嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

死の叫び声が聞こえる

2006年05月05日 20時48分53秒 | 駄文(詩とは呼べない)
いつも未来を壊してしまいたいと思っている自分がどこかにいる
どこにいるかもわからないけど、
何故か見当がついてしまっている

内蔵から逆流してくる未来を
口を半開きにして吐き気に耐えながら
ぽかんと涙を流して呼吸がとまりそうな僕がいる

これはフィクションじゃなくて
まぎれもなく耐え難い現実なのだけれど
どこか物語にしてしまいたい自分が居る

いつでも崩壊してしまいそうな僕がどこかにいる
未来はまだ作ってもいないのに
簡単にできてしまうことにいつも怯えと恐れを感じている
あまりにも生きることが簡単であることに死にたくなる

数学は自閉的に美しい
いつもいつも割り切れる事は簡単で
0なんて生まれた時から知ってる

誰も教えてくれなくても
前世なんか信じていなくても
僕はたぶん、ママのおっぱいを呑みながら
「おかあさん」という音を憶えて
それが「お母さん」という内側からの自分の声で
そこに名前がついていることを知る

怖い。

父も母も殺してしまいたい

僕に名前をつけようとする全ての者を
誰一人残らず殺してしまいたい

そういう衝動を僕はいつも我慢している
それが多分、絆と呼ばれる人間に似た何かで
そういう刷り込みが僕を僕の形に丸めていく
それはいつまでたっても量子化誤差の域を超えない

だから殺してしまいたい。

家族を全部殺すことでしか、
僕は大人になれない

だから過去と未来を同時に予感する僕には
呪いのような記憶力でパズルの形がわかる

死は数字にならない。
数学的には完成しない。
だから客観性では理解出来るはずがない。

わかってる

だれにもわからないことくらい
生まれた時からずっとわかってる

理解なんて全く必要ない

僕だけが、世界の仕組みを知っていればそれでいい

そんなこと、誰にも教わる必要がない

どうしようもないほど絶望的にわかってる

0は理解された

死は名前をつける事が許されない観念なのに

おまえらみんな

何を死と呼んでる?

敬うなよ…

恐れるなよ…

近づくなよ

ずっと遠くにいればいい

お前らが俺を知る必要なんてないじゃないか

誰も僕の事を知らない
なのにみんなが僕の名前を呼ぶ

気持ち悪い

ずっとずっと割り切れない
僕の形には決して収まらない

僕は僕の形を破壊することによってしか
この世界に承認されない

ずっと許されない

僕は死に神

僕は、永遠に憧れる限り、永遠に届かない神を殺して生まれる

掴み取る事を努力と呼ぶような時代は終わってしまえ。

2006年05月05日 18時07分48秒 | 駄文(詩とは呼べない)
存在は0次元の感覚だと思う。

そもそもが逆説的なのだけれど。
存在を1として数えるならば、
インフレーションは0×∞が1になる事を示しているわけで、
0×無限大とイメージするか、
無×∞とイメージするかで
もちろん二極化は起こる。

ようするに抽象化能力や具体化能力というものは
そのイメージをミクロな、微弱な、儚いものへと
憧れのような強い希求を持ってすれば
そこに近づけるわけで
それが閉じている以上は
無限小の観念によって無限大に近づくわけで
中心にすり寄るどうしようもない願望は
永遠を願ってやまない孤独を彷彿とさせてしまう。

ひとつに言えることは
熱がある限りそこには微弱な波動が存在しようとしてしまい
伝わるという現象が証明されえぬものであったとしても
中心にある熱さというものはそれ自体が形質的な個性の一部ではないかという
そういう疑いもあるわけで。

二つの定説がある
考えたのか知ったのかはしらない。
よーわからん。

けど、とりあえず。

0は何をかけてもゼロ。
これは定理ではないと思います。
むしろ絶望。

∞は存在しない。
まだ数えてもいない極論であり、可能性。

で、ここでやっぱり重要だと思うのは
オイラーの法則で
e^(πi)が-1になるというのは
0に気付いているものの定理なんじゃないかと思う。

要するにバランス的に言えば
+1と-1があってこその0なわけで、
鏡が無ければ実体と虚構に分ける事は出来ないし
衝突によってしか痛みは感知しえない。

不可能性についてあんまり言及したくはないけれど
もしも100%の真空を認めるならば、
それは自分が物語の一部である事を認めながら
存在を語り続ける者であるということでもある。

もうすこし、話をゆるく展開すると
空間に対する座標系というのは
それ自体が空間認知そのものを定義、
あるいは方向づけてしまうわけで
WXYZ軸を描いた瞬間に観念は四次元に束縛されるし
軸の交差である原点を書いた時点で
他者と向き合わねばならない。

死に対する観念というのは方向軸ではなく
形型そのものの消失であって
そこに平面展開も立体展開もない。
そこには存在という概念自体がない。
無いのではなく、ふつーにありませーん、という「ない」があるわけで
言語的に文法があると書いていること自体に騙されかける

要するに、わかりやすく言えば、
痛みと衝突なくして
存在を感じる事は不可能だという、
そのことをここに宣言しておきたい。

触れるという感覚は自虐的な憧れであって
ある種の僕に対する外からの畏敬の念なんだろう。

俺が怖いのか?
俺は居ないのに?

おもしろい。

まぁそういうことなんだけど。

真っ直ぐに人と向き合うまでは1次元を感覚として
実感することは無かった。
それは存在の観念に対する疑惑が
衝突によって光と闇に分かれ
世界が痛みによって引き裂かれる行為でもあった。

たぶん、好きだったんだと思う。
世界が。
俺の世界が。

でも、たぶん誰かに出会いそうになったから
僕は怖くなった。

死にたいという気持ちは
誰もが切実にもってるものだと思う。

それを否定したり、外へ押しのけたりするのは
やっぱり誰にも救いがない
疑うことと、行動することが一体になっているせかいでは
空論だって大事だと思うんだけど、
それはやっぱり否定されえるものでしょうか?

他者に対する憧れも
死に対する憧憬も
そこでは損失によって描かれるものだけど
あなたは鏡を見つめますか?

ステージの違いでしかない
死が悲しいことだなんて、一体誰が決めたのか。

僕は認めない。
僕は僕の死を悲しむ人間を、決していつまでも許さないだろう。