あれから4年
東日本大震災から4年が経ちました。
2年前の3月11日の記事でも書きましたが、当時の事は今でもよく覚えています。
前に書いたように、プライベートな部分でも仕事の部分でも不思議なくらいあの日、あの頃の事は記憶に残っています。
その中の一つに書籍「平成ゴジラ パーフェクション」の企画のエピソードがあります。
あの頃、書籍「平成ゴジラ パーフェクション」(当時まだ名前は決まっていません)の立ち上げに向けて動いていた時でした。「どこ(の出版社)にするかはあんたに任せるからうまくやってくれよ」と、監修の川北監督に一任していただきましたので、スタッフはまだ私一人。
出版元のアスキー・メディアワークス(当時株式会社、現BC)との交渉中。電撃ホビーマガジンを窓口として特撮のムック本を出すのは初めてという事で、アスキー・メディアワークスも慎重になっていました。1ヶ月かけて何度かメールや電話でプレゼンを試みて、ようやく川北監督と会って話していただける段取りをつけた矢先の事でした。
アスキー・メディアワークスに話を持ちかけたのは私です。中規模、小規模の出版社からこれまで多くのゴジラ本は出されていますが、いずれもマニアックな部分を重視したものがほとんど。逆に講談社や小学館、学研と言った大手から発売されたものの多くは、比較的ターゲットの年齢層が低いものばかりでした。
これまでにないゴジラ本にしないと意味はないし、売れなければ川北監督のお名前にも傷をつけてしまいます。
マニアだけではなく一般までも対象とし、少数部数の発行ではないビジュアルがたくさん載っているゴジラ本。推測される予算の事も考えれば、中規模小規模の出版社では無理なわけです。
そして特撮本の編集パターンやライター・編集者が固定化されている所では避けたかったのです。
ですから、あえて今までこういったゴジラ本を出した事のない大手の一つである角川グループ(当時)のアスキー・メディアワークスに話を持っていったのです。他社には企画は出していません。
しかし、交渉を続けていくうちに、どういう本にしたいのか、先に送ってある企画書や提案書の文面、言葉だけのプレゼンだけでは、説得できそうもない雰囲気の流れでした。ですからデザイン面でのイメージビジュアルを何ページか用意して、プレゼンの素材として作る事にしました。
3月11日は、1週間ぐらいかけて他の仕事の合間に作ったそのプレゼン用のビジュアルのメドが立って一安心して、シャワーを浴びて一休みしようとしていました。
その時に大きな揺れがあり、羽沢組事務所では積み重ねていたたくさんのものが上から落ちてきました。
仕事場のシャワーのあるユニットバスのドアの左右にはたくさんのものが積んであったので一斉に崩れ、5分揺れがずれていたら間違いなく閉じ込められていましたと思うと、ぞっとしたのを覚えています。
3日経ち、その間、原発の問題が大きく報道されるようになりました。
ゴジラは放射能とは無関係ではありません。『ゴジラVSデストロイア』では「メルトダウン」という言葉も登場します。
こういった時期に、ゴジラの本を出すという事はどういう事なのか、その3日後に川北監督と電話で話しました。
私と川北監督の胸にとどめておけばいい事なので、詳細は言えませんが、おそらく一生この時の事は忘れないと思います。
話した後に思ったのは、「川北監督のためにもこの本は何としても実現させなきゃならない」、「震災と関連させられて“ゴジラ”と“川北紘一”の名前に傷をつけてはならない」の2つでした。
予定より数日遅れましたが、アスキー・メディアワークスとの交渉はうまくいき、編集がスタートしました。
数ヶ月後に無事本は発売されました。
あれから4年。
川北監督はもういらっしゃいませんが、この日を迎えると、様々な事と一緒にパーフェクションの事や川北監督の事も考えてしまう私です。
余談ですが、今「平成ゴジラ パーフェクション」は在庫がなく、ン万円の値がついて取引されているそうです。
昨年から増刷を何度か提案していますので、確定したらお知らせします。
未だ被災地には多くの諸問題があります。テレビや新聞などでしか情報を知る術はありませんが、一日も早い復興を祈るばかりです。
