかという、
そういう事を予感するわけで。
人と人の橋渡しをするネットワーク、あるいは境界そのものが
人間なんじゃないかという問いそのものについても関係あるのだろうけど
空間に対する感受性というのは
ある種、それぞれの人の中で歪な個性を発しているものだと思う。
例えば絵を描くという行為において、
光の屈折したスペクトラムは歪みがあってこそ、
その分化が行われ、色は色としてのまがまがしさを発揮する。
虹が何色に見えるか、という問いは
空の蒼さと、天気の孤独を表す上で、
重大な指標となりうるという僕の予感があるのだけど
基本的には文化圏によって色の表現要素は種種様様にわかれているのだと思う。
灰色の虹を、見たことがあるだろうか?
僕は、どことなく見たことがあるような気がするのだけど
それはたぶん、夢の中で見えているようなもので
例え赤く燃える太陽であっても、真っ直ぐ見つめれば白くなるように
虹も空も見る場所によって色は違う。
味わう、という話に戻すと
虹の色を味わう文化というのは、
それ自身が虹への手触りに憧れるからこそ虹について言及するのであって
その事を詳しく調べれば調べるほど、色は複雑な要素にわかれ、
ますます触れる事からは遠ざかり、
私たる文化は何を味わっているのかよくわからなくなる
すなわちもってして、
なればこそ、
触れるという言葉において
その媒介たる他者、あるいは物、あるいは世界、
それ自体がふくむ わからなさ というのは、
むしろ内部について言及することによって近づくものだと、
僕は一人で考える。
主観を超える超主観ではなく、主観に達するほどの主観
純粋な主観、透明な主観、何色でもない目、透明な観測、
それらを含んでいてそれ自身であるもの、
そういうものを僕は目指さねばならない。
自分に出会うというのは他者の破壊ではなく
自分へと成長するという漸近線の概念に、かぎりなく、かぎりなく近づくものではないかと
心でなにかが問いかけるような
そんな感覚によって
僕は触れることを失う
もう一度、僕は問いをここで、この場所で立て直す
「なんにふれているのか?」
気持ちに?
空気に?
熱に?
心に?
硬さに?
形に?
痛みに、触れている自分に驚く。
言葉が、胸の痛みに触れている事を観測してしまう。
その事を、痛烈に僕自身によって批判するならば、
僕は僕自身の破壊者であることによってしか、
僕は自分に触れられない
錯覚を楽しむだけでいいのなら…
僕の人生は夢ばかり見ているような幻の気配だけであったと
僕はここに固く永遠に記す。
けれど、僕はたぶん違う。
ずっと触れられない何か、
それに触れることによって死ぬと思う。
そういう予感がいつも僕の中にあって
それだけが、僕を殺し続けると思う。
いつも怖い。
誰かに殺されるのが。
僕の皮膚感覚は、いつも誰かに殺される事に怯えている。
問いを立て直さねばならない。
何に触れているのか?
なにがふれているのか
なぜ、ふれようとするのか。