よっちんのフォト日記

旅先や日常で感じたことを
写真と文章で綴ってみたい。
そう思ってブログを始めてみました。

岸和田の守り神-大阪府岸和田市:岸城神社

2024年04月30日 | 大阪(大阪市以外)
Kishiki Shrine, Kishiwada City, Osaka Pref.

さてさて、岸和田城のすぐ東側に岸城神社という立派な神社があるんです。
ワタクシ達は岸城神社の方に向かって歩いて行きました


この岸城神社ですが、約650年前に京都の八坂神社から素戔鳴尊(すさのおのみこと)を勧請してからは、
牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれ、地元の守り神として繁栄してきました


後に、慶長年間に秀吉の家臣・小出秀政が岸和田城を大改修するのを機に八幡大神を合祀しました。
それ以来代々の城主や住民にも厚く信仰されてきたそうです。
そして、明治維新で氏子が広範囲になり、「岸城神社」に改名されて現在に至っているんですよ


しかし、この岸城神社が何よりも有名なのは、「岸和田だんじり祭」の宮入りが行われる神社だということです。
だんじり祭では15台の地車(だんじり)がこの神社に宮入りするんです


随分とカラフルというか、ポップな大絵馬がありました。こういうのも今風なんでしょうかねぇ。
それとも「SNS映え」するので、こういうのがいいのでしょうか


再び岸和田城の方へ戻りました。濠の側に降りて行き、満開の桜の下を歩きます


この日(4月7日)は満開の桜に囲まれ、「城と桜」という組み合わせを満喫することが出来ました


多くの城に桜が植えられているというのは、先日のブログにも書きましたが決して城にとっては嬉しい過去ではありません。
しかし、今のワタクシ達には美しい天守閣と満開の桜を楽しむことが出来るのは、ありがたいことだと思います


ではでは、岸和田城はこれくらいにして、岸和田の町の方に向かうとしましょうか

使用したカメラ:1、4枚目はFUJIFILM X-T30、他はFUJIFILM X-Pro2


大阪で「お城」といえば誰もが思い浮かべるのは大阪城かと思います。大阪城と岸和田城を比べると城の規模も大きな差がありますし、
他府県から大阪に来る人でわざわざ岸和田城に行く人って、一部の歴史好きや城郭マニア以外にはあまりいないでしょうね。
でも、桜の季節とだんじり祭りの時には訪ねてみる価値もあるんじゃないかなぁ。



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廃城令-大阪府岸和田市:岸和田城

2024年04月29日 | 大阪(大阪市以外)
Kishiwada Castle, Kishiwada City, Osaka Pref.

さてさて、岸和田城に満開の桜を楽しみに来たワタクシ達ですが、
重森三玲の庭園を後にして、再びお濠に沿って植えられた桜を眺めながら岸和田城を周回しました


ところで、全国に桜の名所として知られる城は数多いですね。むしろ、観光地になっている城郭で、
桜を見ることができない城のほうが少ないような気がします。見事な天守を背景に桜が咲き誇る景色を見ると、
「昔のお殿様もこんな美観を 愛でていたんだな」と思ってしまうのですが、実はそうじゃないんですよ


城内に桜が咲き誇るようになったのは明治時代以降のことで、江戸時代までの城には今のように桜の木は生えていませんでした。
城下町や街道を見張るために城内の木々は基本的には伐採されており、植栽されていたのは食糧にもなる梅や、
合戦時に利用できる松・竹などに限られていたそうなんです


それではなぜ、明治以降の城に桜が植えられたのでしょうかか。それは城の保存運動と関係するんです。
明治政府が1873年に公布した廃城令によって、全国の城の破却処分が決定しました


多くの城で建物の処分が進み、城の敷地は埋め立てられて開発が進むか、放置されて荒れるにまかせた状態になってしまうんです。
今では想像できませんが、明治維新直後、城は江戸時代の象徴として忌むべき存在であり、
美術工芸的な価値も歴史的な価値もほとんど見いだされていなかったんですね


しかし、荒廃した城を目の当たりにして、保全しようという声も上がり始めるんですよ。
声を上げたのは、主に各藩の旧藩士らであったそうです。彼らは払い下げられていた土地や建物を買い戻し、
やがて市民公園として一般開放を目指すようになりました。その際、市民に親しまれるよう積極的に植樹されたのが桜でした


ワタクシは明治時代の「廃物令」によって日本各地の城郭建築が破壊されたことと、
「神仏分離令」によって始まった廃仏毀釈運動によって寺院建築や貴重な仏像等が破壊されたことは、
我が国の大きな財産損失だと思っています。残念で残念でならないのですよねぇ


どうも日本人というのは一つの方向に動き出すと、歯止めが効かないというか、同調圧力によって同じ方向を向いてしまう傾向がありますね。
その傾向は今も変わらない気がするのが悲しいです


ではでは、ちょっと城の周囲にも足を運んでみるとしましょうか

使用したカメラ:2、6、7、8枚目はFUJIFILM X-T30、他はFUJIFILM X-Pro2


廃城令が出された時に、各地の城が民間などに払い下げられたのですが、姫路城の天守ですら23円50銭という安値で落札されたそうです。
この価格ですが金額を現代に換算すると約10万円ほどだというから驚きです。
今ですと姫路城の天守の価値っていくらぐらいになるのでしょう。想像がつかないですね。



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独創的な庭園-大阪府岸和田市:岸和田城

2024年04月28日 | 大阪(大阪市以外)
Kishiwada Castle, Kishiwada City, Osaka Pref.

