出生、というのは一つの暴力ですよね
自殺も、ある意味で暴力だと考える事はできる。
未来の時点で僕の意志に反した事を、過去で親がやってるから、
僕が生まれてきた、という解釈ができますよね。
自殺について同じように考えると、
葬式など、僕が死んだ後の未来の人が「死んで欲しくない」
という意志を仮に持っていたとして、
過去の僕は、未来の人の意志に反して、暴力をふるうわけですよね。
で、そうなると、生きてる事自体が、強制力を伴っておきる現象、
ってことになりますけど、
あなたは強制的に生きてるんですか?
それとも、自分の意志で生きてるんですか?
という話に繋がってきます。
死人に口無し、という言葉があるけど、
まずこれって前提として、未来の人の思いが、
過去の人に伝わっていないと無理ですし、
逆にそれが伝わるんだとしたら、
過去の時点で未来を予想して、
先に反論を書いておかないといけませんよね?
じゃぁ未来からの暴力に備えて、
あらかじめ自殺してもいいことになるんですが。
というわけで、問題となるのは、
「意志」がコントロールできるのか、
伝わるのか、という事が重要になってきます。
僕は伝わらないかもしれない
と思いながら書いているのに、
君は「伝わっていないのが不可解です」という態度なの?
まず、そこが意味わからん。
伝わるか伝わらないか、書くまでわからないじゃないですか。
書くことをやめてしまったら、僕の思いは
伝わらないじゃないですか。
現に、君は僕がどんな思いで絶望的にテキストが編まれていくのか、
うまく観察できずにいるように見える。
あるいは、これが僕の思い込みだとしたら、
やっぱり僕はその思い込みを、
ここに書き出してみないと、わからないまんまじゃないですか。
わからないことをわかりたいっていう思いと
知らないことを知りたいって思いは、
似ている、少し違う、同じ、全く違う、
どういう尺度なんでしょうか。
僕は、わからない事がわかるかどうかは、
どれくらい考えるか、という事を関係があると思っています。
知りたい事を知るかどうか、は、
どれくらい知りたいのか、という事と関係があると思います。
それって熱意みたいなものですよね?
僕が知りたいと思うことを、
君は察してくれ、言えない、という言葉で終わらす?
僕は、そういう態度で臨んでいますか?
そもそも、誰が僕を知りたいと思ってるんですか?
僕ですよね?
君ですか?
君が、僕を知りたいんですか?
君が僕を知りたいのであれば、
やっぱり君が僕と同じように、自分の言葉で、
なにがしかを、形にしていかないといけない。
それはダンスのようなものかもしれないし、
歌のような、声のような、響きを持って伝わるものかもしれない。
僕が何をしようとしているのか、
知りたいのであれば、質問してくれてもいいし、
blogを読んでくれてもいい。
でも、君が知りたいともしも思わないのであれば、
僕には一体何ができるんでしょうか。
僕にできる事は、僕が君を知りたいと思いながら、
僕を知らせていくことだ。
だからここに書いている。
そのことを、もう少し、切実に受け止めて欲しいと思います。
今以上に、気が狂いそうなほどに。
自殺も、ある意味で暴力だと考える事はできる。
未来の時点で僕の意志に反した事を、過去で親がやってるから、
僕が生まれてきた、という解釈ができますよね。
自殺について同じように考えると、
葬式など、僕が死んだ後の未来の人が「死んで欲しくない」
という意志を仮に持っていたとして、
過去の僕は、未来の人の意志に反して、暴力をふるうわけですよね。
で、そうなると、生きてる事自体が、強制力を伴っておきる現象、
ってことになりますけど、
あなたは強制的に生きてるんですか?
それとも、自分の意志で生きてるんですか?
という話に繋がってきます。
死人に口無し、という言葉があるけど、
まずこれって前提として、未来の人の思いが、
過去の人に伝わっていないと無理ですし、
逆にそれが伝わるんだとしたら、
過去の時点で未来を予想して、
先に反論を書いておかないといけませんよね?
じゃぁ未来からの暴力に備えて、
あらかじめ自殺してもいいことになるんですが。
というわけで、問題となるのは、
「意志」がコントロールできるのか、
伝わるのか、という事が重要になってきます。
僕は伝わらないかもしれない
と思いながら書いているのに、
君は「伝わっていないのが不可解です」という態度なの?
まず、そこが意味わからん。
伝わるか伝わらないか、書くまでわからないじゃないですか。
書くことをやめてしまったら、僕の思いは
伝わらないじゃないですか。
現に、君は僕がどんな思いで絶望的にテキストが編まれていくのか、
うまく観察できずにいるように見える。
あるいは、これが僕の思い込みだとしたら、
やっぱり僕はその思い込みを、
ここに書き出してみないと、わからないまんまじゃないですか。
わからないことをわかりたいっていう思いと
知らないことを知りたいって思いは、
似ている、少し違う、同じ、全く違う、
どういう尺度なんでしょうか。
僕は、わからない事がわかるかどうかは、
どれくらい考えるか、という事を関係があると思っています。
知りたい事を知るかどうか、は、
どれくらい知りたいのか、という事と関係があると思います。
それって熱意みたいなものですよね?
僕が知りたいと思うことを、
君は察してくれ、言えない、という言葉で終わらす?
僕は、そういう態度で臨んでいますか?
そもそも、誰が僕を知りたいと思ってるんですか?
僕ですよね?
君ですか?
君が、僕を知りたいんですか?
君が僕を知りたいのであれば、
やっぱり君が僕と同じように、自分の言葉で、
なにがしかを、形にしていかないといけない。
それはダンスのようなものかもしれないし、
歌のような、声のような、響きを持って伝わるものかもしれない。
僕が何をしようとしているのか、
知りたいのであれば、質問してくれてもいいし、
blogを読んでくれてもいい。
でも、君が知りたいともしも思わないのであれば、
僕には一体何ができるんでしょうか。
僕にできる事は、僕が君を知りたいと思いながら、
僕を知らせていくことだ。
だからここに書いている。
そのことを、もう少し、切実に受け止めて欲しいと思います。
今以上に、気が狂いそうなほどに。