嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

バレンタインデー?

2008年02月15日 01時50分06秒 | 駄文(詩とは呼べない)
バレンタイン、チョコはもらってねぇっす。
いや、そういや親がくれた。
まぁそういうのはもちろん数に含めないわけだが。

けどまぁ、チョコが形だとすると、
受け取るのは気持ちの方だから、
なにかは受け取ったのかもしんねぇな、と
少し思ったよ。

ありがと。

僕の言う事がわかってきた…
そうか。それはよかった、のかな?

でも全部わかったら、君は死ぬよ。

けどまぁ、少しわかった程度では大丈夫かもわからんねw


なんか、不思議なんだよね。
奇妙なんだよ、と話しかけることもできるけど……

僕のblogを読んで、詩だとか、詩じゃないとか、
そういうこともそうなんだけど、
めちゃくちゃ決めつけて読んでくる人もいれば、
憧ればっかりで接してくる人もいる。
そうかと思えば、君のように、少しずつ囓っていこうとする口もある。

ほとんどの人にとって、鏡にしかなっていないと思う。
たぶん、僕にとってもそう。
その鏡でしかない言葉を通して、どうして人は人間の方を決めつけたり、
人の方を決めつけたり、相手を決めつけたり、自分を決めつけたりしなくちゃいけないんだろう。
そんなにも、硬い世界なんだろうか?

僕はこの世界の事をあんまり信用してない。

ある人に言わせると、僕の言葉は外部を信用してる事の告白なんだそうだ。

もし、この世界にある全てが繋がっていて、その温かみから、
必死で熱を奪って逃げてるのが僕なら、
あるいはその比喩は、その言葉が語りかけるしぐさは僕に近いのかもしれない。
死って、熱のない領域から吹いてくる恐怖の息吹みたいなもんで、
僕が鼓動を重ねるたびに、どっと流れ込んできて、
僕の形をかえていくから。
だから、熱さから遠ざかっている時には冷たく感じるし、
冷たさから逃げている時には、熱く感じて涙が出たりするんだと思う。

きみは、ふりつもっていく手紙をどう読んでるだろう。

時々心配になることはある。

僕が感じてる死の予感とか、ほんとは誰にも伝わってなくて、
あるひ偶然うっかり忘れられちゃうんじゃないかって。

でも、君は「見てるよ。」って言うね。
かすかな小声で。

それぐらいが、僕にはちょうどいいのかもしれない。
あんまり強く誰かを願ったり、何かを願ったりすることなく、
黙々と日常をこなしていくことの方が多くて、
ともすれば僕は不安になるから。

でも、叫んでる時はその瞬間だけは切実なんだと思う。
なにが僕をそうさせるのか、僕にもさっぱりわからないけれど。

痛いときに、誰かが痛みを感じてくれるだけで、
人は掬われるのかな?

僕はそう思わない。

痛い時に痛みを癒すのが、人の気持ちだけだとは思わない。

それでも、痛い時、誰にもわかってもらえない痛みを、
「誰にもわかってもらえない」と思い込む痛みを、
僕は知ってるつもりになる。
この苦しみも、痛みも、つらさも、呼吸も、消えそうな自分も、
誰にも届かないんだと、すべてを諦めそうになるこの一瞬を、
誰かに伝えたいと、思わずにいられないほど、
人は弱いんだと思う。

僕はその弱さを、恥ずかしいとは思わない。
立派だとも思わない。

なすがまま、あるがまま、人は弱さとともにここにあるんだと思う。
そういうのは、奇蹟とか、神様のせいにしても、
全然癒されない。解決にならない。
だから自分で書こうとするんだと思う。

いつも形はグニャグニャするね。

手が届かないままの君でいて下さい。

手紙を、できるだけたくさん書くから。

壊れた欠片を何度も拾いなおして今がある。

2008年02月15日 00時53分04秒 | 駄文(詩とは呼べない)
考え直してみました。
音楽を、少しとめて。

宇宙船の紐が回収可能であるというのは、
いわゆる閉ループなんですよ。
始まりから終わりまでの閉ループというよりは、
始まりもせず、終わる事もなく、巨大であり、無限性が持続中も、
観念的に有限であるということです。

簡単に言うと、一回性の否定です。
全ての事象は理解可能であり、
あらゆる一点は全体に繋がりがある、
ここで起こる事は全て決まっている、
いわゆる運命論にかなり近い観念なんですよ。

そこに、新しい選択肢はあるでしょうか?
ずっと閉じられている部屋に、新しい今はあるでしょうか?

現状で、すでにこれは背理法的な希望観測をも含んでいます。

つまり、宇宙船の紐が回収不可能であった場合のために用意された仮説なんですよ。

僕が死ぬという事、僕の宇宙が死ぬという事、
あらゆる出来事に、一回性を持たせるという事、
輪廻転生を信じない事。
未来を確定させない事。
今を信じる事。

それは、自信じゃないですか?

それは、感情のもっと奥にある、自分のこころじゃないですか?

相手に裏切られた、と責める事は簡単です。
相手を見ずに、幻想をずっと見てればいいからです。

逃げる事ももちろん簡単です。
すべてが僕のために用意されたと思い込むくらい、
すべてが僕を見放している絶望は、等価値なのですから。

じゃあその絶望的な王様は、自分を信じてんのか?
ホントに自分を信じてんのか?
っていう、そういう事ですよね。

僕が自殺を決意する事と、自分を信じることは、はたして等価値なんでしょうか。

僕が僕である事を拒否するくらい、僕が生を拒否している?
僕が逃げている?

そんな中途半端な読解では、ただ、このテキストたちは自分を苦しめるだけです。

君は僕ではなく、あなたになってしまうだけです。

たぶん、命はもっと残酷でやさしい。
終わりは必ず来る。

僕はその尺度を、自分のために痛みに変えたい。

全てを知る事ができなくとも、
全てでありたいと思う、願いばっかりを努力と重ねる、
すべての僕のために。

あるいは、今日、新しく来た、君のところに。

一度知った世界なんか、めちゃくちゃに壊れてしまえばいい。
僕が死を憶えている限り、僕の生は、いつでも壊れはじめる。
それと同じくらいに、君が知っているだけの僕なんか、
いつ死んだっていい。

君が知っているだけの僕なんか、一度きり死んでしまえばいい。
何度でも思う。死ねばいいって。

僕は死ねばいいって、なんどもなんども思う。

そういうことを繰り返して、僕は今を集めている。