嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

ひとつの中心に近づいてみたくて。

2008年03月02日 19時55分59秒 | 駄文(詩とは呼べない)
今回のメッセージの解釈はだいたい合っていると思います。
そして、僕が正しいのかもどうかも、
結局は僕が自殺するかどうか、に帰結するんじゃないかと思います。
ですが、少し補足しておくと、
(あるいは蛇足なのだろうか)
僕が僕自身の中で抱えている正しさ、というのは
100%の正しさではなく、僕を縛る記憶なのです。
すなわち、11歳の子供が考えた怒りのような葛藤のプライドなのです。
自殺というのは、他者に対する暴力です。
それゆえに、その観念に近づくほど、あなたは、
もしくはあなたでなくとも、ほとんど多くの人が、
僕から強制的な正しさを感じる事になるだろうと思います。
それはわかります。
ですが、僕は常に二つの視点を行き来します。
どちらもが主観には違いないのですが、
始まりと終わりからの目線、
そしてそれを統合する迷いの中心としての今、です。
過去も未来も、すべてを変えられるのは今です。
だからこそ、僕らは対話を続けるのでしょう。

まず、始まりから見ていく視点と、
終わりから見ていく視点、
つまり、僕の左手から見れば運命論のままに右手を見る自分、
僕の右手から見れば、終わりから始まり(左手)へ向けての、
走馬燈の逆再生のような自分、
そしてそれらを統合する曖昧な真ん中として迷っている、
今、このテキストを書いている最中の自分です。

この意味を、理解できない事には、
おそらく本質での対話は難しいんじゃないかと思います。
それはつまり、僕の「口」に関する問題だからです。
受け入れるか、受け入れないか。

強制はできない、というのは互いにそうです。
これは、僕らが相手に無理矢理強制をしようとしても、
できるものではありません。
どんなにヒドイ言葉で書き殴っても、理解できない感受性はあります。
それは主に、口が閉じている感受性です。
あるいは、肛門が閉じている感受性なのか。

相手を信じる事ができない問題は、
僕だけの問題ではなく、双方の問題のように感じます。
つまり、僕らの問題。
しかし、信じる事無く対等な対話ができないというのであれば、
それはもう一度信じるということは何か、
根本から哲学的に問い直すか、
あるいは君の言ったとおり、僕は最後の人につながるものを、
女性以外は認めない、ということなのかもしれません。

ひとつ言わせてもらうと、
「信じる」ということと、「愛する」ということは
密接な繋がりを持つ、別々のことのように思います。
つまり、女性を愛する事と、女性を信じる事は別です。
同じように、男性を愛することと、男性を信じることは違う。
これは全く重なりを持たない別々な観念だ、ということではありません。
区分けして考える事ができるはずでしょ?
という問いかけです。

客観イルカの言ったせりふですが、
3つめの問題以外は僕にとっても聞き慣れた言葉です。
僕もよく周りからそのように言われています。

3つめの問いについて、僕なりの考えをいいます。
僕は、本当に自分の心臓が同期する相手は、
世界に一人、居るか居ないか、だと思います。
そしてそれは、おそらく交わることによってしか、同期しない。
寂しいという感情は、同期にしてそうに見えて、わずかに非同期であることの、
悲しい微妙なズレです。
人を愛することができない故に、僕は本当の本物の孤独を知らない。
片思いの女性に対して苦しんでいる時の僕に、
存在の疑問を投げかけた女性は、
僕の弱さを前に、僕を諦めた。
あるいは、他の選択肢を選んだ。
でも、あの瞬間、あの大事な一瞬、
僕はなんだかまぶしい光を内側からみました。

それは今までの五官で全く感じたことの無い、
内側からの感覚だったんです。
それはとてもグレーな感覚で、
存在が100%に達しない代わりに、
僕に心の欠片をくれた。
僕が女性に対して感謝している神秘性は、
ここに繋がっていると思います。

「私と心で向き合って!」
という悲痛な叫びにも似た許し、
それは本物の私を見て、僕が僕に出会って!
ということにも繋がっています。

僕は女性について考える時にいつも思います。
男は外について知りすぎている、と。
女は中で感じます。
女性は、間違っていようが、それが正しかろうが、
一つの中心を持っています。
それが生を宿す、ひとつの資格であり、証明なのだと思います。