東日本大震災から4年が経ちました。
2年前の3月11日の記事でも書きましたが、当時の事は今でもよく覚えています。
前に書いたように、プライベートな部分でも仕事の部分でも不思議なくらいあの日、あの頃の事は記憶に残っています。
その中の一つに書籍「平成ゴジラ パーフェクション」の企画のエピソードがあります。
あの頃、書籍「平成ゴジラ パーフェクション」(当時まだ名前は決まっていません)の立ち上げに向けて動いていた時でした。「どこ(の出版社)にするかはあんたに任せるからうまくやってくれよ」と、監修の川北監督に一任していただきましたので、スタッフはまだ私一人。
出版元のアスキー・メディアワークス(当時株式会社、現BC)との交渉中。電撃ホビーマガジンを窓口として特撮のムック本を出すのは初めてという事で、アスキー・メディアワークスも慎重になっていました。1ヶ月かけて何度かメールや電話でプレゼンを試みて、ようやく川北監督と会って話していただける段取りをつけた矢先の事でした。
アスキー・メディアワークスに話を持ちかけたのは私です。中規模、小規模の出版社からこれまで多くのゴジラ本は出されていますが、いずれもマニアックな部分を重視したものがほとんど。逆に講談社や小学館、学研と言った大手から発売されたものの多くは、比較的ターゲットの年齢層が低いものばかりでした。
これまでにないゴジラ本にしないと意味はないし、売れなければ川北監督のお名前にも傷をつけてしまいます。
マニアだけではなく一般までも対象とし、少数部数の発行ではないビジュアルがたくさん載っているゴジラ本。推測される予算の事も考えれば、中規模小規模の出版社では無理なわけです。
そして特撮本の編集パターンやライター・編集者が固定化されている所では避けたかったのです。
ですから、あえて今までこういったゴジラ本を出した事のない大手の一つである角川グループ(当時)のアスキー・メディアワークスに話を持っていったのです。他社には企画は出していません。
しかし、交渉を続けていくうちに、どういう本にしたいのか、先に送ってある企画書や提案書の文面、言葉だけのプレゼンだけでは、説得できそうもない雰囲気の流れでした。ですからデザイン面でのイメージビジュアルを何ページか用意して、プレゼンの素材として作る事にしました。
3月11日は、1週間ぐらいかけて他の仕事の合間に作ったそのプレゼン用のビジュアルのメドが立って一安心して、シャワーを浴びて一休みしようとしていました。
その時に大きな揺れがあり、羽沢組事務所では積み重ねていたたくさんのものが上から落ちてきました。
仕事場のシャワーのあるユニットバスのドアの左右にはたくさんのものが積んであったので一斉に崩れ、5分揺れがずれていたら間違いなく閉じ込められていましたと思うと、ぞっとしたのを覚えています。
3日経ち、その間、原発の問題が大きく報道されるようになりました。
ゴジラは放射能とは無関係ではありません。『ゴジラVSデストロイア』では「メルトダウン」という言葉も登場します。
こういった時期に、ゴジラの本を出すという事はどういう事なのか、その3日後に川北監督と電話で話しました。
私と川北監督の胸にとどめておけばいい事なので、詳細は言えませんが、おそらく一生この時の事は忘れないと思います。
話した後に思ったのは、「川北監督のためにもこの本は何としても実現させなきゃならない」、「震災と関連させられて“ゴジラ”と“川北紘一”の名前に傷をつけてはならない」の2つでした。
予定より数日遅れましたが、アスキー・メディアワークスとの交渉はうまくいき、編集がスタートしました。
数ヶ月後に無事本は発売されました。
あれから4年。
川北監督はもういらっしゃいませんが、この日を迎えると、様々な事と一緒にパーフェクションの事や川北監督の事も考えてしまう私です。
余談ですが、今「平成ゴジラ パーフェクション」は在庫がなく、ン万円の値がついて取引されているそうです。
昨年から増刷を何度か提案していますので、確定したらお知らせします。
未だ被災地には多くの諸問題があります。テレビや新聞などでしか情報を知る術はありませんが、一日も早い復興を祈るばかりです。