えっと、僕はまだ、KEIの事をそれほどよくわかってはいません。
話を聞いて、いろいろな事を推察できるようになったくらいのレベルなんです。
湖の全体像はなんとなくわかるような気がします。
でも、いるか、あるいはイルカについて、
あるいはまた、その違いについて、
まだ正確には掴めていないんです。
それは、僕が断定表現を使っていても、
それは現象としてどこにも確定していなくて、
ただイメージを強く言い切るために
あるいは言い含めるために、
語調の強さとして断定表現を使っているからなんです。
そしてまた、僕の推察では、
KEIの客観性は、いくつかの【いるか】によって支えられています。
そしてその【いるか】のうちの何匹かは、
KEIによって汚されています。
それは、KEIの倫理観によって、KEI自身という語り部によって
汚されている物語だと思うのです。
レイプは犯罪ですし、僕も良くない事だと思います。
しかし同時に、僕がレイプをしないと未来を確定させる事は不可能です。
僕がこの先どんな人間と出会うのか、まだ未来でわからないからです。
ただ、ある意味では僕はKEIよりも遙かに強い規律性で
自分を限定的な宇宙に閉じ込めている人間です。
そのことによって、僕は女性を汚すことなく生きてきました。
僕が女性を汚さずに済むのは、単に僕の臆病さだけの問題ではありません。
僕が壊れた時に、僕が女性に対してどのように接するのか、
倫理の外側過ぎて、僕にはほとんど想像ができないのです。
そしてまた、僕がたんに性欲を満たすためだけに女性と交わってしまえば、
たとえその人が一人きりであったとしても、
僕はその人の人生を台無しに穢してしまった事になるでしょう。
人生は一度きりです。でも人は死ぬから、高貴で美しくあれるものです。
これは信条ではありません。
僕の自殺は、僕の一回性のプライドなんです。
特攻隊のようなものに似てるかもしれませんが、
僕が守っているのは他者ではなくて、
僕の宇宙なんです。
僕は、僕の宇宙が永遠につらい地獄で満たされる事を恐れています。
煉獄{天国と地獄の中間の意味}の世にあって、地獄に恐れることは
ばかげた事かもしれません。
でも僕は、永遠の美しさに憧れながらも、永遠が怖いのです。
僕は、永遠の意味を宇宙の内部に固定させる事で、
有限の無限大の観念を創り出しています。
それは、宇宙が一度きりで死ぬということで、
物質の持つエネルギーは無から有へと移行し、
そしてまた有から無へと移行するという、
存在そのものに関わる話です。
僕は、旧来の哲学的意識(考察)をほとんど何も信用していません。
小さい頃はデカルトの「我思う故に我あり」がとてもすごいと思っていました。
コギト・エルゴ・スムという音に含まれる語感も、
文脈の中での使われ方も、数学的原点の帰結によって、
方程式をグラフに書き表すことのすごさだったということも、
ほとんど何もわかっていませんでした。
今でも僕はよくわかっていません。
僕がきちんと読み終えた哲学書は、「方法序説」一冊だけで、
その本を読んだとき、ある種の馬鹿らしさを感じたからです。
この方法では、現代の病んだ心を救うことは不可能であるとすぐに思いました。
当時は量子力学の功績も、物質がエネルギーに還元される事も、
無から有がたびたび揺らぎの中で生まれていることも、
発見されていなかったからです。
構造的なIT革命の中で、客観性はまだまだ現代の主流であると思います。
特に、男は客観性を重視して生きている人が多いと思います。
しかし、客観性は構造を剥き出しにしていく現在の時代の潮流の中で、
旧来の倫理観とは相容れない矛盾をはらんでいます。
僕は、四次元の軸を打開し、もう一度主観の座に、
デカルトを脱克して原点よりも小さい中心を取り戻します。
それは、存在よりも小さな観念であり、宇宙よりも巨大な観念である、
【死】への理解が必要不可欠なのです。
かつて天球が信じられていた頃、人々にとっての観念は
とても平面的で二次元的でした。
海のすみっこについて考える事はある種のタブーだったからです。
これは保守性が正しさの覇権を握っていた弊害であると僕は考えます。