僕も、ずいぶんと知識に偏った人間です。
ですが僕は、それを脱皮して、心を知ることはできるんじゃないかと思います。
君は、そのヒントをくれるような気もする。
しかし、君はたぶん答えを持たない。
僕がすべての価値観を脱ぎ捨てる時、
それは僕が裸の心を手に入れる時、
存在をこの世界に残すとき。

それはたぶん、もう頭で考える事のできない領域なんじゃないかと思います。
心臓がわずかに記憶器官を持っている話と繋がっていくのかな?
よくわからないです。

君がなにがしかのヒントをくれたので、
僕は僕なりの判断でテキストをさらけ出し、
脱皮を試みます。
汚れを脱ぎ捨てるために、僕が書いているテキスト、
僕の排泄したテキストから、どんな汚れを読み取るのか、
僕には想像もつきません。

でもヒントになればいいな、と思います。
サブタイトルに、ずっと書いてあるのだしね。
言語化されてしまったという、嘘について。

ややこしいこともちゃんとややこしく考えてみようか。

2008年03月02日 19時54分38秒 | 駄文(詩とは呼べない)
大事な核心部分について話せないのは、
それが未来を方向付ける契機を、可能性を持っているからだと思います。
それは
法律、戒律、倫理、そうしたものが
独特の正義感と結びつき、それによって自分の正当性を支えているから、
つまり、道徳、尊厳とはなにか、
そうした根源的な問いに繋がっていて、
結局はそれがユークリッド(幾何学)空間的な、
真っ直ぐな形を維持する役割を担っているからだと思います。

これは僕なりの解釈によると、
円周率が終わるかどうか、に関係する話です。
本質的に開いている「直線」
本質的に閉じている「円」
これらの重ね合わせとして、曲線が想定できますよね。
でも、曲線を用いることなく、
直線のみで円周を測ってみて下さい。

【円周率】の観念につながりませんか?

別の比喩を出します。
本質的に開いている「客観性」
本質的に閉じている「主観性」
これらの重ね合わせとして、破綻することなく
あるいは互いに壊し合って破綻しながらも進み続けるもの、
それは、【努力】の観念につながりませんか?

法律を、マクロの正義と解釈するならば 。
その真っ直ぐさは、不条理に立ち向かう一つの道です。
僕はその道を目指してはいません。
想定の範囲に含めようとしているにすぎません。

ですが、道が違うからと言って、
話ができない事にはならないでしょう。
少なくとも、相手が知りたいと思っている事を話し、
そして自分が知りたいと思っている事を相手が話す間は、
対話は成り立ちます。

そうなると、僕らの話はやはり、
どうしても互いに知らない領域を探し合うような行為か、
あるいは心や神といった、
曖昧でわかりづらいオカルト的な話に寄っていく可能性があります。

別に、それ自体に特に問題があるわけではないのですが。

ただ、今の僕から少し言わせてもらうと、
君は少しばかり、僕に依存していませんか?
それはちょっとだけ心配です。
僕らは互いに短命な、
ある意味で相対的な時間を生きる命です。
明日、僕が突然居なくなっても大丈夫でしょうか?
人を信じるというのはとても難しい道です。
僕はまだ、人を信じてはいません。
僕は、誰かを拠り所とすることなく、
孤独に生きてきた人間です。
いや、人間と呼ぶのもおこがましいかもしれません。
人と人の間に立ってこそ、人間と呼ぶのなら。

けど、あの子に出会ってから、
僕は少しだけ気持ちが楽です。
「受かってるといいなー♪」と素直な気持ちを声に乗せたメロディーが、
なんとなく僕の耳をくすぐるからです。
絶望的な状況の中でも、若い命はたくましいですね。
僕はそこから、何を学び取るのでしょうか。
むずかしくて、まだよくわかりません。
けれど、これはそんな簡単に性欲やコンプレックスのものさしで
測れるような類のものではないと思うのです。
それを君に伝えたくて、僕は手紙を書いているのかもしれません。