続 壺 齋 閑 話
壺齋閑話の続編です 初編壺齋閑話は こちら から閲覧できます
朴裕河「反日ナショナリズムを超えて」
続壺齋閑話 (2021年11月23日 17:06) |
朴裕河は、日本では、「帝国の慰安婦」の作者として話題になった。
この本を小生は読んでいないが、日本では好意的に受け取られた一方で、韓国ではすさまじいバッシングにあったようだから、おそらく、慰安婦の問題では、日本側に一定の配慮を見せつつ、韓国側に反省を迫ったものなのだろう。
「反日ナショナリズムを超えて」は、世紀の変わり目の2000年に書かれており、1990年代に悪化した日韓関係について取り上げたものだ。
日韓関係は、1965年の日韓国交正常化以後順調に改善されてきたように見えたが、1990年代の前半には最悪の状態に陥った。
それには、1991年にいわゆる従軍慰安婦問題が表面化し、それが次第に白熱化した事情があったといえる、この問題が表面化したことによって、日本による韓国支配のおぞましい記憶が韓国人の間によみがえり、強烈な反日感情が高まっていった。
そういう時代風潮を背景にして、朴裕河が、反日ナショナリズムに警告を与え、日韓関係の望ましい形とは何か、について問題提起を行ったというのが、この本が書かれたそもそもの動機のようである。
もっともこの本では、反日ナショナリズムの火付け役となった従軍慰安婦問題については全く触れられていない。
だから、この本を読んだ限りでは、韓国人の反日ナショナリズムの高まりは、日本の韓国支配という歴史問題一般に原因があるというふうに受け取れる。
だから、やや筆の勢いが鈍っているきらいがある。
なぜ韓国人がかくも日本人を憎むのか、それが現実感を以て伝わってこないのだ。
もし従軍慰安婦問題のような具体的でなまなましい事柄が対立感情の根源にあることが明確化されていれば、問題の受け止め方はもっと違ったものになったはずだ。
それなのに朴がなぜことさらに、従軍慰安婦問題を避けたのか、ちょっとわかりにくいところがある。
従軍慰安婦問題については、日本側からは、アジア女性基金に深くかかわった大沼保昭などの研究がある。
大沼は、彼一流の責任感から慰安婦問題についての日本人としての責任を果たしたいと考えたわけであったが、その考えが、韓国人にはなかなか受け入れられず、アジア女性基金の韓国での活動は、あまり成果のないものに終わった。
その理由の一つとして大沼は、韓国のNGOが揃ってアジア女性基金の活動に非協力的だったことをあげているが、なぜそうなるのかについては、あまり触れていない。
ところが朴のこの本を読むと、1990年代に韓国内ですさまじい反日ナショナリズムが高まっていて、日韓間が理性的な関係を築きにくい事情があったことがよくわかる。
そういう韓国内の反日ナショナリズムに、従軍慰安婦問題が火をつけたということを踏まえれば、朴がこの本の中でそれを全く取り上げていないのは不可解ともいえよう。
将来の世代がこの本を読んでも、なぜ韓国人がこれほどまでに反日的感情にかられたか、実感をもって理解することがむつかしいであろう。
そういうわけだから、朴の問題の処理の仕方はかなり抽象的である。
彼女がこの本で展開しているのは、韓国人の反日感情の不合理さを指摘することと、その裏返しとしての、望ましい日韓関係を築くうえで韓国人として留意すべきことがらを忠告するということだ。
その場合に、韓国人の反日感情を植民地支配されたことに対する劣等感に求め、その裏返しとしての、日本に対する滑稽なまでの優越感を指摘している。
それを読むと、韓国人は夜郎自大で、しかも一時の激情にかられやすい愚かな民族として伝わってくる。
一方日本は、いろいろ事情はあるにせよ、世界の強国になった実力を持っているのであり、見習うべき点もある。
だから韓国人はよく頭を冷やして、合理的に行動すべきである。
現実の韓国人は、激情のあまりに頭が働かなくなり、したがってその足つきは非常に心もとない。それでは韓国にとって明るい未来はない。
朴の主張は、つきつめればそういうことになる。
だから、一方では韓国人の怒りをかい、他方では日本人のそれ見たことかといった優越感を満足させることとなる。
じっさいに、日韓両国民の間ではそう受け止められた。朴はそうなることを恐れて、この本の日本語訳をしばらくためらっていたそうだ。
じっさい、この本のなかで朴がくり広げる同時代の韓国人同胞への批判は、かなり嘲笑的なものだ。
韓国人同胞から見れば、そこまでして同胞を貶めてどこが面白いのかという反発につながるだろうし、日本人にしてみれば、韓国人が日本に支配されたことには相当の理由があったとして、部分的にではあっても、それを正当化する根拠ともなる。
日本人の読者ならば、物わかりのよい韓国人が、物わかりの悪い馬鹿な韓国人に説教を垂れているように映ることだろう。
だが、朴が韓国人に対して言っていることは、そのまま日本人にもあてはまることが多い。
韓国人が狭い了見のナショナリズムにとらわれるのと同じように、一部の日本人も狭い了見にとらわれている。
だから、問題なのは、ある特定の民族が狭い了見にたまたま囚われたということではなく、狭い了見が人類の多くの構成員をとらえやすいという事実の重みだということになろう。
ともあれこの本が日本人の読者にとって何か意義を持つとすれば、それは韓国人の日本に対する憎悪が、長い歴史的な事情を踏まえているということを認識させられることだろう。
秀吉の朝鮮征伐を想起する日本人はほとんどいないといってよいが、韓国人はそれを倭乱といって、つねに意識しているという。
つまり韓国人は、日本人がとっくに忘れてしまったことをいつまでも忘れずにいて、何かにつけてはそれを日本非難の材料として使う。
そんな隣人とどう付き合ったらいいのか、日本人にもそれなりに考えることを促す、というのがこの本の存在意義だといえなくもない。
つまり国レベルの付き合いにおいては、歴史をふまえて互いに尊重しあうという姿勢がないと、いつまでも不毛な対立が続くということだろう。
一つ気になったのは、金芝河のことを朴が、かなり否定的に書いていることだ。
朴は金を現代の民族主義を代表する人物で、日本でいえば右翼といってよい、と書いている。
その右翼の金が、檀君神話などに依拠しながら、韓国の民族としての誇りを説き、結果として韓国人の狭い了見を煽っているというわけである。
金芝河といえば、日本では反独裁の詩人として知られ、かれが権力によって迫害されたときには、日本の左翼知識人たちはこぞって救済運動を繰り広げたものだ。
その金芝河が朴の目には、右翼の民族主義者と見られているのは面白い。
朴は日本の「新しい歴史教科書を作る会」の活動を、荒唐無稽な民族主義の現れだと批判するのだが、その荒唐無稽な日本の民族主義者の活動と金芝河のそれとは変わりがないというのである。