そして、東と西、北と南が繋がっていて、単に同じ軸上であり、
閉じている事の発見により、人は地球という丸さを、
閉じた平面の発見により、人は高さを手に入れます。
三次元への移行です。
僕はもっと攻撃的に死に神について考えます。
単に感情が論理を超えるというような意味でなく、
感情は時間を超越して伝わる可能性を秘めています。
11歳の僕がおよそ30歳の僕を殺そうとし、
およそ30歳の僕は11歳の子供を殺そうとします。
始まりと終わりの観念を閉じる事によって、
僕は予知や予感、自閉的な宇宙を手に入れました。
それは時間を信じないという道でした。
0歳から29歳までの時間の中で、僕は必死に僕の存在を思い出そうとしました。
-1歳の死んでいた頃はどうなっていたか、
僕は必死に記憶を手繰り寄せました。
そのたびに僕は、きわめて限定的な主観に近づいていきました。
今、ふたたび僕の四次元的な宇宙は開かれている時期だと思います。
【無→有→無】の観念の中で閉じていない、
【ミクロ→マクロ→みくろ→まくろ→μ→Macro …‥ }
の五次元について考察しているからです。
僕の心臓の周期について、僕の心が持つ時間性について、
僕の鼓動が持つ周波数について、他者と同期がとれるのかどうか、
関心があるからです。
これは、KEIが人を信じられるかどうかと、
とてもよく似た話だと思います。
僕は、宇宙が自殺する一回性の方を信じているのですが。
僕が人を信用しなくても、本音をぶちまけて平気で居られる理由もここに繋がっています。
僕が開かれた話をしようとすれば、僕の情報は開かれます。
僕と対話を続けるのであれば、自分(およびプライバシー)が壊れる事を覚悟して下さい。
そしてまた、僕はまだその覚悟が出来ているとは言い難いですが、
同期が取れている間は、僕は僕の深層に潜り続けると思います。
客観性と主観性、おそらくどちらもが同じ話。
同じ軸上にある話。
しかしぼくらは、それ以外の第三の選択肢を発見できるかもしれない。
それが、僕が考えを記事としてここに漂白し続ける、理由の一つでもあります。
話を聞いて、いろいろな事を推察できるようになったくらいのレベルなんです。
湖の全体像はなんとなくわかるような気がします。
でも、いるか、あるいはイルカについて、
あるいはまた、その違いについて、
まだ正確には掴めていないんです。
それは、僕が断定表現を使っていても、
それは現象としてどこにも確定していなくて、
ただイメージを強く言い切るために
あるいは言い含めるために、
語調の強さとして断定表現を使っているからなんです。
そしてまた、僕の推察では、
KEIの客観性は、いくつかの【いるか】によって支えられています。
そしてその【いるか】のうちの何匹かは、
KEIによって汚されています。
それは、KEIの倫理観によって、KEI自身という語り部によって
汚されている物語だと思うのです。
レイプは犯罪ですし、僕も良くない事だと思います。
しかし同時に、僕がレイプをしないと未来を確定させる事は不可能です。
僕がこの先どんな人間と出会うのか、まだ未来でわからないからです。
ただ、ある意味では僕はKEIよりも遙かに強い規律性で
自分を限定的な宇宙に閉じ込めている人間です。
そのことによって、僕は女性を汚すことなく生きてきました。
僕が女性を汚さずに済むのは、単に僕の臆病さだけの問題ではありません。
僕が壊れた時に、僕が女性に対してどのように接するのか、
倫理の外側過ぎて、僕にはほとんど想像ができないのです。
そしてまた、僕がたんに性欲を満たすためだけに女性と交わってしまえば、
たとえその人が一人きりであったとしても、
僕はその人の人生を台無しに穢してしまった事になるでしょう。
人生は一度きりです。でも人は死ぬから、高貴で美しくあれるものです。
これは信条ではありません。
僕の自殺は、僕の一回性のプライドなんです。
特攻隊のようなものに似てるかもしれませんが、
僕が守っているのは他者ではなくて、
僕の宇宙なんです。
僕は、僕の宇宙が永遠につらい地獄で満たされる事を恐れています。
