Higashi Honganji Temple, Shimogyo Ward, Kyoto City
さてさて、ワタクシ達は東本願寺へとやって来たのですが、東本願寺から10分も歩けば西本願寺があります。
それぞれ「お東さん」「お西さん」と京都の人は呼ぶのですが、なぜ本願寺は東と西の二つがあるのでしょうか。
同じ浄土真宗でありながら、東本願寺を本山とする真宗大谷派と西本願寺を本山とする本願寺派に分かれたのは
ざっと説明すると次のような経緯があるんです
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実は本願寺は今から500年前の戦国時代には1つでした。
しかし織田信長が今の大阪城の場所にあった石山本願寺を攻めた石山戦争をきっかけに2つに分かれたんですよ
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当時の石山本願寺は、室町時代に浄土真宗を再興した蓮如(れんにょ)によって建立された浄土真宗の一大拠点であり、難攻不落の砦でした。
織田信長は、石山本願寺を10年以上攻め続けましたが、結局石山本願寺を降伏させることはできませんでした。
しかし浄土真宗との戦いに天下統一の足止めされることを嫌った信長は、当時の正親町天皇を間に入れて和睦を求めました。
その時に本願寺内で信長と和睦するか、徹底的に戦うかで議論が分かれ、この2つの考えによって本願寺内が2派に分かれてしまったのです。
これが本願寺が東と西に分かれるきっかけなんです
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当時の石山本願寺のトップは顕如(けんにょ)でしたが、顕如と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を主張し、
長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張し、激しく対立しました。
最終的には顕如が和睦を決め、石山本願寺を明け渡して准如と共に和歌山の鷺森別院に移転したのですね
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これで信長と浄土真宗の争いはひと段落しましたが、争いの火種はまだ残っていました。
信長はその火種を完全に消そうと明智光秀に本願寺の攻撃を命じましたが、光秀は「敵は本願寺にあらず、本能寺にあり」と言って、
本願寺ではなく本能寺に攻め入って信長を討ってしまいました。これが本能寺の変ですな。
この結果、浄土真宗は滅亡の危機から逃れることができました
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しかし顕如と教如の間に生まれた溝は埋まることがなく、顕如は浄土真宗のトップの座を長男の教如ではなく三男の准如に譲りました。
納得できないのは教如です。時代の支配者は徳川家康に移っていましたが、家康にとっても浄土真宗は目の上のたんこぶでした
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家康はこの勢力を弱めようとして、不満を持っている教如に寺地を寄進して、東本願寺を別に建てさせました。
この結果、本願寺は東と西に完全に分かれ、敵対してしまったのですね。
ちなみに本願寺派の信者は約790万人、真宗大谷派の信者は約320万人と言われています。
両方を合わせれば門徒の数は軽く1000万人を超えるのですから、浄土真宗って紛れもなく最大の宗派なんですね
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こんなものがありました。自分の持っているスマートフォンでQRコードを読み込むと、おさい銭を納めることができるという仕組みです。
便利と言えば便利なのでしょうが、なんとも味気ないなぁと思うのはワタクシの感覚が古いんでしょうかねぇ
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使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2
宗教が、世界の平和や紛争の解決にたとえ微々たるものであっても、なんらかの力を持っているのではないかと私は思っていました。
しかし、ロシア正教会トップのキリル総主教は、ウクライナ侵攻を「祝福」しました。
他国への侵略を認めるだけでなく、それを「祝福」する。全面的な支持を与えたのです。
世界の宗教指導者は、この状況をどう感じているのでしょうね。
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さてさて、ワタクシ達は東本願寺へとやって来たのですが、東本願寺から10分も歩けば西本願寺があります。
それぞれ「お東さん」「お西さん」と京都の人は呼ぶのですが、なぜ本願寺は東と西の二つがあるのでしょうか。
同じ浄土真宗でありながら、東本願寺を本山とする真宗大谷派と西本願寺を本山とする本願寺派に分かれたのは
ざっと説明すると次のような経緯があるんです
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実は本願寺は今から500年前の戦国時代には1つでした。