さてさて、桜を楽しもうと岸和田城にやって来たのですが、ワタクシは岸和田城には桜以外にも一つの楽しみがあったんです。
そのためには天守閣の方に行かねばなりません。ワタクシ達は天守閣へと向かいました


満開の桜に囲まれて城内へと歩いて行きます。ワタクシはワクワクする気持ちでありました


ここには昭和の京都を代表する作庭家・重森三玲が作庭した石庭である「八陣の庭」があるんです。
ワタクシにとって岸和田城の一番の魅力は、この素晴らしい石庭なんですよ


ワタクシはこのブログに何度か書いているのですが、「庭園」というものに大きな興味を持つ契機となったのが重森三玲でした。
重森三玲は昭和期の日本の作庭家であり日本庭園史の研究家です。ワタクシは京都の東福寺にある方丈庭園を見た時に、
言葉では表現できないほどの衝撃を受け、それ以降、寺院の庭園というものに強い興味と関心を抱くようになったんです
https://blog.goo.ne.jp/harigatake1961/e/e1b68215e53fe1d75ed3ef1d64239920


この「八陣の庭」なのですが、天守の再建とほぼ時を同じくして1953年に作庭されました。重森三玲の庭園を初めて見る人からしたら
「これが日本庭園?」と思ってしまうような、直線的なデザインが唯一無二の特徴と言えるでしょうね


この独創的なデザインのモチーフとなったのは『三国志』で有名な諸葛孔明の「八陣法」です。
中央の“大将”を中心に、石組で表現した天陣・地陣・竜神・虎陣・風陣・雲陣・鳥陣・蛇陣の“八陣”が360度に配され、
その周囲を回遊しながら天守閣を背景にしながら、表情が変わる庭園の姿を楽しむことができます


この庭園の素晴らしさの一つが「天守閣最上階からの垂直の視点/俯瞰の眺望を意図してデザインされていること」なんです。
本当なら天守閣に上ってこの庭園を俯瞰したかったのですが、ワタクシ達は朝早くに行ってしまったので天守閣はまだ開いていませんでした。
以前に天守閣の上から眺めた写真があるので、ぜひ見てくださいね
https://blog.goo.ne.jp/harigatake1961/e/55f448212400a74b639474171277c5a8#comment-list


ワタクシは重森三玲の庭園に出会ったことで、日本庭園というものに強い興味を持つようになりました。
もし三玲の庭園に出会わなければ、いろんな庭園を見ても「ああ、すごいなぁ」「綺麗やなぁ」ぐらいの感想しか感じなかったでしょうね。
ワタクシにとって重森三玲は「庭園の素晴らしさ」をレクチャーしてくれた偉大な先生なのです


ではでは、岸和田城の素晴らしい桜をもうちょっと見に行くとしましょうかね

使用したカメラ:2、6、7枚目はFUJIFILM X-Pro2、他はFUJIFILM X-T30


私は奈良も好きなのですが、飛鳥時代や奈良時代に作られた寺院には「庭園」というものがありません。
伽藍の美しさ、仏塔の素晴らしさは奈良のお寺でも十分に感じることが出来るのですが、庭園が無いんですよね。
寺院に庭園が造られるようになったのは平安時代の中期からですので、こればかりは仕方がありませんね。



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城と桜-大阪府岸和田市:岸和田城

2024年04月27日 | 大阪(大阪市以外)
Kishiwada Castle, Kishiwada City, Osaka Pref.

さてさて、4月7日の日曜日なのですが、ワタクシは家人と桜を見に行こいうと話をしていました。
前日、家人に「どこか行きたいとこあるか?」と訊くと、「岸和田城って行ったことないんやけど桜はあるの?」と言うので、
「お城の周りは結構な桜があるで。岸和田城に行こか」ということになりました


朝8時30分に岸和田城に到着しました。岸和田というと全国的には「だんじり祭り」で有名ですね。
あと朝ドラ「カーネーション」で取り上げられた小篠綾子と娘のコシノ三姉妹も有名ですし、
さらには元プロ野球選手の清原和博も岸和田出身で、清原は岸和田市民栄誉賞を受賞しています。
ただ、清原の場合はその栄誉に泥を塗ってしまいましたがね


同じ大阪ですがワタクシが暮らしているのは南河内と呼ばれるエリアです。岸和田は泉州と呼ばれる地域になり、
他県民には分かりにくいかもしれませんが言葉も微妙に違うんですよ


この日、岸和田城は「お城まつり」が開催されており、ワタクシ達がお城に着いた時には多くのテキ屋が露店の準備をしていました。
日曜日、満開の桜、晴天…イベントにはこれ以上の条件はありませんな