煉獄{天国と地獄の中間の意味}の世にあって、地獄に恐れることは
ばかげた事かもしれません。
でも僕は、永遠の美しさに憧れながらも、永遠が怖いのです。
僕は、永遠の意味を宇宙の内部に固定させる事で、
有限の無限大の観念を創り出しています。
それは、宇宙が一度きりで死ぬということで、
物質の持つエネルギーは無から有へと移行し、
そしてまた有から無へと移行するという、
存在そのものに関わる話です。
僕は、旧来の哲学的意識(考察)をほとんど何も信用していません。
小さい頃はデカルトの「我思う故に我あり」がとてもすごいと思っていました。
コギト・エルゴ・スムという音に含まれる語感も、
文脈の中での使われ方も、数学的原点の帰結によって、
方程式をグラフに書き表すことのすごさだったということも、
ほとんど何もわかっていませんでした。
今でも僕はよくわかっていません。
僕がきちんと読み終えた哲学書は、「方法序説」一冊だけで、
その本を読んだとき、ある種の馬鹿らしさを感じたからです。
この方法では、現代の病んだ心を救うことは不可能であるとすぐに思いました。
当時は量子力学の功績も、物質がエネルギーに還元される事も、
無から有がたびたび揺らぎの中で生まれていることも、
発見されていなかったからです。
構造的なIT革命の中で、客観性はまだまだ現代の主流であると思います。
特に、男は客観性を重視して生きている人が多いと思います。
しかし、客観性は構造を剥き出しにしていく現在の時代の潮流の中で、
旧来の倫理観とは相容れない矛盾をはらんでいます。
僕は、四次元の軸を打開し、もう一度主観の座に、
デカルトを脱克して原点よりも小さい中心を取り戻します。
それは、存在よりも小さな観念であり、宇宙よりも巨大な観念である、
【死】への理解が必要不可欠なのです。
かつて天球が信じられていた頃、人々にとっての観念は
とても平面的で二次元的でした。
海のすみっこについて考える事はある種のタブーだったからです。
これは保守性が正しさの覇権を握っていた弊害であると僕は考えます。
そして、東と西、北と南が繋がっていて、単に同じ軸上であり、
閉じている事の発見により、人は地球という丸さを、
閉じた平面の発見により、人は高さを手に入れます。
三次元への移行です。
僕はもっと攻撃的に死に神について考えます。
単に感情が論理を超えるというような意味でなく、
感情は時間を超越して伝わる可能性を秘めています。
11歳の僕がおよそ30歳の僕を殺そうとし、
およそ30歳の僕は11歳の子供を殺そうとします。
始まりと終わりの観念を閉じる事によって、
僕は予知や予感、自閉的な宇宙を手に入れました。
それは時間を信じないという道でした。
0歳から29歳までの時間の中で、僕は必死に僕の存在を思い出そうとしました。
-1歳の死んでいた頃はどうなっていたか、
僕は必死に記憶を手繰り寄せました。
そのたびに僕は、きわめて限定的な主観に近づいていきました。
今、ふたたび僕の四次元的な宇宙は開かれている時期だと思います。
【無→有→無】の観念の中で閉じていない、
【ミクロ→マクロ→みくろ→まくろ→μ→Macro …‥ }
の五次元について考察しているからです。
僕の心臓の周期について、僕の心が持つ時間性について、
僕の鼓動が持つ周波数について、他者と同期がとれるのかどうか、
関心があるからです。
これは、KEIが人を信じられるかどうかと、
とてもよく似た話だと思います。
僕は、宇宙が自殺する一回性の方を信じているのですが。
僕が人を信用しなくても、本音をぶちまけて平気で居られる理由もここに繋がっています。
僕が開かれた話をしようとすれば、僕の情報は開かれます。
僕と対話を続けるのであれば、自分(およびプライバシー)が壊れる事を覚悟して下さい。
そしてまた、僕はまだその覚悟が出来ているとは言い難いですが、
同期が取れている間は、僕は僕の深層に潜り続けると思います。
客観性と主観性、おそらくどちらもが同じ話。
同じ軸上にある話。
しかしぼくらは、それ以外の第三の選択肢を発見できるかもしれない。
それが、僕が考えを記事としてここに漂白し続ける、理由の一つでもあります。