嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

八方ふさがりの八方目を見たら

2006年05月31日 00時55分42秒 | 駄文(詩とは呼べない)
そうだな。

例えば今、記憶に向かって語りかけるという行為は

宇宙の端に向かって

あるいはまた、名付けられた星に向かって

ただただ星を見て意味を考えるという行為に似ている。

それが例えば、ペガサス座であれば、
そこには神話が生まれるのだろうし、
それが双子座であれば、
そこには自分の分身が見えたり見えなかったり。

そういう行為のほとんどが

知の範囲に拘束されていて
論理的な帰結を強く求めるほどに
なんらかの主軸を持った空間の中に立体として束縛される。

それが指数関数的に行われるとか、

天文学的に行われるとか、

夢見がちな天秤座のつまずきであるとか、

そういうことは多分ほとんどの場合問題にならないんじゃないかな。

どちらかと言えば、

僕が星を見ている時、
その星は僕を見ているかどうか、
未来は過去に干渉するかどうか、
遠いとはどういうことか、
伝わるとはどういうことか、

それらが、
それらを多く含む それらのうちにある小さな何かが、
意識と呼ばれたりする何かが、
擦り削られた魂の土台の上に
曖昧な存在として現に確立しているかどうかという、

そういうことが大事なんじゃないかな。

鏡を見る場合にはね。

ただ、多くの場合に置いて
自分の見ている世界が絶対的な知覚であるとは思わない方がいいし
そうした思い込みのほとんどはどうしようもなく孤独であるように思う。

何故なら人は往々にして自分が人であることを確かめることが出来ないし
鏡に触れることも出来ない。
むしろ自分が何かにとっての鏡であるか、
世界そのものが障壁であるか、
あるいは鏡と名のつく境界線が閉じたり開いたりする生き物でしかない、
と、仮説的にしか考えられない。

どうしてそんな奇妙な考えに偏るのかと言えば
証明が証明たりえるのは
既に納得された証明を土台として
その視座のうえにどっかと乗っかった揺るぎない砂クズであって
たいていの論理が天才的な破綻の上に成り立っている説得でしかない。

だからボクは思うよ。
これは、証明問題でありながら、
提出され続ける課題であると。

現に今、死んでいる事を未来に向かって証明することはたやすい。
だけどそれを過去に向かって証明する事はなかなかに難しい。
たいていの人にとって、過去と未来は等価値ではないからね。
新しいものに対する焦がれ、「笑い」というのはほんとうにどうしようもない性質を
持って帯びて飛び回っている。

だけどそうした揺らぎは、本来鏡を見る君自身の内に秘めたものじゃないかな?
そういう白実化された暴露は、
危険な香いのする君自身の物語ではないかな?

少なくともボクにとっては、
僕と君を隔てる境界線を明確に永遠化する事は困難だと思うよ。

自意識の喪失、意志の白濁、痙攣の薄弱、網膜の、形。

真っ黒な世界が、僕の色で濁っていくことに、僕は君の中で耐えられそうもない。

だから僕は鏡に。
君は僕に。

そういう透明さが、今、僕には必要なんだ。
死を、死として学び取るためにはね。

明日、世界が無くなってしまうとしても死を恐れない。
今、死んでしまう事が出来ない世界が怯えている。

それがたぶん、透明な死を理解するための、最初の構え。