この岸和田城なのですが、伝承では、建武新政期に楠木正成の一族、和田高家が築いたといわれています。
そして1585年、羽柴秀吉は紀州根来寺討滅後、叔父小出秀政を城主として城郭の整備をさせ、天守閣もこの時に築かれました


天守閣は1827年に落雷で焼失しました。明治維新期には櫓・門など城郭施設を廃城令によって破壊してしまったため、
近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していません。
廃城令というものがなかったら、我が国には素晴らしい城郭建築が数多く残っていたはずですので残念でなりません


現天守閣は、昭和29年に建造された3層3階の天守です。本来は5層天守であったことが絵図などで確認されています。
今の時代であったら史料に基づいて5層天守を復元したでしょうが、当時はそんな発想も無かったのでしょうね


ま、そういったことはさておきまして、この日の岸和田城は満開の桜に彩られておりました。
前日は「笠置駅の桜」「柳生の里の桜」を満喫したのですが、二日続けて素晴らしい桜を楽しむことが出来ました


ではでは、天守閣の方に向かうとしましょうか。天守閣の前にある庭園にはワタクシの大好きな場所があるんですよ

使用したカメラ:3、5、7枚目はFUJIFILM X-T30、他はFUJIFILM X-Pro2


大阪府であっても私にとって岸和田市や泉佐野市などがある「泉州」という地域はあまり行く機会がありません。
でも、大分県日田市出身の家人は「大分市や別府なんて滅多に行くことなかったわ。津久見とか佐伯なんて行ったことないで」と言います。
同じ県内だからといっても行く理由が無ければ、行くことがない場所があるのは当然ですね。



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菅原道真-大阪府藤井寺市:道明寺天満宮

2024年03月06日 | 大阪(大阪市以外)
Domyoji Tenmangu Shrine, Fujiidera City, Osaka Pref.

さてさて、道明寺天満宮を訪れたワタクシは、梅が見頃の梅園で観梅を楽しみました


ところで、ここ道明寺天満宮のように菅原道真を祀る神社は、実に全国で12000社になるそうですが、
この菅原道真というのはどういう人物なのでしょうか


道真は中級貴族の学者の家柄に生まれましたが、宇多天皇に寵愛されて高い地位に登っていきます。
宇多天皇は、権勢を誇る藤原氏に対抗させるため道真を登用したとされており、ついには右大臣に出世するんですね。
こうした出世が当然ながら他の貴族たちの反発を呼び、ライバルの藤原時平は宇多天皇の跡を継いだ醍醐天皇に対して
「道真があなたを廃して娘婿の斉世親王(醍醐の弟)を即位させようと企んでいる」と醍醐天皇に根も葉もないことを言うんですな


この言葉を信じた醍醐天皇は、九州の大宰府へ道真を左遷します。2年後、無念の涙をのみながら道真は太宰府で死去しました。
その後、京都では次々と不吉な出来事が起こるんですね


道真の死から5年後の908年、藤原菅根が雷にあたって死にました。菅根は道真の弟子だったのに、道真の失脚に加担した人物でした。
さらに翌年、道真を不幸に追いやったライバルの藤原時平が、39歳の若さで急死しましたた。
この頃から洪水、長雨、干ばつ、伝染病など変異が毎年のように続くようになり、
京の都では「道真が怨霊となり、祟りをなしているのではないか」と噂されるようになったんですよ


923年、醍醐天皇の皇太子の保明親王が21歳の若さで亡くなります。保明は、藤原時平の妹・穏子が産んだ子でした。
わずか2歳で皇太子となったのだが、即位することなく死去したわけですね。醍醐天皇もこれは道真の祟りではないかと考えるようになり、
周囲の勧めもあったのでしょう、道真の大宰府行き命じた勅書を破棄し、その地位を右大臣に戻したうえ正二位を追贈しました


しかし新たに皇太子となった保明の子・慶頼王も、2年後に5歳で死去します。慶頼の母の仁善子は時平の長女に当たります。
930年、御所の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫と右中弁の平希世が亡くなりました。
これに衝撃を受けた醍醐天皇は体調を崩し、皇太子の寛明親王(保明の弟)に皇位を譲り、その年のうちに崩御しました


そこで朝廷は、道真の霊を供養するために北野天満宮を創建することを容認します。
ちょうどこの時期、平将門の乱や藤原純友の乱などが続発しており、都の貴族たちは不安にさいなまれていたこともあり、
北野天満宮の建設は貴族たちにも容認されたようですね


都の貴族たちは、雷神という祟る怨霊を神社に祀り上げることによって、学問神へと変化させたということですな

使用したカメラ:FUJIFILM X-T30


私は菅原道真の功績の中で一番印象深いのは、遣唐使の廃止を天皇に提言し、それが認められたことなんですよ。
道真は唐の国力が衰え、大きな危険を冒して遣唐使を派遣する意味がないと考えたので、このような提言をしたのですが、
907年に唐は滅んでしまうのですから、道真には先見の明があったということですね。
そして、唐からの影響が無くなったことによって、日本独自の文化が育っていくわけですな。



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