しかし織田信長が今の大阪城の場所にあった石山本願寺を攻めた石山戦争をきっかけに2つに分かれたんですよ
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当時の石山本願寺は、室町時代に浄土真宗を再興した蓮如(れんにょ)によって建立された浄土真宗の一大拠点であり、難攻不落の砦でした。
織田信長は、石山本願寺を10年以上攻め続けましたが、結局石山本願寺を降伏させることはできませんでした。
しかし浄土真宗との戦いに天下統一の足止めされることを嫌った信長は、当時の正親町天皇を間に入れて和睦を求めました。
その時に本願寺内で信長と和睦するか、徹底的に戦うかで議論が分かれ、この2つの考えによって本願寺内が2派に分かれてしまったのです。
これが本願寺が東と西に分かれるきっかけなんです
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当時の石山本願寺のトップは顕如(けんにょ)でしたが、顕如と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を主張し、
長男の教如(きょうにょ)は徹底抗戦を主張し、激しく対立しました。
最終的には顕如が和睦を決め、石山本願寺を明け渡して准如と共に和歌山の鷺森別院に移転したのですね
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これで信長と浄土真宗の争いはひと段落しましたが、争いの火種はまだ残っていました。
信長はその火種を完全に消そうと明智光秀に本願寺の攻撃を命じましたが、光秀は「敵は本願寺にあらず、本能寺にあり」と言って、
本願寺ではなく本能寺に攻め入って信長を討ってしまいました。これが本能寺の変ですな。
この結果、浄土真宗は滅亡の危機から逃れることができました
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しかし顕如と教如の間に生まれた溝は埋まることがなく、顕如は浄土真宗のトップの座を長男の教如ではなく三男の准如に譲りました。
納得できないのは教如です。時代の支配者は徳川家康に移っていましたが、家康にとっても浄土真宗は目の上のたんこぶでした
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家康はこの勢力を弱めようとして、不満を持っている教如に寺地を寄進して、東本願寺を別に建てさせました。
この結果、本願寺は東と西に完全に分かれ、敵対してしまったのですね。
ちなみに本願寺派の信者は約790万人、真宗大谷派の信者は約320万人と言われています。
両方を合わせれば門徒の数は軽く1000万人を超えるのですから、浄土真宗って紛れもなく最大の宗派なんですね
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こんなものがありました。自分の持っているスマートフォンでQRコードを読み込むと、おさい銭を納めることができるという仕組みです。
便利と言えば便利なのでしょうが、なんとも味気ないなぁと思うのはワタクシの感覚が古いんでしょうかねぇ
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使用したカメラ:FUJIFILM X-Pro2
宗教が、世界の平和や紛争の解決にたとえ微々たるものであっても、なんらかの力を持っているのではないかと私は思っていました。
しかし、ロシア正教会トップのキリル総主教は、ウクライナ侵攻を「祝福」しました。
他国への侵略を認めるだけでなく、それを「祝福」する。全面的な支持を与えたのです。
世界の宗教指導者は、この状況をどう感じているのでしょうね。
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東本願寺と西本願寺の意味がよく分かりました。
また、和歌山の鷺ノ森別院の出来たいきさつも
ありがとうございました。
いい勉強になりました。
画像を見るのも忘れて
歴史物語を拝読しました
いい勉強になりました
ありがとうございます
昨日忙し過ぎました
またお邪魔します
宗教指導者としては、和睦を選びそうな
ものですが、長男は戦う道を選んだんですね~。
その選択が正しかったのか、よく分かりません。
ロシア正教もしかり。
凸
ます。東本願寺と西本願寺は
はじめは1つだったのですね〜
歴史の流れがよくわかりました。凸
主人の方はお西さんですが最近は京都でなく地元の別院でお詣りです
信長も家康も宗教にはちょっと大変だったですね
スマホでお賽銭 きいたことあります
でも なんか・・・私も 味気ない気がします
便利なんでしょうが・・・
スマホでお賽銭は初めて知りました(^0^;)
実に味気ないですね。
東本願寺と西本願寺の成り立ち…!
詳しく説明して頂き
よく分かりました^^
ちゃんと歴史を知ることの大切さを
よっちんさんから教えてもらってます🎵
☆
実家はお東、大谷派。仏壇は地味だけど、アタクシは好き。婚家先はお西さんで、仏壇はキラキラ〜。我が家で祀ってます。
そういえば、実家の父は和議なんて、絶対に無理そうでした。笑笑
義父の方が、先を考えての和議派。こう想像して楽しくなりました。
人間って、欲の塊ですね。自分が一番。
ワタクシ、自身もなかなかの煩悩人間です。
よっちんさん。ありがとうございます。すっごくスッキリしました。